鐵先生「私の飯坂」

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回想 私の飯坂 湯けむりのなかで 〜鐵貞雄氏

透達湯

湯面を見れば、トウダツ湯であるが、呼称はトウダ湯。通称トウザ湯と言った。

鯖湖湯の北で、ここは昭和のはじめのころは町の共同浴場として、湯銭を必要としなかった。ここも少し深みに湯つぼがあった。

町営であったが管理はあまり行き届いていなかった。狭い湯坪にひしめくようにして入った経験、相撲の地方巡業の折に力士などがドカドカ入ってきたことなどが思い出の中にある。

子供にとっては遊び回るスペースのないのが難点であったが、私にとっては「ぬるめの湯」というのはなんとも魅力的であった。熱い湯は今でも好きではない。だいいいち高齢者の心臓を患った者にとっては仕方のないことであろう。

戦後しばらくして廃湯され、今ではそこに先述の鯖湖湯が移転して建ち、名湯としてその名が高い。



(雑観)
鐵先生はすぐ近くの鯖湖湯と対称的に述懐していますね。
鯖湖湯に対して、ぬるい。
鯖湖湯は湯銭をとるのに対して、こちらはとらない。
鯖湖湯は名高いが、こちらは管理行き届かず。

しかし、「戦後ほどなくして廃湯」というのは、ここには私は「異議あり」を・・・。だって、私も入ったことがありますからね。!! 少なくとも1970〜80年代(昭和5〜60年代)まではあったと思います。

そして、私の記憶と、鐵先生の違いですが、・・・・「狭い湯坪にひしめくようにして入った経験」とのことですが、私にとっては透達湯はとっても広くて、開放感あふれるおふろでした。ほんとに歩いて1分ほどの距離に2つがあって、いつも私は「あの灰色っぽいふるぼけて狭苦しいさばこ湯よりも、広々して、湯舟がエメラルドグリーンのとうざ湯がいい」と母に言って、連れて行ってもらいました。
透達湯の湯舟の中の鮮やかな黄緑色というのは鮮明に覚えており、「これはバスクリンか??」と手にお湯を何回もすくってみたこともあります。でも透明でした。そのうち、これは湯舟のタイルがそういう色なのかな?などと自分なりに考えました。

廃湯になるというのも、かなり私が成長してからで、
「透達湯は、鯖湖湯に合併すんだって」
「いや、透達湯はなくなんだから、吸収っつーんだべ」
「んでも、こごらへんの人だぢが、鯖湖湯と透達湯に分かれて入ってだのに、おふろ1個にしちまって、だいじょぶなんだべが」
「いや、今の鯖湖湯よりももっとでがいのを1個つくるっつー話だげんちょな」
などと、母と会話した記憶があります。

私は、切湯が休みの時ぐらいしか、こちらに出張っていかなかったので、大勢に影響はないんですが、思うに、この湯沢の人々も、鯖湖湯派と透達湯派がいたと思うのですよね。まったく毛色の違うき共同湯だったので。

反対運動とか起きなかったのかなぁなどと、今更ながら思います。

【過去記事】
【0】説明
【1】新聞記事は見極めが大事
【2】学者筋の斎藤薬局店主との交歓
【3】新波来湯に一抹の物足りなさ
【4】飯坂の湯
【5】鯖湖湯


コメント

透達湯に関する資料が少ない中での、鯖湖湯との対比で透達湯は興味深いです。
平成25年2月27日AOZでの鐵貞雄先生による「いまでもこれまからも飯坂〜明治・大正・昭和・平成」を聴講しました。これが飯坂に興味を覚えた始まりでした。 削除

2015/2/8(日) 午前 8:46 [ MASA ] 返信する

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あら〜鐵先生もご存じなのですね。もしかして、その講演のシナリオがこの小文集なのかもしれません。

透達湯はプールのようで、子供ごころにも大好きでした。鐵先生と逆ですね!!


