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可能は、それがAの新たな投企によって新たな可能性へ向かって、可能として存在されるのでないかぎり、「他である」という単なる無形の可能性でしかない。可能は、自己を可能化することによってしか、あらわれない。可能化は、Aに対して「Aが何であったか」ではなく「Aが何であるか」を告げ知らせることによってしか、あらわれない。順序は、未来から出発して解釈されるのである。「自分は何であるか」は、理由(論理的連鎖)や原因・決定論(論理ー時間論的な連鎖)に還元されない。
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哲学・思索
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人間存在にとって、「自分は何であるか」は、実存(現実存在)の後に来る。Aは、A自身の諸目的の選択によって規定される。AにAの人格を告げ知らせるのは、未来であって、「自分は何であった」(過去)ではない。Aは、「自分が何であるか」を、自分に知らせることを選ぶのであるが、Aがそれを自分に知らせるのは、Aが自己を投企するときの諸目的(つまりはAの嗜好、性向、嫌悪、等々)の全体によってである。しかも、それは、1つの主題的な組織と、この全体に内在する1つの意味が、そこに存在する限りにおいてである。
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私が疲労に屈して道端にへたばるというこの仕方は、歩行を続けることが《耐え忍ばれるだけの労苦に値いしない》ものと考えられる世界観の枠内に位置を占める。しかも、動因(1つの行為を遂行するよう促す欲望・感動・情念の総体)は、非措定的な意識(衝動的非反省的な行動理由、主観的内在的な行動理由)であり、従って1つの絶対的目的(「即自・対自」のある種の様相)へ向かっての原初的な自己企投であるから、この場合、動因は、世界(暑さ、人里から遠く離れていること、努力の空しさ、等々)を、私の歩行を止める動機(理念的反省的な行動理由、客観的外在的行動理由、状況についての対象的評価)として、把握することである。かかる対象的評価がなされうるのは、1つの目的へ向かっての対自(あるところのものであらぬ、あらぬところのものであるような存在)の企ての限界内においてでしかない。
それ故、立ち止まるというこの可能は、理論上からして、原初的究極的な可能から出発して私がそれであるところの諸可能の、序列の内においてしか、またかかる序列によってしか、その意味をもたない。
二、むしろ、ただ単に、私が立ち止まるのを拒絶することが出来るのは、私の「世界・内・存在」の徹底的な転換によってでしかない、私の原初的な企ての突然の変貌によってでしかない、私自身と私の諸目的についての、別の選択によってでしかない。もとより、かかる変更は常に可能である。
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あらゆる行動は、いわば1つの二次的な構造として、全体的な諸構造のうちに積分され、ついには、私がそれであるところの全体のうちに積分される。その際、私の究極の可能から当の行為にまで下降し、全体的な形態において、その行為の積分を捉える。
事物についての評価や世界の諸構造についての評価が存在するや否や、そこには既に諸目的の定立があり、従って選択がある。選択と意識とは同一である。私が私自身について意識することが出来るのは、これこれの企てに拘束され、これこれの成功を当て込み、これこれの結果を恐れている、或るこれこれの人間として、しかも先回りの総体によって自己の姿を全体的に素描しているこれこれの人間として、でしかない。
また、私が書いているこの瞬間に、私が私自身を捉えるのも、そのようにしてである。私は、紙の上に記号を書く私の手についての単なる知覚的意識であるのではない。私は、この手の遥か前方に、この文章の完成にまで、私の人生において占めるこの文章の意義にまで(従って哲学的活動一般の意義にまで)、存在している。しかも、これこれの思想をこれこれの仕方で述べるとか、暫くの間書くのを中止するとか、これこれの事を参照するために或る書物のページを捲るなどというような、一層限定された諸可能性へ向かっての幾つかの企てが介入してくるのは、この全体的な企て(「私がそれであるところのもの」)の枠内においてである。
この全体的な選択、私の原初的にして究極的な企ては、常に存在の問題についての1つの解決の素描である。私たちは、私たちの自己拘束そのものによって、この解決を存在させる。従って、私たちは、この解決を生きることによってしか、この解決を捉えることができない。こうして、私たちは、私たち自身に対して、常に全体のまま現前している。
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疲労、熱、飢え、渇きなどに身を委ねること、逸楽に耽って椅子やベッドにぐったり身を投げること、身体をのびのびとさせること、自己自身の身体に飲まれるままになろうと試みること、それらの行為の条件は、身体の取り戻しという1つの原初的な企てであり、(即自・対自という)絶対者の問題を解決しようとする1つの試みである。この企てのこの原初的な形は、それ自身、事実性をそのまま許容するにとどまることもある。その場合、自己を《身体たらしめようとする》企ては、その場かぎりでの無数のささやかな享楽に、無数のささやかな欲求に、無数の弱点に、好んで自己を放棄することを意味する。
しかし、身体によって、また身体に対する思い遣りによって、対自は無意識的なものの全体を取り戻そうとする。対自は、物質的な事物の総体である限りにおける全宇宙を、取り戻そうとする。この場合に目差されている即自と対自との総合は、即自の全体と、それを取り戻す対自との、ほとんど汎神論的な総合である。身体は、ここでは総合の用具である。身体は、この即自を最高度に存在させるために、例えば疲労のうちに自己を失う。しかも対自は身体を自己のものとして存在するのであるから、身体のかかる受難は、対自にとっては、即自を《存在させる》企てと合致する。
そのような態度の総体は、一種の使命感とも言うべき漠然とした感情を通して表現されうる。私の仲間の1人がハイキングを行うのは、彼が登攀しようとする山や横断しようとする森が、存在するが故である。彼は、自分こそそれらの山や森の意味を顕わにする者であろうとする使命をもつ。しかも、そのことによって、彼は、それらの山や森をそれらの存在そのもののうちにおいて根拠づける者であろうと試みる。
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