JK8FNQのブログ…バイク、中国、ジープにアマチュア無線…

還暦を過ぎた北海道赤平市のアマチュア無線局。8月から中国暮らしです。

女という暴力

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 恋愛というのは、互いの『肉体』を意識して、はじめて『始まる』のだと、私は思っていました。
 昨今、そうじゃないんですねぇ。
 しみじみ、私はオジンだ、と思いました。
 
 オジンでよかった。私が今の感性で、この混沌の21世紀を乗り切れと言われたら、あっというまに気が狂っただろう。
 まぁ、今でもしょうしょう、狂ってるけど。
 
 今、あなたとテーブルを挟んで対峙している、でも私は実はこのテーブルを乗り越えて、あるいはぶっ壊して、あなたの肉体に襲いかかりたいのだ。
 そういう思いが……自らの肉体に対する思い、相手のかぐわしい肉体に対する思いが、恋愛というものの様態でございました。いかんなぁノスタルジックになっちゃぁ。
 思い出話を始めたら老人で説教を始めたら廃人である、そう言ったのは村上龍でした。
 今夜は一気に廃人までつっぱしっちまったぜ。
 
 21世紀の人々の恋愛は、自分と相手の肉体への限りない興味と欲望から出発していない、そのことは、少なくとも学習いたしました。
 
 あなたが恋愛をするのは。
 「恋人がいない私」が恥ずかしいからだ。
 あるいは、「恋人がいない私が恥ずかしいと思う私」が恥ずかしいからだ。
 あるいは、「恋人がいない私が恥ずかしいと思う私が恥ずかしい私」が恥ずかしい私……。
 
 ……どんな努力をしても、子ども手当を100万支給しても、少子高齢化なんて、解決できませんてば。
 男と女が相互に肉体感覚を消滅させて初めて恋愛が始まる、そういう時代に、いったいどやって子どもを増やす施策を?
 
 無理でしょそんなの。
 
 よく、恋愛に悩む方がおっしゃいます。
 「やっぱり、無理なんでしょうかね。別れた方が良いんでしょうかね?」
 
 決まってるじゃないか。
 
 始まってもいない恋愛に、「終わらせる方法」があるわけないだろ。
 
 
 「彼とは、まだ顔を合わせたことがないのですよ」という風に、話は始まるのです。
 
 前振りに、「中先生はお見合い結婚じゃないんですか?」という言葉がありました。私は以前から、お見合いというのは女を男に従属させる、あるいは相互従属的な関係を作って『地域共同体』に夫婦という、それ単独では誠実に見えないこともない男女関係を取り込む、はっきりとした社会的目的を持った装置でありシステムだったと思っておりますので、当然お見合いという経路は取らなかったのであります、私の家にかれこれ28年ほどいらっしゃる某女性は、私がこういうと「じゃぁあれは恋愛結婚だったのか」と凄まれるかも知れず、万が一そんな事態になったら私は「怖いのら、許してほちいのら」と、楳図かずおのマンガの主人公のように鼻を垂らしながら居間を逃げまどうのでありますが、とりあえずは男と女を『出会わせる』システムというのはいつだって不潔で凶暴でうさんくさいので、あります。
 今夜の彼女の憂いの要因は、とりあえずネット上でしか知り合ってはいない男の(男だと、思う。正確には分からない)煮え切らない胡散臭い態度でありメールの文面であり、はぐらかしであり巧みな誘いかけでありそして逃げ、なのであります。
 会おう、という相談はまとまるのですがギリギリのところで「ちょっと、もうちょっと準備が出来てから会った方がお互いのためになると思うんだよね」などというメールが入る。そして、「君にメールするのにけっこうなお金を使っている」という文言もある。SNS内でしか使えないアドレスを、彼女は持つわけですけど、直接連絡とりあえるアドレスを求めると、規則が、違約金が、システムの追求が、という風に男(まぁ男)はかわす。
 彼女は「煮え切らない男の態度」と言いもうそのSNSを退会しようとするのですけど、そうすると「最近メール来ないね、僕がどれぐらい寂しがっているか分かる?」というようなメールが入る。煮え切らないって、普通に考えてそりゃ商業でしょう、商売でしょうと思うのですけど、彼女は承知しない。
 健康な女性で自分の魅力に自分でちゃんと気づいていて(彼女は充分かわいい、美人だ)仕事は忙しくちゃんと自立して、本物の恋愛に踏み切る条件はしっかりとあるのに職場が病人と老人で埋め尽くされている、出会いのチャンスはかなり覚悟を決めないと、得られはしない。
 そのジレンマは、わからないでもない。
 私は、「バイクに乗れ。そして国道脇にバイクを倒して途方に暮れてみろ、20人や30人の男はすぐに寄ってくる、そしてそのうちの7割はあなたのアドレスを聞くだろう」と、保証しました。
 「バイクですかぁ」と、彼女。どうやら具体的な肉体を持つ男は、彼女として求めてはいないようで。
 そうすると、SNSに彼女が拘泥し続ける理由は、1つしかない。
 不毛の恋愛であり、あるいは恋愛ですらない、ということに気づきながらバーチャルな「29歳のモデル」とメールだけのやりとりを続ける彼女のどこに、SNSという商業活動がすり寄るのかそれはもうはっきりしている。
 
