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20140217 福島民報あぶくま抄より
当時、編集局文化部長だった鎌田喜之氏によるあぶくま抄です。今から5年前ですね。
鎌田さんはドナルド・キーン氏について、生前から「彼ほど、日本の文学や日本人の美意識に理解があり、 被災地に対する深い洞察を持った外国人はいなかったのではないでしょうか?」
と話していました。
読売とかでも大々的に追悼記事になっていますが、私としては、福島県の記者が、直接キーン氏にふれて書かれたあぶくま抄が、とても貴重なものに思えますので、ここでご紹介しました。
民報でも追悼の記事が出ているんだろうとは思いますけどね。
やっぱり「鎌田義之の目(あいづ)」が、一番でしょう。
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「鎌田喜之の目(あいづ)」
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政治学者の姜尚中さんは、東日本大震災と東京電力福島第一原発事故の直後に訪れた相馬市沿岸で、がれきに混じった写真を見つけ、天災が断ち切った生と死とを思った。そこで、生き残った人たちが新たな人生を生きるためには、新たな結び付きやコミュニティーの再生こそが必要なのだと痛感したのだという(聞き手・編集局次長 鎌田喜之)
---福島では震災と原発事故から7年たったが、ふるさとに帰還した人、帰りたくても帰れない人、避難先で新たな暮らしを始めた人とさまざまだ。コミュニティーをどう再生すればいいのか。
「浪江町を訪れた時、郡山から通っている理髪店経営の女性に出会った。どうして通っているのかと尋ねると、ほっとする場所だからと言う。彼女にとっては郡山は安心する場所で、浪江はほっとする場所。ほっとする場所が安心する場所になるにはどうすればいいかと聞いたところ、コミュニティーのようなものができてくれれば、ここに住みたいと答えてくれた」
---ただ、震災と原発事故があまりに過酷だったため、被災地への住民の帰還は自治体が思うように進んでいない。
「被災地でのコミュニティーの再生は、従来からそこに死んでいた人と外部から移住してくる人、つまり内と外の合作で進めていかないと難しい。外から来る人は定着しなくてもいいから極力迎え入れ、その力を活用してもらう。その際、重要になるのは、そこに住んでいた人たちの歴史や記録を残しておくことだ。それが新しい住民が移ってきた際、根本的な意味で暮らしの土台になり、ふるさとを離れていく人の思いをつなぐことにもなる。人々の思いがつながっていることが大切なのだ」
---4月、浪江町や富岡町、川俣町山木屋地区、葛尾村、飯舘村では、地元で学校が再開する。
「被災地では最初は児童生徒数が少なく、変則的な学級編成にならざるを得ないかもしれない。けれど、逆に学校で学ぶことに対する強い意識が生まれるはずだ。こういう子供たちに福島にとどまってほしい」
---震災後、福島では人のため、地域の役に立ちたいと、心ざる子供たちが増えている。
「福島の子供たちは早く大人になっている。震災を経験した子供たちはもちろん、記憶になかったとしても大人たちを見ている。だから、他人や社会のためにという利他主義が自然に芽生える。震災は悲劇だけれど、子供たちにとっては先生、生きた教訓になったのではないか。震災と原発事故は人々にさまざまな分断を生んだが、純粋にいいことをしたいという子供たちの素朴な気持ちは分断を乗り越える力になる、その子たちがしっかり勉強できるシステムを行政は整えてほしい。福島は人づくりに最大のエネルギーを費やすべきだし、復興は子供たちにかかっている」
新しい学校は、先生の数に対して児童の数が少なく、先生の目が行き届くという利点があります。私の姉は教師ですが、過疎地の学校に行ったとき、複式学級で、一人一人がよく見え、「教育の神髄がわかった」と、言っていました。30人とか40人の授業では、全員が「わかった」と確認してから次に進むことは不可能です。でも、児童数が少ないとそれが可能なんですね。
