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女性器の猥褻さは、あらゆる口の空いたものの猥褻さである。それは他のすべての穴の場合がそうであるように、ひとつの存在の呼びかけである。それ自体として、女は、挿入と希釈によって存在充実へと自分を変化させてくれるであろう異物〔他者の肉体〕に呼びかける。また、逆から言えば、女は自分が〈穴の空いたものである〉から、ひとつの呼びかけとして自分の条件を感じるのだ(サルトル「存在と無」)。
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こんにちは、ゲストさん
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女性器の猥褻さは、あらゆる口の空いたものの猥褻さである。それは他のすべての穴の場合がそうであるように、ひとつの存在の呼びかけである。それ自体として、女は、挿入と希釈によって存在充実へと自分を変化させてくれるであろう異物〔他者の肉体〕に呼びかける。また、逆から言えば、女は自分が〈穴の空いたものである〉から、ひとつの呼びかけとして自分の条件を感じるのだ(サルトル「存在と無」)。
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サルトルの存在と無といいますと、単純に懐かしさを感じます。
サルトルもボーヴォワールも、女性器とか、コイトスとか、セックスをネタにした考察が多かったですね。
2010/8/22(日) 午前 1:28 [ カール(カヲル32) ]
凹凸 男と女 結合することは動物的な本能といえますが人を愛するという事はすべてを飲み込んで一体になることだと思います。
夢の中で追いかける異性は触れることのできない神の存在へと美化され、そこに生きる糧を見出すあなたははとても悲しく哀れです。しかし崇高な行為だと思います。
2010/9/30(木) 午後 9:25 [ roses ]
初コメです!!
訪問ありがとうございます!!
2012/9/9(日) 午前 9:11
shioriさん、はじめまして
こちらこそ訪問ありがとうございます。
2012/9/9(日) 午前 10:26 [ iiojyun ]
詩人ランボーはヴィーナス以外の女性は信じないとかうことを覚えていますが、サルトルの女性性器への関心事は私が思うに自らの下賤さを肯定的にする事を欲したからではないかという気がしますがどうでしょうか?
ニーチェはある著書で「下賤かつ汚れた者は益々、他人の汚れた部分をみる。」と述べていますが、彼の生い立ちからすれば自らに植え付けられた、意識上では肯定したくない自らの性質を何としても肯定したいから、上記のような見解で価値観を示しているように感じました。
2012/9/12(水) 午前 3:44 [ Hiro ]
Hiroさん
男性器はといえば、空しくそそり立っているわけで、温かく包まれることを求めています。結婚したい人が「落ち着きたい」と言うのは、納まる所におさまるという意味合いがあると思います。
2012/9/12(水) 午前 7:01 [ iiojyun ]
人間において性交ほど醜悪なものはなく、美女との性交の醜悪さにおいて「美」を汚すことが、エロティシズムの源泉だと見た人がいたそうです(多分バタイユ)。ふんだんに画像を見れるネット時代ではどうでしょうか。
・各人の「持って生まれたもの」(身体・ゲノム・心など)は、環境との関係において、ある部分はある時期に成長しある部分はある時期に退化したりしますが、生来の「性質」も同じだと思います。ただ、各人の生来の性質(不器用だとか哲学のようなものが好きとか)の<核>はそう変わらないのではと思います。
2012/9/12(水) 午前 7:52 [ iiojyun ]
自分がそれとは明確には意識していない性質部分があって、それと似た性質部分を持つ他人に、引き付けられる様に関心をもつのは、自分を発見しているとも言えます。肯定しているとも言えます。
自分の「生きられた経験・人生」というのは、その人の経験・人生そのものであって、後から様々な遠近法によって、意味付け・価値付けはできても、消すことは出来ない。
2012/9/12(水) 午前 11:26 [ iiojyun ]
成功哲学で有名なナポレオン・ヒルの言葉に「逆境の中には、それと同等かそれ以上の利益の種子がある。」というのが有りますが、サルトルは自らの運命を変革するところから神を求め己を自己改革し哲学した人物なのかなと考えました。
彼の人生が幸福であつたかどうかは知りませんが、ニーチェの場合、よく知られているように、確か40代半ば位で発狂して悲惨といえるような最後であつたように思います。
「神は死んだ。」と自己超克したのが原因かどうかはわかりませんが、
彼の著書の中には「私は十字架にかけられた者だ。その事が君にわかるか。」という記述が記憶にあります。偉大の業績を人類に遺す事と本人自身の幸福とは別問題だなーと思いました。
2012/9/12(水) 午後 0:04 [ Hiro ]