 寂しさ、だ。
 
 彼女が、私に見せてくれた「この男なんですよ」という携帯画面上の写真は、現実世界には絶対にいないようなモデルそのものでありました。ガクトさんて、いましたっけ? ああいうの。あのまま。
 彼女が、その寂しさを、自分で求めているのなら、言い換えれば、寂しさを楽しんでいる、なら、私と会話する必要なんてない。というか、今夜の会話はいったいなんだったんだろうと、思う。寂しいというのが1つの『傷』なら彼女はそれをなかなか手放さないかも知れない。傷というのは言うまでもなく女性の大事な『情報』ででもあるからだ。この『情報』にルビを振るなら、アイデンティティ、となる。
 でも、その寂しさから抜け出したい、というなら。
 友達を作ろうが情報誌を買おうが1日に千通のメールを発信しようが、最初に1つの条件をクリアしない限り、その寂しさはあなたに終生、つきまとうことになる。
 言うまでもなくその『1つの条件』が、もっとも難しい。
 多くの女性はそれができないで苦しむ(あるいはお金を無駄に消費しつつ不毛の楽しみを『楽しむ』)。
 それはつまり。
 
 「私は寂しい女だ」と、ちゃんと認めることだ。
 
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 文学者であれば人びとをちゃんと励ますような言葉を紡ぎたい、ちゃんと人びとを勇気づけるような『作品』を世に送り出さないといけない。
 過激な暴力的シーンも多用するが、時としてイレギュラーなスタイルのセックスシーンも描写するが、村上龍という日本文壇(文壇、というのはイヤな言葉だが)最先鋭の人の創作姿勢は、一貫してそのような物であったと思う。村上さんがそうおっしゃったことは一度もないが、作品はそう読める。
 何年か前に氏は『自殺よりはSEX』というエッセイ集をリリースされた。暗く引きこもるよりは、恋愛しようよ、それがたとえ困難なものであっても……不倫と呼ばれるものであっても……。そんなことをおっしゃっていたように思う。
 一番新しいエッセイ集『逃げる中高年、希望のない若者たち』でも、同様のことが書かれている。自殺は周囲にいるあらゆる人間から生きる元気を奪う、なんとか回避したい、たとえ世間からうしろ指をさされるようなものであったとしても、自殺よりは恋愛の方がいい……。
 そのことが、実は難しい呼びかけであることは中にだってわかっている、わかっているけど、村上さんを支持したい。恋愛をするにはエネルギーがいる。そのエネルギーは生体の奥深くに本来的に備わっているものではあるけど、自殺を考えるようなときにそんなものが全面にでてきているわけがない。
 人は色々な事情で追いつめられる。借金、生活苦、友人の裏切り、家族を含む、親しい周囲の人びとの離反、イジメや中傷といった、人間としての誇りを奪う、あらゆるもの……。
 生きていくためには、「明日には解決に向かうだろう」という楽天性が、心のどこかで働いていないといけない。もちろんそんな期待は裏切られることが多い。なくした財布はみつからないし、イジメる奴は徒党を組んでいつまでもイバり続ける。中がよく言ってるように、深夜早朝にそいつの家に行ってガスの元栓を破壊したり犬小屋にコショウパウダーを噴射したり(クマよけスプレーという名前で市販されている)という愉快な仕返しをするにも、こんどは自分の側の、人間として良識、自分に対する尊厳の念が許さない。そりゃそうだろう、そういうことのできない『いい人』だからイジメにあうのだ。イジメ事件というのはいつだってイジメる奴が狂っていてイジメられる側がまともだということになっている。
 仕返しが仮に出来なくても、自殺なんかするべきじゃないだろう。
 実は、3年生のP選択2単位『創作国語演習』の最新の課題が、それだ。
