『易史伝』

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54萃卦

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萃:亨、王假有廟、利見大人、亨、利貞、用大牲吉、利有攸往

萃:「山+卒」に通じる。山が崩れそうで危殆な様子。
注:『詩経・大雅・十月之交』:百川沸騰、山冢「山+卒」崩。
『帛書』には「卒」とある。(卒:貴人要人の死をいう。)

亨:祭祀会同。ここは葬儀(国葬)をさす。

王假有廟:王様はたまやにたよって利用して、政府の名義で国葬を行う。
       {渙}卦も「王假有廟」。

利見大人:人が信頼する権力高官があらわれて(出て葬儀の主事として)利ろし。

亨、利貞:葬儀(国葬)を行う、それに関してうらなえば利ろし。

用大牲、吉:大きないけにえ(牛、太牢)を用いればいい案だ、儀式荘重盛大。

利有攸往:方針目的があり、それに沿ってゆけば利ろし。




初六。有孚、不終、乃乱、乃萃、若号一握、為笑勿恤、往無咎

有孚:人々がこの貴人要人を尊重して、真心をこめて、(見舞いや葬儀に)来る。

不終:仕事責任は終えていない。この人物が倒れたことを惜しむ表現。

乃:すなわち。そして。

乃乱:そして国家政治の正常秩序が乱れる。

乃萃:かれは病気重くて死にそうだ。

若:もし。

号:号泣。

握:握手。

若号一握:もし号泣になったら、人が死んだことで、最後一回に会って握手して決別する

為:なる、なす。

為笑勿恤:笑いになれば、別条はないことで、うれえることなかれ。

往、無咎:号(死)でも笑(生)でも、目的方針に沿ってゆけば、とがめなし。




六二。引吉、無咎、孚乃利用ヤク
注:ヤク=示+龠

引:弓をひくこと。{兌}卦と同じ。

引吉、無咎:力(能力)に応じて、儀式を行えばいいことだ。とがめなし。

ヤク:簡約簡素な祭り。

孚乃利用ヤク:人々が真心をこめて信用すれば、すなわち簡素なまつり(儀式)を用いれば利ろし。
           {升}卦と同じ。




六三。萃如嗟如、無攸利、往無咎、小吝

萃如嗟如、無攸利:あの人が重体危殆で、人々はうれえて嘆く。状況危うくてよろしいところは無い。

往、無咎:初六の場合と同じ。生も死も天命のことで、人をとがめるはしない。

小:私的、小規模、公開せず。

小吝:情報また葬儀(国葬)が公開しないと、下の人は仕方なくても不満する。




九四。大吉、無咎

大吉、無咎:情報また国葬を正式公開に行えばいいことだ。とがめなし。


九五。萃有位、無咎、匪孚元永貞、悔亡

位:位階。死後の爵位・封号(諡)のことをさす。

萃有位、無咎:要人(死者)に位階・おくりなを定めてあり、礼法でとがめなし。

匪孚:不正な真心。
    死者を尊敬して惜しんで相応しくない不実な位・諡を贈るのは不正である。

元:もと。根本的。伝統由来あり。源遠き流れ長し。

永:歴史的な長久将来。

元永貞:「位諡」を贈ることについて、礼法旧制に違背せず、長久将来にも悪い先例を開かない(後人に指摘されない)ようにうらなう(考えてする)。
      {比}卦と同じ。

悔亡:再検討して、内部意見を一致して適当な「位諡」を決める。そして、矛盾不和悔いることがなくなる。




上六。齎咨涕洟、無咎

齎:副葬品を贈る。死者に贈り物する。
注:『周礼・春官・小祝』:及葬、設道齎之奠。

咨:なげき。

涕洟:なみだとはなみず。

無咎:もう過ぎたので、また人をとがめることをしないよう。

54萃(二)

中国史:(円図正対輪{萃}−572〜−544)
    (周易輪{夬}−577〜−563。{姤}−562〜−548。{萃}−547〜−533)

  −572’ 晋宋衛曹莒邾滕薛が彭城攻落。

        五月、晋師が鄭楚に侵入。

        秋、楚鄭軍が宋を攻め、呂・留・犬丘を落とす。

        周の簡王没、子泄心即位。周の霊王の御世。(−571〜−545)

