『易史伝』

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19明夷卦

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明夷:利艱貞

明:日と月。下卦の{離}は八卦系統には太陽をさす。

夷:低くて平たい。上卦の「坤」は八卦系統には平地をさす。

明夷:太陽が低平の方向に落ちている。衰頽の時世、またこの時世にいる末代君主のことをたとえる。

利艱貞:艱難な時勢(時代)に辛抱努力を考えてすれば利ろし。



初九。明夷于飛、垂其翼、君子于行、三日不食、有攸往、主人有言

于:助詞、無意味。

于飛:鳥が空中に飛んでいること。
注:『詩経』には、「燕燕于飛」、「鴻雁于飛」、「雄雉于飛」、「黄鳥于飛」などには頻出してある。

明夷于飛:「明夷」この鳥が空に飛んでいる。衰頽時世の末代君主はまだ上にいる。
按:明夷を鳥に譬えるのは、日の中に「足+俊の右部分」鳥(三足の烏)有るということである。(『淮南子・精神訓』)
  『周易』には、鳥に関する言葉は、およそ中央政府政権とつながる。とくに殷国政権のことをさす。
  『詩経・商頌・玄鳥』:天命玄鳥、降而生商。

垂其翼:高く飛べなくて、翼をたらして下へと滑走するしかえない。

于行:「于飛」と文法同じ。去ってゆく。

君子于行:道徳知恵がある君子は乱国を去る。

三日不食:三日間(逃れる数日間)に食事もせず。時間緊迫、事態緊急、生死にかかわる。

有攸往:いくところある。目的方針ある。

主人:目的地の主人。君子を留め置くところの権力者をさす。

主人有言:君子は「主人」と情報・建議・計画などを話し合う。



六二。明夷、夷于左股、用拯馬壯、吉

左:ひだり。古代中国の地図には東の方角である。主の位。
六二は内卦の下層中堅である。

股:ももとしり。下半身の主要有力な部位。股肱の臣。

明夷、夷于左股:明夷の時世に、股肱の臣は下層重要な位置にいて、勢力を持つ。

拯:下のものを上に引っ張って救う。

拯馬:救援に使う軍馬。消防団のたぐいの救援部隊、政権を守る軍隊など。

用拯馬壯、吉:下の股肱の臣は強大な軍事力を用いて、政権の危難を救う、またみずから守るのはいいことだ。



九三。明夷、于南狩、得其大首、不可疾貞

南:南方。臣の位。

南狩:南地方に狩りをする。
    巻き狩りは大勢な人馬を遣い、軍事戦争と同じ。

明夷、于南狩:明夷の末代君主は南地方の諸侯国(叛乱した臣下)を征伐する。

大首:大きな頭。人間の首謀、軍の統帥をさす。

得其大首:その大首領を捕って得る。

疾:やまい。不正常な状態(もの)。

不可疾貞:不正常な状態(衰頽の時世)に「南狩得首」の仕方をうらなう(考えてする)べからず。
       武力鎮圧は一時的な手当てで、体制国運の根本的問題が解決できない。



六四。入于左腹、獲明夷之心、于出門庭

腹:上体の腹心。上方の内部重要位置。

入于左腹:中央内部高層に入って、要職に就く。

心:要害部位、ふつう左の腹中にある。

獲明夷之心:明夷(末代君主)の腹心の臣を仲間に引き入れる。
明夷の重臣らもその君主に叛く。
注:『史記・殷本紀』剖比干、観其心。

門庭:ふた開きの大門とにわ。権勢ある家をさす。
{節}卦には、「不出門庭」。

于出門庭:そして、時機に応じて家を出て天下の大事業をする。
   周の武王は二度と諸侯を集めて、殷の紂王を征伐しに出兵。



六五。箕子之明夷、利貞

箕子:紂王の伯父(兄説もある)、名は胥餘。何回も紂王を諌めたが、聞き入れずに。そして、気が狂ったように装って避けたが、やはり奴隷まで処された。『史記・宋微子世家』に伝がある。