 人間は、「現在の問題はやがて解決がつくだろう」と思っていないと、生きることができない。今の最悪な状態がいつまでも続く、自分にとって良いと思える日は永久に来ないのだと思うと、生きることができない。でも実際に59年も生きてると、「20年前にひどいことを言って自分の前から去っていった恋人が、思いがけず目の前に、当時よりずっと美人になって現れ、『一度もあなたのこと忘れたことなかったわ』と告げてくれたような、そんな体験」を、何度かすることになる。本当だ。それを待ち続けるという不合理と非科学性は認識しているが、少なくともそういう日が来ることを信じ、相手と自分と何より明日という日に信頼を寄せていないと、運命を味方につけることはできない。カードゲームでも同じだ、次に自分が引くのがスペードの3だと思っている奴には、決してダイヤのエースは引き当てられない。良いカードが来るに違いない、と思ってポジティブにヤマを見つめる人間にだけ、運命の女神は微笑むんだよ。もちろんそう思っていてもババをつかむことがある。それを自分に割り振られた日常だと思うか、特別に悪い運命に過ぎず次回からこんなカードが来ることなんてあり得ないんだよ思うか。そこで差が出る。
 信じる人間にしか、ポジティブな人生は送れない。
 実は中はそういう、貴重な楽天性を持っている。『20年前に別れた恋人』はもちろん象徴にしか過ぎないが、そういう体験をしたときは可能な限りそれを胸に深くしっかりと刻むことにしている。「今日、こんないいことがあったんだよ」と騒ぐ。人に語り自分に語る。絶対に忘れないように振る舞う。もちろん、彼女にもちゃんと言う、「オレだって20年間ただの一瞬もあなたのことを忘れたことがなかった、あなたと一緒に行ったお店の前を通るとき、オレの胸はどんなに痛んだことだろう、この20年間、オーブリヨンのワインがどんなに飲みたかったことだろう、でも飲まなかった、再びあなたに会ったら飲もうと決めてたからだよ、で、今夜それが飲める。ちゃんととってあったんだよ」という。
 嘘か本当かは問題じゃない、そうしておかないと、次に同じラッキーを引き当てることはできないんだよ。
 選択Pの2単位『創作国語国語演習』では、12月17日(金)完成提出という予定で、「アンラッキーの果てに訪れる幸運」をモチーフにした小説を書いてもらうことにしている。そしてこれは可能な限り多くの人に見てもらおうと思っている。創造を仕事とする人には、やっぱり「今の困難はいつかは解決が付くはずだ」と人びとに印象づけられる、そんな小説を書いてもらいたいと思うわけなんだよ。
 実際には、人生はつらいことだって多い。
 創作国語演習の中で提示した例作品は、3年次生のある人が過去に書いた文章からモチーフを得ている。カルシウムが骨に沈着するという持病を持った女子高校生は治療薬のかもし出す副作用に悩みながら単位取得の危うい毎日を送っている。彼女は母親に恵まれない。父は早くに病気で死に、母親は次々とろくでもない恋人を家に引き入れる。アル中だったり無職だったり病弱だったり、とにかく母親の男関係は最悪でそれは母親自身の生活と性格に影響している。もちろん家は経済的に豊かではない。そんな彼女に同級生のボーイフレンドができる。彼は卒業後、大阪に発つことになるがその見送りに行くはずの朝母親は空港までの旅費を出してくれず、しかも大雪の中彼女はバスに乗ることも出来ない。なんとかバスに乗ろうと雪をこいでゆくが目の前に変質者が立ちはだかったりする。
 人生とはそういうものだ、というしかない、そんな18年を過ごした人も、もしかしたらいるかもしれない。
 大幅に遅刻してバス停にたどりついた彼女だが、なんとバスの方も遅れていて、乗ることができた。バスに乗っていたおばちゃんは、あらあらこんなになっちゃって、といいながら語り手の雪を払ってくれる。
 それだけの物語だけど、言いたいことは要するに「どうにかなるものだよ」ということだ。
 「だから死ぬんじゃないよ」ということだ。
 どうにかなる、ということを信じて死なないで日々を送るためには、過去に「どうにかなかった」体験がないといけない。それが胸に刻まれていないといけない。
 それは、もしかしたら実体験ではなく、小説かもしれない。そのための創作を、22人のメンバーがこれから行う。期待したい。
 で、君に言う。君が今日、帰ったら、家の前に、20年前にひどいやり方で君を捨てた人が、じっと待っている、それに会うことになるだろう、当時よりずっとキレイになっていて、そして「1日もあなたのこと、忘れたことなかったのよ」というはずだ。保証する、約束する。
  中の身の上に起こったことだから、君にも起こる。保証する。
 もし万が一、そんな人「いなかった」ら?
 ラーメンおごるから。
 んで、創作国語演習メンバーが書く小説を読んで。ぜひ。
 