  −571’ 晋、虎牢に城を築いて、鄭が降服。

  −570’ 春、楚軍が呉の鳩茲を陥落、呉は楚の駕を取る。

        楚、晋と連盟する陳に侵攻。

        晋の知罃が楚に臣従する許国を討伐す。

  −568’ 冬、楚が陳国討伐、諸侯は陳を救う。

  −567’ 十一月、斉が莱を滅ぼす。

  −566’ 魯国、季氏が費に築城。

        冬、楚が陳を囲む。
        晋が陳のため諸侯を「為+おおざと」に集まるが、陳哀侯は弟の公子黄が楚に捕まえら        れたことにより、盟をせずに帰国。

        鄭国、子駟が僖公を毒殺して、簡公を立つ。

  −565’ 春、鄭の公子ら、子駟を謀ったが、先手を打った子駟に殺さる。

        鄭が蔡国攻む。

        楚が鄭に侵攻。
        鄭は親楚・親晋両派に分けて、ついに子駟の”犠牲(生贄)玉帛を二つの境に置いて、        来るものに従う”という策を採る。

  −564’ 秦景公が楚と連合して晋に侵入。

        冬、諸侯が鄭国討伐。

        楚が鄭国討伐。
  
  −563’ 五月、晋、偪陽を落城して宋に与う。

        夏、楚鄭連軍、宋・魯を討伐し、衛の援軍と戦う。

        十月、鄭国、子孔が子駟らの執権者を攻め殺して、それを代わりに摂政となろうが、子           産の諌めにより、国政を鄭簡公に奉還す。

        晋ら諸侯の軍が虎牢を占拠して鄭を降服せしむ。

        楚が鄭を救い、晋軍撤退。

        周の王叔陳生が伯輿と政権を争って、晋の范匃に平らげられる。

  −562’ 一月、魯国が三軍を作り、三桓(季孫氏・叔孫氏・孟孫氏)が各々一軍を治む。

        鄭が宋を侵攻、晋の側諸侯は鄭国討伐。

        秦、鄭のため晋を攻めて、櫟の戦いで、晋師敗績。

  −561’ 冬、楚秦連軍が宋国討伐。

  −560’ 呉が楚に侵入、庸浦で大破られる。

  −559’ 一月、晋ら諸侯が向に会盟して、楚を謀る。

        四月、晋、諸侯の軍を率いて、秦を討伐、棫林で敗れる。

        衛献公、臣下を無礼に扱うことにより、孫林父・寧殖らに追われて斉に出奔。
        殤公が擁立される。

        秋、楚の子嚢が呉に侵入、帰り道に討たれて、”必ず郢都を築城せよ”と遺言して没。

  −558’ 夏秋、斉・邾が魯国侵攻。

        冬、晋の悼公没、子彪後継ぎ。(晋の平公)

  −557’ 三月、晋平公が諸侯と会い、斉楚に通じる邾宣公・莒犂公を捕虜す。

        六月、諸侯が許国討伐。晋軍が楚軍と湛阪に交戦、楚軍敗績。

        秋、斉が魯に侵入、魯が晋に訴う。

  −556’ 衛の石買・孫蒯が曹を侵攻して、重丘をとる。

        秋冬、斉・邾が魯に来襲。

  −555’ 夏、晋が石買・孫蒯を逮捕す。

        秋、斉が魯に来襲。

        冬、晋平公が諸侯の師を率いて斉を討伐、斉都(臨淄)を囲む。

        楚は諸侯が斉にいる隙間を狙って鄭に侵入。

  −554’ 斉霊公没、廃された太子光が崔杼と連合して公子牙を捕まえて自立。(斉の荘公)

        鄭国、子展・子西が子孔を殺して政権をとり、子産は卿となる。

        晋斉が大隧で講和。

  −553’ 夏、晋斉らが澶淵に会盟。

        親楚派の蔡の公子履・陳の公子黄が楚に出奔。

  −552’ 邾の庶其が漆・閭丘の地を以て魯に投降。季孫が公族の女を庶其に嫁す。
        当時、魯は盗賊が横行していて、季孫行父が臧紇に盗賊追捕命令。
        臧紇曰く:”貴殿が正卿とて外盗を招きて礼遇すれば、何以てわが国の盗を止めんや?”

