僕酔の「パチもんライフ」

白玉の歯にしみとほる秋の夜の酒はしづかに飲むべかりけり

南方熊楠の生涯

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2009年10月23日
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土宜法龍(1854年〜1922年)
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高野山学林長、仁和寺門跡、御室派管長、真言宗各派連合総裁、高野派管長などを歴任。

 熊楠とは、1893年のシカゴの万国宗教大会に真言宗代表として出席した後に渡欧して立ち寄ったロンドンで出会う。

<10月30日 月
  夜、土宜師を中井氏宅に訪、11時前同師は帰る。余、中井氏方へ宿>

<10月31日 火
  午後、ブリチシュ博物館に之く。これは土宜師同館文庫を見るに附前ぶれ也。夜、土宜師を訪、就て宿す>

<11月1日 水
  朝九時過ぎより土宜師と(二人共僧帽僧衣)ブリチシュ博物館に之き、部長フランクス氏案内にて、宗教部及書庫を見る。夜、土宜師方に宿>

<11月2日 木
  終日、土宜師方にあり、議論す>

<11月3日 金
  土宜師方を辞し、帰る>
南方熊楠「ロンドン日記」


 もともと好悪の情の激しい熊楠だが、この13歳年長の法龍の人柄、学識によほど魅かれたのであろう。わずか五日間の滞在中、三日間も法龍の宿に転がり込み、夜を徹して大乗仏教を論じ、耶蘇教とジャイナ教を比較し、かと思うと一転してティールの「宗教科学」やクラークの「十大宗教論」を論じ合った。
法龍も熊楠に緋の僧衣、錦の帽子を贈り、二人して絢爛まばゆい法衣で大英博物館を訪れたりしている。


 法龍はその著「海外漫筆」のなかで熊楠のことを

「ロンドンのブリチス・ミュージャムに数年間出入りし、彼の書籍館に在りて梵学の調べを為し居る紀州の南方熊楠という人あり。博学の人にして実に卓見宏識の人物なり」

と称賛し、「初めて面会し(以来)旧識のごとく一生文通を絶たざりし」というほどの親交を結んだ。






次号に続く。。。かな?
中井芳楠(1853〜1903年)銀行家。和歌山県出身
イメージ 1横浜正金銀行(当時、日本で唯一の外国為替銀行)ロンドン支店長、取締役。ロンドン日本人会初代会頭。熊楠の父、弥兵衛と交遊があった。

日清戦争賠償金3億6000万円の受領および日本への送金は横浜正金銀行ロンドン支店が行なうなど、大きな業績を果たし、それらの業績により勲五等の叙勲を受けている。
熊楠がロンドン滞在中に最も世話になった人物。
土宜法主を会わせたのも中井である。


サー・オウガスタス・ウォラストン・フランクス(1826〜1897)
大英博物館の英国・中世古美術及び民族誌学部部長。晩年、博物館理事を兼務。英国古美術協会会長。東洋美術のコレクターとしても有名。
熊楠とは1893年に出会い、その学識を高く評価して熊楠を大英博物館に自由に出入りできるように便宜を図ってくれた恩人。
特に、「ネイチャー」誌に発表した熊楠の論文が評判になり、一躍有名になったときには、その成功を誰よりも喜んで自宅に招いて祝宴を開いてくれた。
感激屋の熊楠は、このときの感動を矢吹義夫への書信の中で

「英国学士会の長老にして、諸大学の大博士号を持つ七十近い大富豪の老貴族が、どこの生まれとも分らぬ、学歴も資金もない、まるで孤児院出の小僧ごとき当時二十六歳の小生を、かくまで厚遇されるとは全く異例のことで、小生、今日初めて学問の尊さを知ると思い候。それよりこの人の紹介で(日本公使館などの世話にならず)ただちに大英博物館に入り、思うままに学問の便宜を得たことは、今日と云えどもためしなき事と存じ候」

と、声を震わせる調子で書き送っている。



孫文(1866〜1925)号は中山、名は文、字は逸仙
中国の政治家、革命家。初代中華民国臨時大総統。

イメージ 2 熊楠が初めて孫文に会ったのは、1897年3月16日、大英博物館の東洋図書部長サー・ダグラスの部屋であった。
6月30日に孫文がロンドンを去るまで毎日のように二人は出会い、議論を闘わせ、夢を語り合った。
 1900年9月に熊楠は帰国。孫文が日本に潜伏中であることを知った熊楠は、互いに連絡を取り合い、翌年2月、孫文が和歌山にいる熊楠のもとを訪れて再開を果たした。
これはその時の熊楠と孫文。