 写真は、京都の姪っ子さんから送られた羊羹です。さすが京都、こり方が違う。それに味も上品で最高。
 
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 結局、何度も言ったことを長々と書いて、締まりのない締めくくりとなった。ごめんね。
 「いい男がいない」とKさんは断言し、Sさんは「そうそう」と肯定した。男が価値を喪失したのだろうか、それとも女の求める男像に上昇傾向の変化があったのか、実のところ中は知らない。しかし、女が「いい男がいない」と思ってしまうような時代は、国は、不幸だ。そしてそれはゆるやかな少子化傾向と無関係ではない。当たり前だろう、より良き繁殖戦略を展開するために男同士が競争しあわない時代、女がときめいていられるわけないじゃないか。そういう国に、よい男よい女が佃煮のように大量に出現するわけがない、しぜん、恋愛そのものもだらだらした、緊張のないものとなる。それが婚姻後もセックスの回数にあるいはそのシリアスさに影響する、そんなこと充分想像できる。政府は「少子化担当省」まで設け、子育ての金銭的支援であるとか保育所の待機乳児・幼児の解消とかいろんな事を言うが、それが必要である社会背景は認めるとしても、ある種の、少なくない男女にとって、ギラギラした恋愛をする時代じゃないということが基本的な問題としてある、そのことは、わきまえたい。
 で、卑怯な女が出現する。あえてダメ男を選ぶ。ダメ男と恋人関係を結ぶことには利益が(あまり生産的な利益ではないが)存在する。まずダメ男は女に努力を要求しない。2つめ、ダメ男との交際は、女に欠点を自覚させない。だから当たり前だがあえてダメ男を選ぶ女には必ず何かが、欠けている。しばしばそれは致命的な『何か』だったりする。
 あるいは、恋愛が『ファッション化』する。
 恋をしているということ、ある特定の異性とただならぬ関係を結んでいるということ、それがたちまちのうちに公言されてしまう時代というのは何なのだろうか。新しく恋愛を始めたカップルの片方が(しばしば両方が)そのことをいち早く広報してしまう時代というのは何なのだろうか。それはもう恋愛じゃない、とりあえず恋人(のような)が、いるということ、それを公言して自分をある種の場所にカテゴライズすること、それは何なのだろう。「友だち」と同じだ。ある種の人は言う、「友だちがいないことが苦痛じゃないのよ、友だちがいない人だと周囲から思われることが、耐えられないのよ」その『友だち』を『恋人』に変えてもこのレトリックは立派に(意味が立派なわけじゃない)成立する。
 『恋人のいる人』に自分をカテゴライズしたいのだ。
 言うも恥ずかしい当たり前のことだが、それは恋愛じゃない、少なくとも繁殖戦略としての男女の関係じゃない、それはどこまでも、ファッションにしか過ぎない。恋愛は秘め事としてするものだ、というような古いことを言うのは気が引けるが、あえて言うのはそうじゃない恋愛を展開するけなげで美しい人間も、決して多くはないが複数、知っているからだ。彼らは秘め、そして日々ギリギリの、シリアスな感情の交流をする。その中には決して世間に公表できないものを含む。もし世間にバレたら現在の生活を損なったり法律に触れたりするのかも知れないが、しかし。
 しかし、そういう人たちの人生(と、顔)は、例外なく美しい。