        晋国、范匃、欒盈と仲悪し。
        秋、欒盈が楚に出奔した後、范匃が欒盈の党を皆殺す。
        冬、范匃が諸侯と商丘で会って、欒盈を収容することを禁ず。
        知起・中行喜・州綽・邢蒯(欒氏の党)が斉に出奔。

  −551’ 欒盈、楚から斉に向かう。

  −550’ 陳国、公子黄が楚軍を借りて慶氏を滅ぼす。

        欒盈が斉の援助により曲沃に帰り挙兵して絳を攻めて敗死、欒氏滅亡。

        斉の荘公が衛・晋討伐。

  −549’ 鄭の子産の諌めで、范匃が諸侯の幣(貢物・金銭など)を減量す。

        晋のため、楚斉が交接す。

        冬、楚蔡陳許が鄭に出兵して斉を援助。晋が鄭を救う。

        舒鳩国、呉の誘いに応じて楚に叛く。

        斉、周の王城(郟)を築いて、周霊王に媚びる。

        この年、范匃没。

  −548’ 春、斉の崔杼が魯に侵入。
        孟公綽曰く:”崔子(杼)がまさに大志あらん、わが国を患わさざればぜひ速帰して、             何か憂いか?その軍は乱暴を働かず、民に厳しからず、以前と異にせり。”

        棠公の未亡人(棠姜)が崔杼に娶られたままに、斉荘公に私通。
        五月、崔杼、斉荘公を殺して、荘公を弔ってきた晏嬰を人望あるため殺さず。
        荘公の党盧蒲癸が晋に、王何が莒に出奔。
        斉の史官が”崔杼弑其君”と記して、また二人の弟が同様なことをしたので殺された         末、三人目の弟がやっと許される。
        斉の景公が立ちて、崔杼を右相、慶封を左相に任命。

        晋平公、斉国討伐、斉荘公の死また崔杼の賄賂により撤兵。

        六月、鄭の子展・子産が陳国討伐。(昨年の役の仕返し)

        七月、諸侯が重丘に会盟。
            晋の執政趙武曰く:”これより、兵がやや収めんなり。
                      斉の崔・慶は今しがた政をとり、諸侯に善しを求めゐ、                      楚の令尹(屈建)はわれと仲良し、かれらを敬いて文辞                      以て諸侯を安んぜば、兵が収めむべき候。”

        八月、楚軍、呉軍を破って舒鳩を滅ぼす。
        
        楚国、屈建が田地山林を測って新らしい租税を定む。

  −547’ 衛の献公(−559年に出奔)が寧喜と”ほんとに帰らば、政事は寧氏に任せて、祭祀        のことこそ寡人せめ。”との約束に応じて、寧喜は二月に殤公を殺して、献公を迎えて        立つ。

        衛が戚を攻め、茅氏にの晋軍守備三百人を殺す。

        楚康王が秦兵を連れて呉・鄭に侵入。

        六月、晋宋鄭曹が衛国討伐、衛献公と寧喜を晋に拘束す。
            のち斉鄭の斡旋で二人を釈放す。

        十月、楚蔡陳が鄭国討伐。

        楚の大夫伍挙、罪に被られて晋に出奔。
        蔡声子は令尹子木に”たとえ楚に人材ありとも、実は晋に重用さる。”と諌止して、人        材流出で他国強まりを恐れて、伍挙を召還す。

  −546’ 夏、衛献公、寧喜を殺す。

        五月、宋の向戌が奔走により、晋楚斉魯宋衛陳蔡鄭許曹邾滕が宋に会盟。
           これは第二回講和大会。第1回は−579年宋の華元の斡旋により成す。
           宋国は晋楚斉呉四国方形の中心部にあり、戦争の辻である。最も傷害を甚く受け           る国だと思われる。
           後世、戦国時代の墨家の創立者墨翟(墨子)も宋の国籍である。
           墨子が”兼愛(広く平等に愛し合う)・非攻(反戦)”などを唱える。

