線とマチエール

このBlogの日記は私小説風の体裁を取っています。そのため、出来事、登場人物の心境には作者の主観も含まれます。予めご了承ください

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 中国武術には多くの型がありますが、僕はその型の原形を「黙念師容」という言葉に見ています。「黙念師容」とはいわば「見取り稽古」で、「師の容姿を黙して念ずる」事。果たしてどんな姿を念ずるかと言うと、実は老師は必要な情報を瞬間的にしか与えてくれない。覚えるべき型を一瞬パッとやって「ハイ、どうぞ」。昔日は一日に三度以上同じ動作を求めたら怒られたそうです。

 一見封建的で古めかしい考えのように思えますが、実は僕は最近これを一つの「方法」として見ています。

 拳法の上達のプロセスに「練拳三層」というものがありますが、その初めのステップがこの「黙念師容」です。弟子はまず瞬間的な情報を全身で反芻しようとする。そのためフィジカルに「型」を追い求めます(この段階を「練精」といいます。精は肉体的なものの意)。こうした事を毎日繰り返すと、次には外部から入ってきた情報であるはず師の姿が、次第に自身の内面から想起されるようになります(「練精化気」。気は想起されたイメージや感覚くらいの意)。そして次にはとうとうその人自身の内面から想起されたイマジネーションが、明確な認識として身についてゆく(「練気化神」。神は認識くらいの意)。

 これは自分で体験して言えることですが、こうして身についた「認識」はいわゆる外部から得ただけの情報や知識とは全く異なるもので、真に自身の「智慧」といってよいと思います。

 僕がこの「黙念師容」を「方法」と思うのは、TVやインターネットで得た情報を鵜呑みにするだけのメディアとユーザの関係に対し、明らかに封建時代的な「黙念師容」のあり方のほうが有効に思えるからで、同じ「情報」という言葉で括ってみても、全く意味の位相が違ってきます。


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 話は変わって僕は自分の流派との関係から「易」を良くたてますが、ここにも一つの「方法」を感じます。「易」はざっくりといって卦辞(六十四卦の意味)とその補足から成り立ちますが、僕は個人的な方法として、卦の「文脈」と「象徴的」なイマージュの重なりで、読み解く事をします。

 「易」にはその陰陽のイマージュからも察せられる通り、二律背反するイマージュが同居する独自の文章スタイルがあり、そこに多様なイマジネーション(象徴)の重なりがあります。

 いわば「易」の六十四卦とは、固定され予定された意味や結論ではなく、常に現在進行形で進んでゆく「物語」ともいえます。しかし、ここで肝要なことは、この物語は現在も動くからといって、右とも左とも取れる曖昧なままの状態にしてはいけない。そこは占者は「占断」といって、その変容する物語を「ここっ!」という呼吸で断じなければいけない。そしてさらに肝要な事は、「断じる」といっても、それは僕個人の主観や偏見で決め付けてはいけない。

 この「占断」の呼吸は実は先にお話しした「練拳三層」のプロセスに良く似ています。

 まずはフィジカルに「文脈」を追う。この場合も「易」は拳法の師の如く、すぐにその意味を反転してきます。そして次に「問」に対する「答」がある種のイマージュとして占者の内面から想起されてくる。しかして最後はその「答」が明確な「認識」として占者の意識に昇ってくる。その瞬間を捉えて「占断」するわけです。
※註。例えば僕の回答が時折支離滅裂になるときは、そのプロセスが上手くいっていないのです(笑)

 ここにも僕は何か物事を熟考する「方法」が隠されているように思います。


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 話はまた変わりまして、大本教という明治時代に生まれた神道系の宗教の考え方には、「幽の幽」「幽の顕」「顕の幽」「顕の顕」という四つの段階があります。これを僕は老荘の「一、二、三」の万物生成のプロセスと見ていますが、以前も書いたとおり、それは「無(若しくは一者)」であると言葉にした途端、その「無」は人間の認識の上に昇り、それは純粋なイデアとしての「無」ではなくなるので「二」。しかしこの「二」のポテンシャルには純粋なイデアとしての「無」を想起させる何かが含まれているとして「三」。僕たちの物質世界への認識はこの「三」によっているというもの。

 ここで話を戻しまして、この大本教の「幽・顕」ですが、ちょうど純粋なイデアとしての「無」が「幽の幽」。次に「二」に当たるのが「幽の顕」、そして万物生成が「顕の顕」。そしてちょうど「三」に当たるのが「顕の幽」。大本教のイマージュでは「三」は一度「隠れる」わけです(若しくは「三」が創造性の場に反転する)。


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 僕はこの「三」のイマージュにも以上の文脈でいうところの「方法」が隠されていると思っていて、この「三」のイマージュには古今東西様々なパターンがあります。

 以下覚書として書き出すと、、、

 三位一体/古事記の独り神/老荘の「一、二、三」/三倍偉大なヘルメス/トリックスター(愚者)/プラトンのイデア/イスラムの「有無中道の実在」/能の式三番/龍樹の「空仮中」/空海の三密/ツクヨミなどの三貴神 etc、、、


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 話はまたまた変わりまして、最近この国では、何か不祥事があるとその解決として「禁止」するという事がよくおこりますが(レバ刺しや入れ墨やお酒とか etc、、、)、僕はAに対立するからBを「禁止」するという発想は、問題解決の「方法」として、最も「稚拙」な行為だと思っています。それはメディアとユーザの関係のように「情報」というものが伝達され活用される「方法」が、この現代社会において余りに「稚拙」だからではないかと考えるわけですが、その解決の糸口を上述の「三」の思想に思うわけです。

 しかしこの「三」の思想は、この市場経済主導型の社会においては、例えば中途半端で曖昧、、、、またはフラジャイルなものとして捨てられているわけですが、もうそろそろ(思想から方法に変えて)それを見直してゆかなければ、何か人間はおかしなことになる様な気がしています。


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 今朝方縁あって耶馬溪で朝の太極拳のワークショップをしたのですが、面白い現場だった事もあり、普段潜在していた発想がべらべらと口をついて出てきながら、おぼろげに以上の着想も尾ひれとして広がりまして、さし当たってメモいたす次第です。



おしまい

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