ツイッターでどなたかが「子供に『ここにとどまれ』とは言いたくない。子供は、自分の好きに生きてほしい。そしていつかふるさとに帰ってきたくなるような地にしておくことが私たち親の責務」というようなことを語っていた方がありました。まあ、正論ですが、きれいごととも言えますね、そうやった結果が、現代です。親は「あなたの自由に」というほうが、楽なのです(まあ、私もそのクチなのですがね・・・・)
「新しい住民」というのもキーワードかと思います。
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鎌田喜之福島民報編集局次長による「震災・原発事故 7年の視座」姜尚中氏インタビューの続き。
前回は「災禍の『局地化』危惧」
政治学者の姜尚中さんは東日本大震災と東京電力福島第一原発事故が地域限定の問題に「ローカル化」されつつあると危惧する。その上で、被災地と真剣に向き合うためにも、絶えずイベントを掲げる「イベント国家」をやめるべきだと指摘する。
---国の復興・創生期間はあと3年で終わる。福島の復興はまだ途上にあるのにだ。
「今、日本の国や国民の焦点は東京五輪に向かっている。五輪は大きなイベントだが、これによって焦点異動が起き、五輪より被災tいだとは言いづらい雰囲気にある。イベントはカンフル剤のようなもので、その度ごとに熱くなるが、終われば冷えてしまう。だからまたイベントを企画する。国家的なイベントを絶えずやり続けないと、前に進めないという国の在り方から、もうそろそろ卒業しなければならない。どこかで断ち切り、成熟した社会を目指さないと、『3・11』以降、東京五輪以降が見えてこない」
---23年前の阪神大震災で被災した神戸市は自治体や住民主導の「創造的復興」を目指したが、プロジェクト型の大規模開発は軒並み撤退や中止を強いられ、商業や地場産業は衰退した。福島の被災地では福島・国際研究産業市(イノベーション・コースト)構想など、新しい産業が動き出したが、福島は阪神大震災から何を学ぶべきか。
「復興をリードしていく産業や分野は確かに必要だ。だが、竹に木を付けるような企業誘致では、また同じことを繰り返すことになる。産業というのは、身の丈に合った社会インフラと人間関係をはぶいてやっても定着しない。ハイテク産業を導入するだけでなく、自分たちの身の丈に合った仕事を復興させることこそが大事だ。身の丈に合った産業や振興をはしょって一挙にやろうとした一つの負の遺産が原発事故なのだ。では、福島では何かと考えると、やはり第一次産業である農業や漁業を再興すること。それが、被災地の人々の暮らしや仕事を支えることにつながるはずだ」
姜氏は「被災地の主要な生業は(原子力発電所を除くと)農業や漁業だ」と言いたいことがわかりました。そうできたら、一番ですね〜。だけど、どういうふうにして?というのが私は一番聞きたいです。風評もあることですし・・・・
でも、「流通が戻らないのを、風評のせいにばかりしてはいけない」という(勇気ある)意見もあり、これについては姜氏はどう考えているんでしょうね。聞きたいですね。
しかし、イノベーション・コースト構想への痛烈なダメ出し(身の丈に合ってない)を、県紙である福島民報紙上で堂々と行っているというのは、かなり珍しいこと(たぶん、福島民報としてはこの構想を全面的に支持していると想像します)。
私としては、相双地区に関しては完全に第三者ですが、よく「国のエネルギー政策を根幹で支えてきたという誇り」と言われることに、県出身者として、一定の敬意を感じています。その視点で言うと、姜氏の「身の丈に合った農業や漁業をやるべき」という意見に、どうも「上から目線では?」というふうに感じてしまいますが。考えすぎでしょうか。私は、最先端の技術の集積の地域にするのは、よいなあと思うんですけど・・・・。【上】で姜氏が「危惧」した「周辺化」「局地化」「ローカル化」にするなって話と微妙に食い違っている感がします。私は浪江の工場計画を喜んだけれど、こういうのもよくないとお考えなのかな?これだって、付け焼刃じゃないのって感じなのでしょうか。