        九月、崔杼が後妻棠姜との間の子(名は明)を後継ぎにして、先妻の子崔成・崔彊が東            郭偃(棠姜の弟)・棠無咎(棠姜の連れ子)を殺す。
            慶封が崔杼を助けるという名義で崔氏を攻めて滅ぼす。
            崔杼が息子らの落命、さらに棠姜に縊死を見て、も自分を縊る。
            崔明は魯に出奔、慶封は斉の国政を専有す。

  −545’ 夏、斉・陳・蔡・杞・沈・胡・北燕・白狄(楚側の)諸侯が晋平公に謁見す。
        (昨年の盟約)

        崔杼を除いた慶封が日ごとに酒と狩りに耽って、政事を子慶舎に任せる。
        十一月、欒・高・陳・鮑四氏、慶氏を攻めて慶舎らを殺す。
             慶封は魯を経て呉に出奔、朱方(地名)に封じられる。

        魯宋陳鄭許(晋側の)諸侯が楚康王に謁見す。
        途中、楚康王が没した報せを聞いて、魯襄公は道を続き、宋平公は引き帰す。

        十二月、周霊王没、子貴即位。周の景王の御世。(−544〜−520)

  −544’ 呉の公子札が中原諸国に訪問す。

        鄭・宋が飢饉に遭って、大夫らが粟を庶民に貸与。

54萃(三)

中国史:(円図正対輪{萃}1319〜1347)
    (周易輪{井}1304〜1323。{革}1324〜1343。{鼎}1344〜1363)

  1320’ 一月、元仁宗没、太子碩徳八剌即位。(元の英宗)
            鉄木迭儿が右丞相に復帰して、仁宗時期の大臣を殺して報復。

        黄河・滹沱河・渾河が決壊して、成紀山崩れ。

  1321’ 華厳寺修造・帝師殿営造。

        元英宗が西番受戒して、金銀五千四百両・帛万匹・鈔五十万貫を賞与。

        銅五十万斤を用いて寿安山寺の仏像を造って、諌止した御史鎖咬儿を殺す。

  1322’ 漢人の兵器持ち・武芸習い・白蓮教仏事を禁ず。
        ”白蓮教”は阿弥陀仏(明王、光明を代表する)を奉じて、”死後に西方浄土の白蓮池        に極楽を得る。”と信仰す。

        鉄木迭儿・太后答己没。

  1323’ 二月、法典『大元通制』頒布。

        八月、英宗、”誑取官幣案”を利用して太后一党を洗う。
            鉄木迭儿の臣下鉄失らが上都に元英宗を殺す。
            
        九月、晋王也孫鉄木儿(武宗の従兄)が諸王がに迎えられて、龍居河に即位。
           (元の泰定帝)
            鉄失らを殺す。

  1324’ 横州・賓州・循州・思州・酉陽・雲南の少数民族人が蜂起。

        渾源・滹沱・渭・黒・清・沙・「さんずい+名」・唐・黄河・長江ら氾濫。

        成紀山崩れ。

  1325’ 広西諸地の少数民族が蜂起。

        息州の民郭菩薩が”弥勒仏が天下を領有すべき”と唱えて、獄死。

        浙西・大都・汴梁・江陵・潼川・衛輝・開元・常徳ら諸地大水。

  1327’ 渾・黄河・黒・滹沱ら諸河が氾濫、通渭県・天全道の山崩れ、鳳翔・江陵・興元・成          都・陝州五路に地震。

  1328’ 七月、泰定帝が上都没。後継ぎにめぐって内乱勃興。

        八月、僉書枢密院事燕鉄木儿が大都に周王和実拉を立てようとして、先ず和実拉の弟懐           王図帖睦尓を江陵から迎える。

        九月、丞相倒剌沙が上都に皇太子阿速吉八を立つ。(元の天順帝)

            懐王が大都に即位す。(元の文宗)

            上都軍・遼東軍(遼王脱脱)が連合して大都を攻めて敗らる。
            陝西軍(靖安王闊不花)は上都軍に加担して、河南に進入したが、兵敗を知っ            て撤退。