 そういう『恋愛』の対極に、ファッションとしての恋愛がある。「カレシができたさぁ」と公言する女にとってそれがいかに大切な男でありいかに緊張を必要とする時間であったとしても、それがファッション的な満足以上の何かを生み出すとは、とても思えない。
 ファッションならファッションでかまわない、宝石を身につける、毛皮のコートを身につける、エルメスのバッグを持つ、男を連れ歩く。そうした1連のファッションに埋没しての『恋愛(疑問符付きの)』でありそれを双方が(少なくとも女が)自覚していればそんなに腹は立たない。うっとうしいなぁ、ですむ。でも中はオジンだし、上に書いたがそうじゃない人も知っているので、やっぱり書く。
 ファッションとしての恋愛。
 東京では一時的にアフロアメリカンの恋人を連れ歩く風潮が存在したが、それはなかなかの『ファッション』であった。顔が良い、スタイルが良い、芸がある、ユーモアのセンスがある、絵が描ける、写真が撮れる、映画が創れる、デザインができる……。男の『付加価値』をアクセサリーのように身につける、それが女の資産である時代、その延長線上に、アフロアメリカンの彼氏を持つ女、がいた。そういう時代が来ていたということだ。「なんだ作家の山田詠美のことじゃん」なんて言ってはいけない。たしかに彼女の恋人(結局夫)はアフロアメリカンだったが医者だし軍人だし大変な知識人、文化人である。その気になれば文学論の1つも書きそうな、大変な文筆家である。あれはファッションじゃない。そういうアメリカ人を恋人に、夫にするのに、山田詠美さんがどんなに自らの美質を磨いたか、想像してみるとよい。
 でも普通のアフロアメリカンの男性なら、すぐにでも恋人に出来る。日本の女性は世界一人気があるし、世界一(たぶん)流動資産を持っても、いる。あなたがもし容姿に自信が無くても、BMWの1台ぐらい買ってあげるだけで、1年や2年は持続する。ファッションなのだからあなたにもそのくらいの準備はあるだろう。おめでとう。でも中はあなた(たち)を見ていると非常に気持ちが悪い。百回繰り返すが、そうじゃない恋人もこの日本にはいるのだ。
 「新しいカレシができたさぁ」という発表を聞くと苛立つ中だけど、いまはとりあえずそういう人のファッションへの傾斜は認めるとして、なお「その、現在のあなた方2人の関係が、秘めてする恋愛に転じるとき、あなたは美しくなるかもよ」ということは申し上げたい。まぁ、そんなこと考えもしない人にとっては「ほっておいてよ」ということになる。
 付け足しだけど、ある高校生カップル(残念ながら砂川在住じゃない)の話を書いて、終わる。男の方にはある悩みがあった。行きたいデートスポットがあまりに違うのだ。女は何故か、某高校の女子寮の近くを散歩したがった。当たり前だろう、女子寮の寮生に、恋人と一緒にいる自分を、見せるんだよ。たぶん、男の顔は当節流行だったのだろう。得意になる彼女の顔が見えるようだ。
 ファッションである。
 だが、男はあくまで男らしい奴だった。恋愛は暗がりで、2人きりになって語らうことだろ、と主張した。あ? 今「いやらしい」と思った? かまわないよ。できれば女子寮の窓下を散歩するのじゃなく、他の人間をうんと遠ざけた静かな暗がりで君と愛し合いたい、それが「いやらしい」ならいやらしいでいい。でも断言するが、いやらしいものを持たないで恋愛に、女に肉薄する男を、中はそもそも男と認めない。いやらしいから男は恋愛を始めるんだよ。