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福島民報2018年3月18日(日)一面に特集された「7年の視座〜震災・原発事故」、姜尚中氏の記事を書き写しておきます。編集局次長 鎌田喜之氏のインタビューです。
ネットで見られるといいのにね。検索しても民報のHPからたどりつけませんね。
実は私は姜氏にはあまりいい印象を持っていません。サンモニなどの発言など、ちょっとどうかと思うこと多々です。
しかし、その人の知性を引き出すのは、引き出す人の力に寄るもの。鎌田さんのインタビューですからね。これは記録せずにいられましょうか。そしで、私自身、いろいろな示唆を得ました。
戊辰戦争を経て明治政府が誕生し、今年で150年。政治学者の姜尚中さんは「近代日本はひたすら成長と繁栄を夢見てきた歴史だ」と言う。そんな中で東日本大震災と東京電力福島第一原発事故は起きた。あれから7年---。未曽有の災害がこの国に突き付けた意味と被災地のあるべき針路を聞いた。
---2016(平成28)年1月から9月まで福島民報に掲載した「姜尚中 思索の旅『1868〜』(共同通信配信)では、近代国家の本質の一つを「エネルギーは国家なり」と捉え、光りや明るさ、豊かさを求め続けた結果、その延長上で起きたのが原発事故だったと指摘している。
「東日本大震災と原発事故は、人類史上的な出来事だ。それでも国の根幹は変わらなかった。国家は科学技術とセットで、戦前も戦後も同じ方向を目指してきた。戦前は軍事、戦後は経済という違いはあるが、国家が総力戦を展開し、破たんした。広島や長崎に原子爆弾が投下され、水俣では公害問題で多くの人が苦しんだ。今回の原発事故もそうだが、この国はそれを、あたかも自然現象のように取り扱う。国は出来事を局地的なものに封じ込めようとしているのではないか」
---未曽有の災禍に見舞われても、時間がたつにつれ、国家の政策の根幹や進むべき道とは切り離していくということか。
「そう。局地的な問題としてローカル化しようという力が働いている。問題を周辺化、ローカル化し、それが中心や基幹部に連動しないようにしていく。その目に見えない力が最大の問題だ。その結果、国の作為的な無作為を放置してしまう。よく言えば蘇生力の強さ、悪く言えば、問題を常に周辺化し、そこにだけ負荷をかけることによって、中心と基本的な部分が生き延びられるようにする。原発事故から7年で、そんな国家の姿が改めて浮き彫りになった」
---福島では今なお5万人近くが避難を余儀なくされている。けれど、それは地域の限定的な問題で、日本全体への影響はないのだと。その力が強まっているとすれば、私たちはどうすべきなのだろう。
「歴史を消さないことだ。石炭から石油、原子力とエネルギー転換の中でも起きたが、時間がたつと人口が入れ替わっていく。だから、震災と原発事故で福島が被った歴史をしっかり明記することが大事だ。それを日本の国民、大げさに言えば、人類史的なテーマとして後々まで絶やさずに残していく。伝えていくことだ」(続く)
ここで、何回も言葉を変えて表現が出てきますね。繰り返すことで、なんとわかりやすいメッセージとなっていることでしょうか。
国語のテストじゃないけど、この人が言いたいことを短くまとめよと言われれば。
「国(中心・基幹・基本)は、福島に起きたことを、地域に限定化(局地化・周辺化・ローカル化)しようとしているが、本当は人類史で欠くべからざる出来事だ」
確かに私は帰省しても、日常が戻っていて特に何も感じませんが、浜通りなど、前に戻っていないところはたくさんあります。
しかし、復興が進まない現場や、暗部を書き記して歴史に残そうとするのは、今、多くが反原発や反政府、また左翼運動家の手に寄るものに限られているように感じます。
私がフォローするいろいろな福島県民の声は、多くが明るい福島です。でもほんとうなのかな?ほんとうにそうなのかな?