 この後、1911年、辛亥革命により中華民国を建国。孫文は臨時大総統に推されたが、間もなく袁世凱に総統の座を譲る。しかし、袁世凱による独裁が始まると、反袁を唱えて活動するも、袁の軍事力の前に敗れて1913年、日本へ亡命する。このときも熊楠との会見を望んだが、熊楠の健康状態が悪く実現しなかった。



サー・フレデリック・ヴィクター・ディキンズ(1839〜1915)
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ロンドン大学事務総長。日本文学研究者。

 
ロンドン大学卒業後、英国海軍軍医将校として幕末の日本へ。駐日英国公使ハリー・パークスの下で働き、帰国後、パークスの推薦でロンドン大学の事務総長となる。日本文学を研究し、『百人一首』や『竹取物語』『方丈記(熊楠との共訳)』などの英訳を発表している。


二人の出会いは互いに怒鳴りあい、大喧嘩を引き起こす。
原因はディキンスが苦心して書き上げた「英訳 竹取物語」であった。
熊楠は誠意をこめて熱心に原稿を読みだしたが、訳の誤りを遠慮会釈なく指摘していったのである。
誇り高いディキンスは「無礼者め」と激怒した。
熊楠も負けてはいない。
「誤りを指摘されても反省も訂正もせず怒鳴り返す老人など紳士とは呼べぬ。間違いを正しいと心にもない世辞を並べたてるような未開人は英国には居ても日本には居らん」とわめき返した。
この日は喧嘩別れしたが、一人になって冷静に考えてみると、なるほど、熊楠の云うところきわめて正しい。
卑屈きわまりない在英日本人の多い中で、貧書生熊楠は大英帝国の権威を相手におくするところなく、祖国の名誉のために堂々と抗議したのである。その気概にディキンスは強い感銘をうけた
「ミナカタは予が見る日本人の中で最も博学で剛直無偏の人」
ディキンスは熊楠をそうたたえて、わが身の非礼を詫びて親交を結んだ。そしてその友情は生涯変わることがなかった。





徳川頼倫(1872〜1925)
東京都生まれ。1879年に紀州藩第14代藩主茂承(もちつぐ)の養子となり、1906年に家督を継ぎ、貴族院侯爵議員となる。
日本図書館協会総裁、史跡名勝天然記念物保存協会会長などを歴任。

世が世であれば、熊楠など口もきけないお殿様だが、ロンドン遊学の折りには熊楠の案内で大英博物館を見学し、また、熊楠の仲介で孫文とも面会している。
語学は不得手ながら、風采態度が堂々として典雅な頼倫を、面会した英国の学者たちはみな「ノーブルマンのタイプ」だと噂したと、熊楠は記している。

1914年、1921年の両年、徳川頼倫は田辺を訪れて熊楠と出会い、1922年には南方植物研究所設立のために1万円を拠出、熊楠を感激させた。



木村駿吉(1866〜1938)
日本海軍の軍属(教授、技師)。
艦船用無線電信機の開発に貢献。木村駿吉らにより開発された三六式無線電信機は、1903年に海軍で正式採用され、1905年のバルチック艦隊との日本海海戦でその勝利に貢献した。
1914年3月に免官。海軍退職後は、日本無線電信電話会社取締役。

困窮を極める熊楠の下宿で、熊楠なけなしのお金で飲み食いさせてもらった恩を忘れず、帰国後、熊楠が南方植物研究所設立のための資金を求めていたときには、その話を聞くと真先に速達で寄付をして恩に報いている。



高橋勤一(生没年不詳)
ロンドン時代の熊楠の相棒。
世話になっていたところから追い出されて熊楠の貧下宿に転がり込む。
広島県出身の喧嘩好きの丸坊主頭。ロンドンきっての無法者だが、熊楠とは馬が合い、2人で組んで行なった浮世絵の販売は大繁盛した(熊楠の英文による解説文をつけて浮世絵を販売した)。

熊楠のロンドン日記に頻繁に登場するが、それを読むと二人して随分バカなことをやっていたようで微笑ましい。





サー・ロバート・ダグラス(1838〜1913)
英国の中国学者。
中国領事館に勤務。その後大英博物館へ。東洋書籍部の初代部長を務めた。

大英博物館館長フランクス卿の後見を受けてやって来た熊楠と出会い、その知識に瞠目したダグラスは熊楠を東洋書籍部の仕事の助手を務めさせた。

熊楠は大英博物館内で何度ももめ事を起こしたが、熊楠の学識を愛するダグラスはその度に事態の収拾に当たり庇護する。



アーサー・モリスン(1863〜1945)
英国の小説家。
もとはジャーナリストだったが、ロンドンのスラム街を描いた作品を発表して評判を得、以後も小説を発表。
モリスンが連載した名探偵マーチン・ヒューイットの登場する推理小説は人気を博す。
東洋美術の蒐集家でもあり、蒐集した美術品は現在大英博物館に収蔵されている。