 彼はあっというまに女を自分の側に引き寄せることに成功する。女子寮の窓下より自分達らしい場所があることを彼女にわからせる。2人きりの閉鎖空間で男の言葉に女は集中し女の存在に男は集中する。その緊張は、女子寮のある場所にはない。
 そもそも『ファッションとしての恋愛』を、まともな男なら嫌うはずだ、という思いが中にはある。これを読んでくれているあなたが女であるなら、今あなたが思い描いている男との関係を今一度点検してみて欲しい。
 その男を、同性の他者に見せたいという衝動が、あなたにはある?
 できるなら、恋人のいない女が佃煮のように群がっている場所(女子寮の窓下)を散歩しようと考えている?
 彼の顔は、天下一品だと自分で思う?
 その答えは、実は重要なことをあなたに示唆している。つまりあなたが、彼を愛しているのか自分を愛しているに過ぎないのか、ということだ。
 でも彼はあなたを暗がりへと導いているよ。導かないならそれは男じゃない。
 どうする?
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 小説『東京島』に関しては、小説は読んだが映画は観ていない。たいていの映画はそれがベースにしている小説を越える情報を含んでいないから、まぁ映画は自分では観ないかもという気もする、しかし観ていないものを批判することはできないので、まぁヒットすることを祈ってやまない。
 小説を映画化した作品に触れ、多くの人が「小説の方が良かった」という。比率を取るとそうかもしれないが、まあ『69』のようなヒットもあるし、『昭和歌謡大全集』にしたって『下妻物語』にしたって、俳優さんの卓抜な作品理解能力、監督の、小説家とは違う世界観の披瀝によって、すばらしい作品になっているわけだから、一概にはもちろん言えない。その意味で、本谷有希子さんの『乱暴と待機』も楽しみなのだった。小説はむやみに面白かったが、映画だって・・演技陣がすばらしいのだ、さてどんな映画になるのだろう。
 で、桐野夏生さんの『東京島』。
 小説では、とっくの昔に女として盛りを過ぎた中年太りが登場する。本人もそれを自覚している。しかし、無人島に漂着した20人の男に対して女はじぶん1人、という状況を最大限に生かし、主人公は島全体を、ということはつまり男全体を支配することを画策し、ある程度は成功する。
 成功するだろう、そりゃ。
 中はしばしば、あの有名なレトリック『もし世界が百人の村だったら』を利用する。『もし世界が11人の無人島だったら』というわけだ。10人の女に男が1人、という状況だったら、たった1人の男は10人全部と恋愛し、妊娠させることができる。しかし10人の男に女が1人、だったら、最初の1人の男が彼女を射止め妊娠させたら、残り9人は意味がない。女は妊娠期間と授乳中は発情しないし(基本的には)9人の男は『その他おおぜい』となる。戦争でもやって数を減らすか、妊娠or授乳中で移動できない女とその子ども、子どもの父親のために友情を発揮して野生動物を狩るという危険な任務を負ってときどきマンモスの牙にかかって死ぬか、いずれにしても華々しい役割は示せない。(中には、そんな友情はないけどね)
 村上龍の初期のエッセイ集『すべての男は消耗品である』は、そういう発想で書かれている。
 小説『東京島』の主人公は美しくなく(映画では木村佳乃がこの役をつとめるので、まるで違った世界観となるが)若くなく、わがままで場当たり的で公共心も公平さもなく優しさもなく人情を解するモラリストというわけでもない。最悪の女である。もともとの亭主が何ものかから惨殺されても平然と「そのことは今後の自分に対し有利に働くのか不利に働くのか」などと考えている。つまり男と女が健康に、無数に跋扈する、それこそ『島』でない『都会』でなら、およそ魅力のかけらもない存在である。