「現実を直視※して初めて、問題点を共有し、未来に進めるのではないか」
「つまりは、中通りなど日常が戻っている人しか、発信していないのだ」
「浜通りや、避難の人がもっと発信してほしい」
「しかしそういう人の発信を、私は後ろ向きで、悲しむばかりで・・・と、とらえてしまうことがある」
「暗い感情の吐露や批判文句ばかりに寄らない、客観的で建設的な指摘が、浜通りからもっと出てきてくれないか。すでに日常を歩んでいる人も一緒に考えたくなるような発信を。互いにエアリプではなくて、直接、語らえるような意見を」
復興が進んでいない福島の問題点を発信する、運動家ではない率直な意見を出す人は、私が知っているのは2人だけ。
そんなもやもやはずっと抱えていたのですが、このたび、鎌田さんが姜氏(民報らしからぬ人選かと)に話を聞いたと知り、興味を持ちました。
注意 ※「現実を直視 」とは、反原発界隈の言う放射線量・健康不安のことではありません(つまりそういう人たちは反原発に福島のことを利用したいから、線量のことや健康不安ばっかり言っている)。
ここでいう「現実」とは、目に見えない放射線ではなくて、目に見えることです。街並みが戻らない。インフラが整わない。帰還する人が増えない。そういうことです。
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【上】はこちら。
金子兜太 福島を語る 【下】 2016.3.13俳人の金子兜太さん(96)は昭和25(1950)年12月に日本銀行本店から福島支店に転勤になる。家族と共に福島市で3年近くを過ごした。
・・・著書で福島は「本店から飛ばされた1番目の町」と書いている。そのころ、こんな句を詠んでいる。
「戦時中、トラック島では海軍施設部にいて多くの工員たちと、明るい光の中で生活していた。戦争が激しくなると、彼らは兵隊より先に、消耗品のように亡くなっていったんだ。戦後日銀に復職したが、職員は身分級で縛られている。これが戦後の日本かと思ったね。もっと明るい社会になるはずだと信じていた。何とかしようと、労働組合の責任者になって活動したんだ。それで福島に飛ばされたと思った。夜汽車で行くんだが、白河を過ぎると寂しくてね。自分の運命と重なるようで、当時は島流しだと思ったね」
・・・しかし、福島は忘れられない地になる。
「そうなんだ。当時支店長は鎌田正美(故人)といって、私をよく弁護してくれた。営業の調査に回されてね。只見川の水力発電所の調査で奥会津に行った時は、飯場の親方と一緒に温泉に入った。常磐炭鉱では芸者さんと酒も飲んだ。阿武隈山地にウランが出るらしいという話もあって山を歩き回ったこともあったなあ。結局、何も出なかったのだけれど・・・。あの仕事のおかげで福島という土地が分かったし、社会のいろいろなことを教わった。福島は広くて豊かで、人間で言えば肝臓のような県だ」
・・・友人も多かった。
「信夫山のふもとにあった俳人の藤村多加夫(故人)の隠居所を社宅に借りて住んでいた。佐藤善信(元福島民報社代表取締役専務・編集主幹)や脚本家の岩間芳樹(故人)と知り合ったのもこの町だった。とにかく、あやのある思い出ばかり。実に面白い時代だった」
・・・ただ、家族の苦労は多かったようだ。妻を思いやる句がある。
「私は仕事だ、酒飲みだと飛んで歩いていたんだが、妻のみな子(故人)は見知らぬ土地で辛かっただろう。福島にいたころ、彼女の母親が亡くなってね。そんな夜、雪山の向こうの空が明るみ、消防車のサイレンの音が聞こえた。妻はその夜火事を黙って見ていた。そんな家族を友人たちは心配してくれてねえ。だからよけいに福島は忘れられない」
・・・今も日記と立禅を欠かさない。
「立禅は自己流の習慣だ。一日1回、神棚の前で立ったまま目をつぶって小声で故人の名を唱えていく。今では120人ぐらいになっている。戦後の俳句運動を共に進めてきた仲間や友人を思い浮かべる。名前を呼ぶと、その連中がよみがえって影のようなものが目の前を過ぎていく。自分が救われているような気持ちになり、元気づけられる」
・・・震災と原発事故では関連死を含め、多くの命が失われた。
「本当に残念だ。すべての人間が与えられた命を生ききる、まっとうできる国であってほしい。だが、他界しても人間の魂は消えない。つまり、覚えている人がいる限り、死んでもその人は生きるのだ。与えられた命を一人一人が十全に生きることが大切のような気がする」(文化部長<当時> 鎌田喜之)
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