日本美術への関心から熊楠との交際が始まり、熊楠の英文を推敲・指導したが、みるみるうちに上達した熊楠に舌を巻いた。

とても謙虚な人物だったらしく、熊楠は、モリスンがイギリスで高名な人物であることを帰国後10数年経ってから、最新版の『エンサイクロペディア・ブリタニカ』で知ることになる。








次号に続く。。。かな?
なかなか本編がアップ出来てません(汗
もう二か月以上空いてますね。
出来るだけ早く再開したいと思ってますので、もうしばらくお待ち下さい。


てな訳で、番外編の続きです^^;





土宜法龍(どきほうりゅう)へ宛てた熊楠の書簡
ロンドンで出会った年長のこの友人に熊楠は、生涯畏敬の念を抱き続けた。
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年齢差を超えて意気投合した二人は、法龍の短いロンドン滞在中、毎日のようにお互いの宿舎を訪ね、夜明けまで語り明かしたと言う。
法龍から深い宗教的啓示を受けた熊楠は、のちに「南方曼荼羅」と呼ばれる独特の世界観、科学の方法論について思索を深めていった。
熊楠がロンドンに居たころの19世紀の科学は、ニュートン力学が支配的パラダイムであった。それは因果律−必然性−の発見を究極の目標としていた。これに対し熊楠は、因果律は必然性を明らかにする性質があるが、自然現象も社会現象も必然性だけでは捕らえられないと考えた。必然性と偶然性との両面から捕らえるのでなければ真実はわからない。

 仏教は因縁を説く。因は因果律−必然性−であって、縁は偶然性である。したがって科学の方法論としては、仏教のほうがニュートン力学を超えていると喝破したのである


かけがえのない友人たち
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毛利柴庵:牟婁新報主筆、神社合祀令反対の論陣を張り、熊楠の運動を強力にバックアップした。
杉村楚人冠(廣太郎):朝日新聞記者。名文家として知られ、コラム「天声人語」の命名者。
喜多幅武三郎:医師。熊楠の無二の親友にして理解者であった。



牟婁新報紙面
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三日に一回の発行、二千部刷っていたかどうかの純然たる田舎新聞。
短期間だが、若き荒畑寒村も記者として勤めていた。
社会主義論調の濃い紙面で、再三、筆過事件(官吏侮辱罪)で発刊停止処分を受け、主筆の柴庵が投獄されている。



珍しい家族写真
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左から長男熊弥、熊楠、妻松枝、長女文枝。右端は「およどん」と呼んでいたお手伝いの女性。




獄中の熊楠に宛てた松枝の手紙
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熊楠自身も投獄されたことがある。
神社合祀の推進役が開いた講習会に乱入した為である。
愉快なのは、その獄中で新種の菌類を発見したため、釈放が決まっても「もう少しここに居させてくれ」と頼み込んだ、と言う逸話が残っている。




ミナカテルラ・ロンギフィラ (ミナカタの長い糸)
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柳田國男から熊楠に宛てた手紙
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柳田は熊楠を「日本人の可能性の極限」と評している。

雑誌に発表された熊楠の論文に興味を抱いた柳田がしたためたこの書簡から、二人の交流が始まった。
柳田は熊楠の業績を高く評価し、官僚でもあった立場から、神社合祀令の廃止に大きな力となった。
後に、民俗学に対する考え方の違いから確執が生じたが、お互いを尊敬しあうことは終生変わることがなかった。



標本を献上したキャラメル箱
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若き昭和天皇に御進講した際、キャラメル箱に標本をいれて献上したのは有名なエピソードである。
これはもちろん実物では無いが、五個二列の小箱をこれと同じような大箱に入れて献上したと伝えられている。




石碑文の草稿
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天皇行幸を記念して神島に建立した記念碑の碑文草稿。
最初に石職人に送ったのがボツになって、こうして残ったらしい。



デスマスク
1941年(昭和16年)12月29日没。74歳。
「天井に紫の花が咲いている」という言葉を遺して激動の生涯を閉じた。
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保田龍門によるブロンズのデスマスク。
横顔を見ると、日本人には珍しいほど鼻骨が高く「てんぎゃん:天狗」と渾名されたのが納得できる。