 しかし今、とりあえず島に女と言えば自分しかいない。
 女はパワフルに行動し、パワフルに男を支配、もちろんパワフルにこの、日本に帰ってくることに成功する。男はいっぱい死ぬが主人公は死ぬどころか飢えることもなく、何かに深刻に困ることもなく、恋愛の対象というより信仰の、崇拝と拝跪の対象としていかんなくその存在感をアピールする。
 敬愛する映画監督、北野武氏はこの小説を絶賛したが、30年以上も前に『すべての男は消耗品である』を書いた村上龍ならどう評論するか、非常に興味深いところだ。
 もし、事態がこうなったら……無数の男に取り巻かれる唯一のメスとして共同体の中にいるようなことになったら……と誰でも想像するが、ちょっと待てよ。
 目に見える極端な状況として『20人の男に1人の男』というような図に対比することはモチロンできないが、すでに人間世界というのは大なり小なり『東京島』なのではないか。
 極楽鳥やペンギンが、またクジャクやある種の昆虫が、メスはとんでもなく地味なのにオスばかりきらびやかになる理由について、まず間違いのない説明がある。オスは提案し、メスが決断する。提案というのは言うまでもなく「オレでどうだろう」ということだ。決断はこれまた言うまでもなく「あんたにするわ」という形を取る。オスはメスに群がり、女に選ばれるのを待つだけ。わかりやすい例が極楽鳥とクジャクなのだけど(クジャクの雌は単にみすぼらしい、寒々とした、ふくらんだウズラだ……極端に言えば)人間だってどう違う?
 あきれるほど何度も話したことだから「またそれかよ」と言われることを承知で言うのだが、人間の女は出生時から卵母細胞を450(たった!)しか持たない。実に、生涯にわたってそれだけ。オスは毎日毎日、3億の精子を作り続ける。そしてそもそも、男は『いなくても別に良かった』。染色体はもともとXXだった。その片方がYに変化した奴がオスなのだけど、もともと不安定なんだよ。もともとオスってのは無理あるんだよ。だからほとんどの民族ではオスよりメスの方が寿命が長い。コレラやペストの大流行の際にも、免疫力を獲得し生き残るのはメスの方だった。メスはたった450の卵母細胞を持ちその希少性を匂わせながら、自分に男が群がり、「僕を選んでください」「僕ではどうでしょうか」とすり寄るのを待てば良かった。
 現在だって、そうするべきなんだよ。
 ……と、ここまでの話は、何度も何度もした。
 ここで、「なんであなたは、そやって女が不安になるような話ばっかりするのか」と言い出したのは、新十津川在住のKさんだった。
 は? この話の流れで女が不安になる? 中はわけがわからなかった。Kさんは言う、「つまり女は能動的になる必要がないということだよね、待っていればいいって、中さんはそう言うのよね、いっぱいいる男が、等しくパワーを持ち、等しく競い、等しく『選ばれるにはどうすれば』という緊張感を発揮してれば、その仮説って成り立つと思うのよね。でも……見てよ、男って寄ってこないよ」
 ディスカッション会場はしーんと静まりかえった。うんうん、と頷いているのは滝川・黄金町在住のSさんだった。
 さらにKさんは目を光らせて断言した、「たまに寄ってきても、最近の男って本っと、ろくなの、いないよ」Sさんがそこでいっそう、強く頷いた。