之:に。と。

箕子之明夷、利貞:箕子が明夷の時世とその君主(紂王)にあった事を鑑として、そのやり方を考えてすれば利ろし。



上六。不明、晦、初登于天、後入于地

不明:太陽がやっと完全に消えてしまった。光明(陽)が尽きる。

晦:月末には月が出ない。陰もなくなった。

不明晦:陰陽ともに消えて、運命の最後、徹底的に滅亡。

初登于天、後入于地:最初は天にのぼってあった、最後は地下に落ち入る。
              日月はこのようで、天運も同じく。

19明夷(二)

中国史:(円図正対輪{明夷}285〜314)
     (周易輪{升}279〜293。{困}294〜308。{井}309〜323)

   285’ 慕容廆、亡父慕容渉帰のあとを継いで、遼西に騒擾。
        また、扶餘国を攻めて、万余人を取る。

   286’ 匈奴・萎莎胡ら、晋に帰順。

   290’ 四月、晋の武帝が没、太子司馬衷即位。
            晋の恵帝の御世。(290〜306)
            阿呆の晋恵帝、加わって私妬淫虐の賈后南風。

        十月、劉淵、建威将軍・匈奴五部大都督となる。

   291’ 三月、賈南風が東安公司馬繇・楚王司馬瑋・淮南王司馬允と連合して、
            輔政大臣楊駿を族滅、楊太后を廃して金墉城の拘束。
            賈氐一族の賈模・郭彰・賈謐らが政事に参与。

        六月、汝南王司馬亮が衛瓘と楚王瑋の兵権を奪うことを謀る。
            楚王瑋、賈南風の命を受けて二人を殺した後、また無実の勅旨      
            を用いたという罪で、刑死。(八王の乱の始め)
            (八王:汝南王亮、、楚王瑋、長沙王乂、成都王穎、趙王倫、河間王顒、斉王                冏、東海王越)

   294’ 大飢饉。

   295’ 夏、荊・揚・兗・豫・青・徐六州に洪水。

        十月、武庫火災、二百万人の軍械・歴代の宝物が焼き尽きる。

        鮮卑の拓跋禄官、国を上谷・代郡・定襄三つに分け、甥の猗盧らに与える。

   296’ 匈奴の郝度元、馮翊、北地羌、盧水胡らが反晋に挙兵。

        秦・雍の氐帥斉万年が皇帝に自立。

        略陽の清水氐楊茂、仇池に占拠。

        関中地方飢饉疫病。

   297’ 一月、征西大将軍梁王肜、旧怨ある周処に先頭して、斉万年を攻撃させる。増援せず             に、五千対七万で周処戦没。

        七月、秦・雍に旱魃・疫・飢饉。漢・氐各族人が漢中に流れ込む。

   298’ 荊・豫・徐・揚・冀五州洪水。

        巴氐の李特兄弟が流民を率いて蜀に入る。

   299’ 一月、晋の孟観が中亭に氐軍を破って、斉万年を捕虜する。

            江統が『徙戎論』を著して、氐羌などを関中から辺地に遷すべきと建議する。

        十二月、賈南風、太子司馬遹を謀反の罪名で廃して、その母謝淑媛を殺したことで、朝             廷大臣らの怨みを買う。

   300’ 三月、趙王倫が賈南風を廃后する前に、臣下孫秀の”借刀殺人”の謀りを採って、前途             のじゃまもの廃太子を予め賈南風に殺させる。

        四月、斉王冏、趙王倫の命令を受けて、後宮に入り、賈南風を捕まえて、しばらく殺             す。趙王倫が相国となり、兵権掌握。

        八月、淮南王允が”殺すか殺されるか”と趙王倫を攻めて敗死。
            孫秀、斉王冏が封賞に対して不満することを察して、彼を洛陽から去らせて許            昌に移る。

        十一月、益州刺史趙廞、来朝の命令を拒んで晋に叛いて挙兵。

   301’ 一月、散騎常侍張軌が世乱を予見し、河西地方を領有するを図って、涼州刺史職を請い得る。

           趙王倫、恵帝を太上皇として退位させて、自分が皇帝となる。

           趙廞、流民首領李庠を部下に収めたとしても、その猛々しさに不安して、終に殺す。
           李庠の兄弟李特・李流が趙廞を討つ。
           新しい益州刺史羅尚がのち着任。