本人の希望で死後直ちに脳が解剖され、現在も大阪大学に標本として保存されている。



ミナカタ曼荼羅
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番外編完
☆続きです。



ミシガン採集きのこ図
アナーバ滞在時代の図ですが、まだ綺麗に彩色が残っています。
このころは説明文も何も書いていないんですね。
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北米産菌類標本集
カルキンス寄贈の菌類標本集に倣って、参考文献からの引用文、観察記録を英文で記した熊楠自作の標本集です。
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フロリダ・ジャクソンビルにて
ジャクソンビルで寄宿していた食料品店の主人「江聖聡」と。
もちろん左が熊楠です。
夜遅くまで研究に打ち込む熊楠の姿を見て、江はいつしか熊楠を「先生」と呼び、無償の援助を惜しまなかったと言います。
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大英博物館閲覧カード
アメリカに見切りをつけ、ロンドンに渡った熊楠は大英博物館の要職にあったフランクス卿らの知遇を得て、博物館内を自由に閲覧できる機会を与えられました。
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ロンドン抜書
大英博物館にある各国の様様な分野の書籍ををかたっぱしから筆写したのが「ロンドン抜書」です。
びっしりと細かい文字で250ページの大学ノート52冊に及びます。
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孫文と
ロンドン滞在時に熊楠は、人生に大きな影響を受ける人々と出会っています。
当時ロンドンに亡命していた「中国革命の父」孫文もその一人。
道は違っていても、共に祖国と東洋に対する強烈な想いを抱く二人は、たちまち意気投合しました。
長くなりますが、二人の出会いの場面を引用します。
<<3月16日 火 晴 ・・・博物館ダグ氏オフィスにて孫文氏と面会す>>
 熊楠は孫文と握手を交わしながら、遠く離れていた旧友にめぐりあったような心のぬくもりを覚えた。学問と政治と、生きる道は違っていても、ともに国を愛し「あたらしき東洋」への熱い思いを抱いている二人だからだろうか。熊楠と孫文は、たがいに話をはずませた。ダグラスがあきれるほど、二人の話は弾んだ。

<<3月18日 木 博物館にて孫文氏と、館正面の椅子に腰掛け談す>>
 このとき慶応三年(1867年)4月生まれの熊楠は31歳。清朝同治5年(1866年)10月生まれの孫文とは数か月しか違わない。
 「ミナカタ、あなたの一生の所期は?」
 そう訊かれて熊楠は、
 「願わくはわれわれ東洋人は・・・」
 熊楠は大きな眼をきらきらさせて孫文を見た。
 「東洋の国々にいる西洋人をことごとく国境の外に追い出したきことなり」
 熊楠の大胆な言葉に、孫文は蒼くなった。当然であろう。ここは大英博物館の正面玄関である。まわりにイギリス人がひしめいているのだ。
 しかし、そう思いながらも孫文は、その反面、この不敵な日本人ミナカタの言葉に、一種、清冽な心ふるえるものをおぼえた。
 「そうだともミナカタ。僕もそれを思っている」
引用:神坂次郎著「縛られた巨人:南方熊楠の生涯」より



熊楠に宛てた孫文の手紙
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孫文と共に
後に孫文が和歌山に熊楠を訪ねてきたときのものです。
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左から弟の常楠、熊楠、中央の子供を抱えているのが孫文。さらに中国人の従者、もう一人は忘れました。




☆次号に続く(かな?)
祝日の今日、行楽・観光、運動に絶好の日和でしたが、皆様いかがお過ごしだったでしょうか^^

小生は午前中ベーコンのスモーク、午後はこの展覧会に行って来ました。

エコロジーの先駆者:南方熊楠の世界
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場所は和歌山市立博物館
ウチから車で10分程度で行けます。
あはは〜、近いにも程がありますね。
おまけに入場料は500円。ウレシイじゃないですか(^▽^)
安近短の典型ですね〜^^;



熊楠フリークの小生にとっては貴重な珍しい資料、標本、書簡なんかがたくさん展示されていて、ワクワクの2時間でした。
そのなかのいくつかを紹介しますね。

マ、興味のない方にはドーでもいいクソオモシロクモナイ写真ですが。。。^^




中学の頃筆写した「和漢三才図絵」
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筆写に飽き足らず、自分で著した「動物学」
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早熟の天才、神童と呼ばれた熊楠の面目躍如たるものがありますね。





東大予備門時代のノート
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数学のページみたいですが、注釈がすべて英語です。^^;



今で言うパスポートでしょうね^^
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ミシガンの州立農学校時代に作っていた自家製新聞。
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同校に数人いた日本人留学生に見せていたようです。
3号発刊して、現存するのは1、2号だけとの説明がありました。

イラストの左側が熊楠の自画像^^



まだまだスゴイお宝が一杯ありますが、続きは後ほど(^▽^)

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