            朱元璋誕生。
            元朝の天暦元年九月十八日(丁丑の日、未時13時〜15時)、
(1328年10月21日〜1398年)
            気卦:漸1歳+蹇+艮+謙+否+萃+晋+豫+観+比+剥+
               坤+復+頤+屯+益(4.75*14)+震2.4歳=69.9歳
           (計算:1327冬至〜2004冬至には、677ヶ回帰年、
               中に164ヶ閏年。
               677*0.2422−164=−0.0306
               2004年12月21日20時33分(0.8562日)
               20.8562−(−0.0306)=20.8868
               1327年冬至時刻:12月21日21時17分
               0.8868+305.8013(霜降まで)=306.6881
               1328年霜降時刻:10月23日16時30分。
               10月21日未時は{漸}卦上九にやどる)
            年卦:萃1347まで+需1377年まで+晋1398年まで

        十月、大都軍、上都を攻めて、倒不花が投降して、天順帝行方不明。

        十一月、四川行省平章嚢加台、鎮西王と自立して割拠。(来年夏に敗死)

        陝西は1325年からずっと雨降らずで大飢饉。

  1329’ 一月、周王が和寧(和林)に即位す。(元の明宗)
            弟懐王(文宗)を立太子。

        三月、雲南諸王答失不花ら、中央を叛く。

        八月、明宗と懐王は王忽察都に会見して、しばらく元明宗が急死。
            この急死の真相不明で、最も利を得る懐王・燕鉄木儿が疑わしい。
            懐王が上都に帰って復辟。

        飢民数:陝西1,234,000人、河南十万、益都三万世帯、江浙六十万世帯。
        張養浩が朝廷の”陝西行台中丞”職を受けて、全部の家財を貧民に配って陝西救済に入        り、四ヶ月後尽瘁して病没。
        『山坡羊・潼関懐古』:
         峰巒如聚、波涛如怒、山河表裏潼関路。
          望西都、意踟蹰、傷心秦漢経行処、宮闕万間都做了土。
          興、百姓苦。亡、百姓苦。

  1330’ 一月、雲南諸王禿堅が雲南王と自立。

        四月、益都・般陽・寧海の田十六万頃を国有して、大承天護聖寺に賜る。

        衡陽・高州・広西の瑤民が蜂起して、州県を攻む。

        江南の江・浙・湖広大水。

        飢民数:泰安九万世帯、中興三十万世帯、汴梁六十七万世帯。

  1331’ 一月、雲南平定。

        七月、広西瑤民騒動が静まる。

        八月、江浙大水、四十八万八千頃の田が被害。

  1332’ 八月、元文宗没。

        十月、燕鉄木儿が皇后不答失里の命を受けて、元明宗の次男七歳の懿璘質班を立つ。
            (元の寧宗)四十三日後病死す。
            ついで、明宗の十二歳の長男妥歓貼睦尓を広西より迎える。

  1333’ 二月、妥歓貼睦尓が大都の至ったが、専権した燕鉄木儿の妨げによって即位できず。

        六月、燕鉄木儿没、妥歓貼睦尓は上都に即位。
           元順帝の御世。(1333〜1368)
            伯顔を右丞相、撒敦(燕鉄木儿の弟)を左丞相に任命す。

        十一月、江西・湖広・江浙・河南に茶国専売復活。

        京畿・関中・河南は大水、両淮は大旱魃。

        湖広・広西の瑤民抗争が再び起こって、これからの二十年間に続く。

  1334’ 四月、京師に塩局を置いて、塩を国専売。

        京師地震、鶏鳴山崩れて、周辺百里の池となる。

  1335’ 撒敦没、伯顔は唐其勢(燕鉄木儿の子)・皇后(燕鉄木儿の娘)を殺して、朝政を握る。

        十一月、科挙廃止。

  1336’ 黄河が故道に戻る。(この故道はいつの故道であるか不明)

        秦州山崩れ、江浙大旱。

  1337’ 一月、広東増城県の民朱光卿が蜂起、敗死。

        二月、陳州の民棒胡(胡閏儿)が信陽に迷信で民衆を集って挙兵。(翌年に敗死)

        四月、合州大足県の民韓法師が蜂起、”南朝趙王”と自称す。
        
            省・院・台・部・宣慰司・廉訪司らの官員は全部蒙古人・色目人に任ず。
            元の民族政策は四つの等級に分ける。
            蒙古人は無論、色目人は蒙古・漢民族を除いてほかの少数民族。
            三級目は漢人(金朝・雲南・四川の蒙古に帰化早い漢民族)。
            最低級は南人(南宋国民)。