 「いっぱい寄ってくる男が私のために、シャケやクジャクのように競争してくれたら選ぶのは楽しいかも知れないよ、でも……中さんの言う極楽鳥みたいな男ってどこにいるの? 深い深林のどんな暗いところでも、その鳥のいるところだけ光り輝いているような、そんな鳥なんでしょ? 男はそういう存在だって中さんは言うんでしょ、無茶だってばそれ。いない、いないよそんな男は。テレビのブラウン管の中にしかいないんじゃない?」
 Sさんはもう頷かず、哀しそうにうつむいた。Kさんの言うことを肯定する反応だった。
 せっかく安定しようと、安心しようとアンタを囲んで話することを思いついたのに、逆に不安になるような話ばかりされた、がっかりだ、と彼女たちは言いたいわけなのだった。
 その後、Kさんはあっというまにその時点でのダンナと離婚、Sさんも結婚はしたものの、子育てに興味を持たず我が儘を言い続ける夫に辟易し、精神を少しばかり病むことになった。
 いずれにしてもあまり(というか、全く)中の話は役に立たなかったわけだ。
  要因は、二つある。ことは日本の男に、とりわけ顕著に見られる傾向であるからだ。
 1つ、変化のない平和な時代が、もう60年続いたということ。おだやかで調和的な、しかも経済的には安定に向かう時代が、それだけ続いたのだ。中がバカの1つ覚えみたいに(バカなのだ)言うことは、男は戦士で狩人だ、というのがある。60年も平和が続けば狩人も戦士も必要じゃない。企業戦士、経済戦争、という言い方もあるが、男が(年長の男ほど)やってきたことは、内部調整と「偉い奴の権威をどう支えるか」という腐心だけど。この60年の間、オジンが大事にしてきたこのシステムをどう護るか、ということだけだ。
 2つ、一夫一婦制という制度が、努力しない男のメス獲得を、ある程度フォローした。でもはっきり言う、一夫一婦制にすがって「努力しないオレにも嫁さん欲しいよぅ」というのは、ヒキョウだ。どんな時代でも、システムにすがる男は、醜い。(あ、中をはじめとして教師だ。ご、ごめんなさ〜い)
 でも、システムにすがる方が、極楽鳥になるより楽だったんだよ、だから男は平均化された。今元気がいいのは、スポーツ選手と芸術家だ。ものを作る人間も、作られたものを右から左へ動かして利ざやを生み出してきた人間も、ひとしなみに元気を失った。システムを支えるためだけにオレの78年の人生があるのだと思う男に、充実も快楽もあるわけがないだろう。しかし男がぎらつく目をして女に肉薄するためには、その『充実』と『快楽』が、あるいは快楽への具体的欲求が、ぜひ必要だったんだよ。
 Kさんは、「テレビのブラウン管の中にしかいないだろう」と言い放った。
 そこにヒントがある。
 テレビには、いるのだ。そこにもしかしたらヒントがある。お笑い芸人のように『システム』を嫌い軽蔑し笑い飛ばし、『いちむじん』の2人のように表現するべき美質を体中に蓄えた人間は、ブラウン管の中になら、いるのだ。
 そこにヒントがある。(男に向かって書いているのか女に向かって書いているのか、わからなくなってきた)リスクを負って、制度を客観視し、できることなら制度の向こうがわに旅立てる人間にだけ、メスは微笑むんだよ。
 そのために具体的にどうする?
 それはまた次号。
 

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