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写真は、土曜日の上野国立博物館、ボストン美術館展。
会館の外はこんな感じですけど、私が入場するときは制限をやっていて、だいたい30分ぐらい並びました。ラーメンでも異国の空港のイミグレーションでも銀行のATMでもスーパーのレジでも並ぶのは何でも嫌いですけど、美術館だけは苦になりません。
しかし、入ってからはあ然としました。中がすごいのです。人、人、人。絵の下半分はまず見られません。見ようと思うと辛抱強く前の人が立ち去るのを待ちます。
そんなわけで私は、刀剣類や衣類は素通り。とにかく曾我蕭白に会いたい一心で、そこへ急ぎました。で、最後近くにあるその展示にたどり着いたときはものすごく嬉しかったです。蕭白の絵はだいたい記憶していますが、有名な作品の実に多くがボストンにあるのだということが、あらためてわかりました。
巨大な龍のふすま絵が、まぁ今回の展示の最大の目玉(文字通り、ね)でしょうか。図版で見るのとは全く違うその異様な迫力にそこにいる全ての人がしばし、呼吸を止めるのでした。ある意味「間抜け」な龍の顔ですが、全体の迫力がすごいので、その間抜け面が逆に作用して鬼気迫る様相を呈しています。鬼気……文字通りです、これも。
私は、考えました。
蕭白の絵は、ふすま絵です。
ということは、誰かがその前で暮らしたわけです。
注文者は蕭白の絵の異様な個性を承知で、その前に座り日常(?)生活を送る自分を想定し、あえて注文した。
尾形光琳のような圧倒的にきらびやかな『美』術作品ではない。鬼と力比べをする鎌倉の武士でありこれから空に昇ろうとする不気味(不気味です!)な想像上の巨大生物の顔でありどこに眼があるのか、その眼がいったい幾つあるのか分からない狂女であり(男にも見える)、酩酊してだらしなく人に抱えられる中国の詩仙であり娘のふくらはぎをかいま見て好色な目を光らせる怪異な老人であります。
きれいじゃ、ない。ある意味、こわい。
でも誰かがそれを必要と、した。この、美しい色彩で美しいデッサンもできるくせにあえて気持ち悪い(今日的な感受性ということですけど)絵を描き続けた異能の芸術家の作品を、たしかに必要と、した。
それはどういう人なのだろう。
まず私ならどうするか。
日常生活にふすまは必要だっただろう、でもどういう美術の前で暮らすか。座り、立ち、談話し、御飯を食べ、お茶を飲み、眠るか。
私でも蕭白の前では怖くて暮らせない。好きじゃないけど尾形光琳や伊藤若沖の方が、安心して眠れる。夢に出てくるのが縁起の良い尾長のニワトリか、あるいは手紙を噛み破りながら薄笑いを浮かべる異常に足の指の長い完全に精神の平衡を失った女か。
考えるまでもなく明らかだ。
でも蕭白はふすま絵を描き続けた。注文する人がいたからだ。
その絵の前で暮らすことを『必要』とした人の内なる地獄を思うとき、私は戦慄するのでした。
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絵画の感想
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ゴッホという「天才画家」、という言い方をされることがあります。
どんな芸術家に対しても、それって本当は不正確な言い方だろうと、私は思っております。
ゴッホは生きている間、ただの1枚も絵を売ることができませんでした。弟が画商だったのですから、兄であるゴッホの絵を売るために応分の努力をしたと思うのですがそれでも売れなかった。300点の絵が売れないまま弟の手元に残りましたが、その弟がゴッホ本人の死の翌年に他界するまで、依然として絵は売れなかった。
私は、ゴーギャンやロートレックとの交遊、耳の切り落としや発狂してなお続いた麗しい弟との情愛、拳銃による自殺、その他佃煮のようにゴッホの人生の周縁につまることになった『物語』のために絵はようやく売れたのだろうと、思っています。それに、何をもって『天才』なのか。絵は、言うまでもなく強い強い自己主張をし、画家ひとりひとり、みんな全く違っています。シャガールもミレーもモネもムンクも、100m離れてもその人の作と分かる個性を持っておりますけれど、大事なのは誰かの人生のために、誰かの居室のために、誰かの美観のために『必要』とされるかどうか、です。誰かとは言うまでもなく絵の購入者のことです。
身も蓋もない言い方をすれば、あの凄惨な伝説を残して死ぬまで、ベルギーとフランスとオーストリアにはゴッホの絵を必要とする人がいなかった、ということです。このように言うとある人は、「今では1枚の絵に124億円の値が付く超有名画家じゃないか」という。
124億円の『物語』があった、ということです。そう考えると、あの村上隆のしょうもない美術作品に海外では奥の値が付くという不思議にも説明がつく。
『物語』の創造に成功した人が売れる絵描きとなるのです。いや、絵描きだけじゃない。すべての芸術家がそうです。
ある人が天才である人が努力の人。違う。誰かが、あるいは芸術家本人が、自分自身か作品にか、『物語』を付加したのだ。それだけのことだろう。
私はダリの物語を知っている。ある程度だけど。ピカソの物語を少しだけど知っている。で、絵を愛することができる。ゴッホの物語も、概略を知っている。でも作品を愛することができない。その物語に自分の何かを同化させることができないからだ。シャガール、まるっきり物語を知らない。だから、絵を見ると単に気持ち悪い。この人は死んだ夫人ベラと、絵を描くことによってまぐわっているのだろうか、とすごく失礼なことを考えるほど、気持ち悪くなる。
でも誰だって、ある種の人にかかると『天才』とくくられてしまう。
努力しない評論家が多いからだ。
でもまぁ。
とりあえず、評論家なんて、みんなクソです。
え? 私?
もちろん。クソ以下です。
写真は、私にとってとても大事な「レカミエ夫人の肖像」。
もちろん、『物語』が、大事なのです。
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ものすごい写実的なこの絵。 |
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