        五月、西番叛乱。

        伯顔が”張・王・李・趙・劉”との五姓の漢人を皆殺すを建議して、順帝に許されず。
  
  1338’ 袁州慈化寺の僧彭瑩玉が”弥勒教”を伝播して、”弥勒仏があまくだれば天下太平とな        る”と信仰し、北方”明教”の韓山童と並べて南方の宗教首領である。
        ”弥勒教・明教・白蓮教”三教はこの頃に、混同して、焼香・素食などの作法は同じ。
        
        弥勒教信徒の周子旺が蜂起して、敗死。

        南勝県の民李志甫が蜂起、漳州・龍渓を攻む。

  1339’ 漢人・南人・高麗人の武器携帯禁止。

        僕州・交城・興和・長汀・宜興・沈陽・遼陽・衡州・膠州・密・莒ら州飢饉。

  1340’ 三月、李志甫敗死。

        虎符親軍都指揮使脱脱、伯顔の苛政を不満して、元順帝と合謀して、
        伯顔が狩りに出た間を利用して、伯顔を左遷す。伯顔は流された途中に没。
        脱脱が中書右丞相となる。

        邳州・福寧・京畿・益都・般陽・済南・東平諸州は飢饉。

  1341’ 山東・燕南の飢民が大小三百ヶ所に蜂起。

  1342’ 科挙復活。

        順寧・広平・彰徳・衛輝・大同・冀寧飢饉。

  1343’ 回回の剌里ら五百人が蜂起。

  1344’ 黄河が曹州・汴梁・白茅堤・金堤に決壊して、曹・僕・兗・済が被害。
       淮河流域には大旱魃・大飢饉・大疫。

        朱元璋、両親・長兄死去、餓死の寸前、皇覚寺の僧となり、托鉢して光・固・汝・潁諸        州に三年遍歴、そして明教に参加。

  1345’ 『宋史』『遼史』『金史』成立。

        京畿・鞏昌・興国・汴梁・済南・邠州・瑞州・徐州・東平飢饉。

  1346’ 京畿・山東・遼陽・象州・汀州・河南・諸地に百姓蜂起。

        思靖・靖州の瑤民が州県を攻む。

  1347’ 山東・河南の蜂起が済寧・滕・徐州諸地に蔓延。

        瑤民が武岡を陥落して、沅州・宝慶を攻む。

        臨清・広平・灤河・通州・長江沿いは百姓蜂起。

54萃(四)

日本史:(円図正対輪{萃}1240〜1268)

  1241’ 幕府、多摩川の水を引き、武蔵野の開墾を計画。

  1242’ 一月、四条天皇没、皇嗣を幕府に諮問して、後嵯峨天皇践祚。
            (1242〜1246)

       六月、執権北条泰時没、経時跡を嗣ぐ。

       七月、西園寺公経の渡宋船、銭貨十万貫等を積み帰国。

  1244’ 四月、九条頼嗣将軍宣下。(鎌倉第五代)

       紀伊・伊勢に群盗蜂起。

  1246’ 三月、後嵯峨天皇、四歳の第一皇子久仁に譲位。後深草天皇の御世。
           (1246〜1259)

           北条経時、病により執権を弟時頼に譲る。

       五月、名越光時ら、頼経を擁して執権時頼を除こうとし、はかりごと露見失敗、鎌倉騒動。

       十一月、院評定制開始。

  1247’ 六月、時頼、三浦泰村・光村とその一族、ついで千葉秀胤を上総で滅ぼす。
           (宝治合戦)
           さらに、有力豪族の千葉氏をも攻め滅ぼして、幕府内における北条氏独占地位確立。

  1249’ 幕府、西国に大田文の調進命令。

       幕府、引付衆を置く。(最高裁判所)

  1250’ 幕府、権門の威をかりた寄沙汰行為を禁じ、六波羅に山僧及び大和の悪党乱暴の禁圧命令。

  1252’ 二月、幕府、将軍頼嗣を廃し宗尊親王を迎う。(第六代将軍)
           (摂家将軍に代わって、親王将軍始まる)