回想 私の飯坂 湯けむりのなかで 〜鐵貞雄氏

鯖湖湯
 
湯銭(入浴時)の要る共同浴場で輸送はいちだん下がった所にあった。したがって若干暗い感じがした。
 
湯は熱くて、子供の私にとって好きな湯ではなかった。湯銭(木戸銭)をとる人がいつも南口の方にいて、あれこれと世間話などに花を咲かせていた。のちに福島市内の喜多屋というどじょう鍋の有名な店の板前になっていた人がいたので印象が深い。
 
祖母といっしょのときは女湯に入っていたように思う。大人になってあまり鯖湖湯に足を運ばなかったのは、「熱い湯」という先入観や、暗い感じ、狭い感じがあったためだろう。
 
「鯖湖湯」の大看板(扁額)は今考えてみると、不釣り合いな大きさであったが、子供心にもいつもほれぼれと眺めていたものであった。それが名士の揮毫になったものと知るのはずっと後のこと。
 

(雑観)
 
私は今の鯖湖湯の前身の鯖湖湯も覚えていますが、今の明るいオレンジのような美しい風格のある外観とは違って、「灰色」イメージがありました。たしかにだいぶ暗いというか黒っぽい。お湯が出てくるところのカエルの飾りが灰色ボコボコでお湯がくみづらかった覚えがあります。湯船の中も、黒くてざらざらしていて、入ると痛かったような気がします。深いけれどね。
 
たしかに、すぐ近くの広々した透達湯のほうが好きだったなあ。
 
次は、鐵先生は、この透達湯のことを書かれています。
 
 
【過去記事】
【0】説明
【1】新聞記事は見極めが大事
【2】学者筋の斎藤薬局店主との交歓
【3】新波来湯に一抹の物足りなさ
【4】飯坂の湯
 

回想 私の飯坂 湯けむりのなかで 〜鐵貞雄氏

飯坂の湯
 
飯坂の温泉街の繁華とは対称的に、下町は農家や勤め人の家が連なっていた。わが家は下町で、しかも町のはずれであった。それでも純農村形態の所から見れば、町中に近く、温泉街には15分位で行けた。
 
当時、飯坂町で、自分の家に湯浴みの出来る施設を持っている家は、旅館とかその近間の家ぐらいしか無かったのではあるまいか。私はついぞ耳にしたことがなかった。もし、自分の家に風呂場でもあろうものなら芳しからぬ風評などが立ったものであった。わが家の近くにそのような家が一軒あって、まさにそういわれていた。先天性の水頭症の子がいたためであった。
 
下町(当時の字名は町裏、現在は○町という)へ移住したのは、昭和4年ごろ、そこは生まれた村と道路一筋で距てていた。建てて間もない大将数寄屋造りの瀟洒な家であった。
家は代々の武士。明治以降はいわゆる官員様の家系であった。
 
もちろんその家に内風呂はなかったから、転居してすぐに温泉(共同湯)通いがはじまったのであろうが、それは日常茶飯のこと、とり立てて記憶することなどなにもない。ありふれた生活の一部であって見れば当然のことである。
しかし他のこととは異なり、入営するということは、誠に気分爽快となるもの、いつもいい気分であったのは申すまでもない。
手拭い1本さえあればあとはなにもいらなかった。家人といっしょのこともあったが1人で行ってくることもごく普通であった。
 
月に幾度かは祖母といっしょに出かけた。入浴はたいてい湯沢の鯖湖湯であった。湯銭のいるワンランク上の共同浴場であるが、そこがわが家からはいちばん近かったせいかと思う。
祖母は84歳で昭和12年に亡くなっているから、私が7、8歳のころのできごとである。
 

 
【雑観】
 
文中、「町裏」今は「○町」の「○」が先生が達筆なため読み取れません。ここらへんみたいですがhttp://www.navitime.co.jp/address/07201004240/%E7%A6%8F%E5%B3%B6%E7%9C%8C%E7%A6%8F%E5%B3%B6%E5%B8%82%E9%A3%AF%E5%9D%82%E7%94%BA%E7%94%BA%E8%A3%8F/
どなたかご存じの方教えてください。木偏に、皇みたいな字を書きます。
 