       旱魃で大飢饉。

  1253’ 朝廷新制を制定。幕府、その新制に追加して、関東新制を作る。

   日蓮、法華経のみを正法として鎌倉布教開始。(法華宗、日蓮宗)

  1256’ 夏、鎌倉大風洪水、赤斑瘡流行、群盗蜂起。

       十一月、時頼、執権を長時に譲って出家。これにならった多くの武士、出仕を止める。

  1257’ 八月、鎌倉大地震・津波。

       十二月、幕府、朝廷に倣って廂番・格子番を置き、幕府に詰める御家人の番編成を行う。

  1258’ 三月、明春に将軍上洛と定め、その課役に伴う庶民の逃散を禁ず。

       九月、諸国に群盗が蜂起。

       大暴風雨により諸国不作。

  1259’ 諸国に飢饉・疫病つづき死者多数。(正嘉の飢饉)

十一月、後深草天皇、恒仁親王に譲位。亀山天皇の御世(1259〜1274)

  1260’ 日蓮『立正安国論』を著し、時頼に献上。
        1250年代の後半、相次ぐ自然災害天象怪異を醒めた視線で眺めている日蓮は禅宗・        浄土宗などを邪宗だと認識し、仏経の七難の内、五難はすでに発生、残るは”他国侵逼        難”と”自国叛逆難”であって、まもなく生じる前兆であることを主張す。
        『立正安国論』:”法然といふものありて、選擇集を作る。則ち一代の聖教を破し、遍                 く十方の衆生を迷はす。
                 人皆其の妄語を信じ、悉く彼の選擇を崇めて、衆経を抛ち、極楽の                 一仏を仰いで、諸仏を忘る、誠に是れ諸仏諸経の怨敵聖僧・衆人の                 讎敵なり。”
        『守護国家論』:”源空は謗法の者なり、詮ずる所、選択集の意は人において法華・真                 言を捨てしめんと定めて書き了んぬ。”
        『諸法実相抄』:”鳥と虫とは鳴けども涙をちず。日蓮はなかねども涙ひまなし。”
        『四箇格言』:”念仏無間、禅天魔、真言亡国、律国賊。”

       これにおいて、幕府は黙った態度に対し、念仏門徒は激昂し、日蓮の松葉が谷草庵を焼討つ。

  1261’ 二月、幕府、61か条の関東新制。また、地頭役を百姓に転嫁するのを禁止。

       五月、朝廷21か条の新制。(辛酉の徳政)

           念仏門徒の突き上げにより、幕府は『御成敗式目』の”悪口の科”を適用して、           日蓮を伊豆伊東に配流。

       この年、叡尊の弟子忍性、鎌倉に入り、極楽寺を開き施薬院などの社会事業を行う。

  1263’ 二月、日蓮の流罪赦免。

       六月、幕府、飢饉で延期されていた将軍上洛を決定し、百姓に課役をあてる。

       八月、朝廷、弘長の新制(41か条)

           諸国大風雨。風害により将軍上洛中止、百姓課役を返す。

       十一月、北条時頼没。

  1264’ 三月、延暦寺衆徒蜂起、入京強訴、六波羅と戦う。また、園城寺を焼く。

       十一月、日蓮、小松原において念仏門の地頭東条景信に急襲され、
           あやうく九死に一生を得る。
             (小松原の法難)

  1266’ 三月、引付を廃し、評定衆が諸人訴論を沙汰することに改める。

       四月、鎌倉比企谷で、群衆飛礫の末武装闘争。

       七月、将軍宗尊親王をめぐって鎌倉騒動。ついで幕府、親王を京に帰し、惟康王を朝廷に           奏請。(第七代将軍)

  1268’ 一月、高麗の使に通じて蒙古の国書が来て、日本の服属を要求す。

           執権北条政村、地位を得宗であり連署でもある北条時宗に譲り、幕府の結束を図る。

        二月、朝廷、蒙古に返書を送らぬ旨を定め、これ以後、蒙古襲来に対する騒動が本格化。

        十月、日蓮、得宗御内、禅律寺など十一ヵ所に書を送り、諸宗排撃・法華宗帰依等を説く。

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