鯖湖湯は、この次の段で詳しく説明有りますが、このブログの左上にある写真がそれです。
飯坂温泉のシンボル的存在です。
 
でもこの写真は建てかえ後。私が小さいころ入ったのは、もっと灰色っぽくて白茶けた感じです。場所も、これより左手方面にありました。次の次の段で出てくる「透達湯」を吸収合併し、透達湯の場所に鯖湖湯を再建したのです。
 
 
 
【過去記事】
【0】説明
【1】新聞記事は見極めが大事
【2】学者筋の斎藤薬局店主との交歓
【3】新波来湯に一抹の物足りなさ

回想 私の飯坂 湯けむりのなかで 〜鐵貞雄氏

再生 飯坂へ
 
十綱橋の近くに波来湯が新たな組織機構のもとに、市の企画のもとに再生された。
 
老舗旅館「若喜別館」(注*本館)の大火後、その建造物が残骸として、温泉郷の入口に立ちはだかっていたのを取り払っての、公園化計画と一体化した大事業であったが、出来上がってみると、昔を知る人間にとってはどうも腑に落ちない物足りなさが残った。
 
このことに限らず、馴れ親しむまでは、何事によらずつきまとう懐古の情がそうさせるのであろう。
 
私が飯坂の町で暮らしたのは太平洋戦争をはさんでの二十年ほどしかなく、飯坂の町生え抜きの斎藤康夫と比較すべきもないが、論たまたま古き良き懐しき飯坂〜波来湯おあたりの話になり、互いに共鳴するところあって、私は私なりに飯坂のことを、温泉場、とくに共同浴場のことに限って、その寸考を述べることにした。捨稿につき、気らくに二、三をのべてみる。
 

 
【雑観】
 
3年前、震災前の元旦に波来湯はリニューアルオープンしました。
私の2011.1.1のブログ記事
 
昔の波来湯(2008.3)・・と言っても半分工事中なので、本来のちゃんこちゃんこ(階段)はこんなではありません。
 
確かに、今の波来湯とは全然違ったものになりました。そのときは私は何も書きませんでしたが、鐵先生の
出来上がってみると、昔を知る人間にとってはどうも腑に落ちない物足りなさが残った。
このことに限らず、馴れ親しむまでは、何事によらずつきまとう懐古の情がそうさせるのであろう。
これ、よくわかります。
 
 
 
【過去記事】
【0】説明
【1】新聞記事は見極めが大事
【2】学者筋の斎藤薬局店主との交歓

回想 私の飯坂 湯けむりのなかで【2】〜鐵貞雄氏

飯坂の語り部
 
よくもまあこんな枢要の地に住んだもの、と誰しもが感服する、福島県の名勝、飯坂最繁の地 十綱橋のたもと十綱の地(町)にある現斎藤薬局。福島の町から移って三代になるというが、旧家で、代々学者のきこえが高い。
 
現当主康夫もその例に洩れず幼少より地歴に興味を持ち、学を修め医薬の業を習い、寸暇を綴り合わせて史学の研究に励み、とくに福島県北地方の史蹟の発掘調査に携わり、とくに月崎遺跡の発掘には先導的な役を果たし冠たる成果を修めた。
 
斎藤康夫らが唱導して組織した地誌研究組織は盛時には二百を越す会員によって支えられ、研究紀要「すりかみ」の巻頭言を克明にのこしてきた。
 
私は先述した新聞の誤謬を正すにあたり、いつもその豊富な卓見に依拠してきた。
●天王寺経筒発掘の経過
●松尾芭蕉の飯坂の一夜
●太平洋戦争時下における学童の疎開
●温泉の開さく
●飯坂の温泉郷としての殷賑
●飯坂昭和19・7・1の大火
●福島市との合併秘話
などなど。さらにラジューム泉の発見や、飯坂の地に設けられた衛戊病院の変遷など、どのひとつを採り上げても一遍のドラマ・物語になるほどの内容を蔵していたから、足繁く、または電話によって確かめたことが実に多かった。
 

 
【雑観】
 
斎藤薬局の店主のお話です。
箇条書きで記されたことについて、どれもこれも、興味深いお話ですね。
そして、難しい語句が多く、なんてよむのかもわからないのもあります 出てこない字もあり・・・。
 
 
【過去記事】
【0】説明
【1】新聞記事は見極めが大事
 
 

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