       三月、斉王冏・成都王穎・常山王乂・河間王顒らが地方に反趙王倫に挙兵。
           大混戦が開始。

       四月、左衛将軍王輿ら、孫秀を殺して、恵帝復辟。趙王倫を殺す。

       六月、斉王冏が数十万の兵を抱いて、洛陽に到着。
           成都王穎、斉王冏を恐れて領国の鄴に帰る。

       十月、李特・李流、羅尚の蜀に居る秦雍流民に帰郷命令に不満して、
           綿竹に挙兵、成都を攻める。

   302’ 河間王顒・成都王穎ら、斉王冏に叛いて挙兵。
       
       洛陽に居る長沙王乂、斉王冏を攻め捕まえて、族滅。

   303’ 二月、羅尚、李特を討つ。李特の子李雄がその勢を受け継ぐ。

        八月、河間王顒、成都王穎ら、洛陽に進攻して、長沙王乂を攻撃。

        閏十二月、李雄が成都攻入。

        幽州都督王浚が鮮卑と嫁和親。

   304’ 一月、東海王越、長沙王乂を拘束して成都王穎に降参。
            しばらく、河間王顒の将張方が長沙王乂を殺す。

            張方、奴婢万人を奪って西に帰り、途中糧尽きで人を殺して食う。

        七月、東海王越が十余万の兵を率いて鄴を攻める。
            蕩陰の戦いに敗れて、東海王越は領国東海に落ち延びる。
            成都王穎の将石超が恵帝を捕って鄴に入る。

            王浚、東瀛公司馬騰・鮮卑と連軍して成都王穎討伐に挙兵。

            河間王顒、成都王穎を助けるため、張方の軍に入洛させる。

            王浚が鄴を落城として、成都王穎が恵帝を連れて洛陽進入。

        十月、李雄が蜀に成都王と自立。(成漢304〜347)

            劉淵が左国城に漢王と自立。(漢、北漢、前趙304〜329)
            ”五胡十六国(304〜439)”時期開始。
            (注:五胡:匈奴・鮮卑・羯・氐・羌。
                十六国:五涼(前、後、南、西、北)・二趙(前、後)・
                     三秦(前、後、西)・
                     四燕(前、後、南、北)・夏・成漢。
               さらに、冉魏、西燕、後蜀もあるが、十六国に数え入らず。)

        十一月、張方、恵帝に長安に遷都させる。
              洛陽の国庫が兵士に奪われて、魏晋以来の蓄積は全滅。

        司馬騰が大陵に劉淵を攻めて、敗績。
        劉淵、劉曜を遣わして并州の諸郡県を攻略。

   305’ 六月、涼州刺史張軌、鮮卑若羅抜能を進攻して十余万人を取る。

        七月、東海王越、檄を天下に配って河間王顒と張方を征討。

            成都王穎の旧将公師藩が趙魏地方に挙兵。羯人石勒・汲桑が公師藩に従軍。

        司馬越の将陳敏が歴陽に楚公と自立。

   306’ 一月、河間王顒、張方を殺して、東海王越と和解を計る。許されず。

        三月、「りっしん+弦」の県知事劉伯根は万余人の軍を挙げて、のち王浚に討たれる。
             その部下王弥が長広山に入る。

        四月、司馬越の将祁広が鮮卑の軍を率いて長安に入り、二万余人を乱殺した後、恵帝を            連れて洛陽に帰る。

        八月、成都王穎、捕殺される。

        十一月、恵帝、誰に毒殺される。下手人不明。
              皇太弟司馬熾即位。晋の懐帝の御世。(307〜313)

        十二月、河間王顒が入洛する途中に、東海王越の弟南陽王司馬模の勢に討たれる。
             (八王の乱が十六年を亘ってやっとけりがつく。
              しかし、次いでの七年ほどの”永嘉”という年号も中国史上に著名なもの              である。)

19明夷(三)

   307’ 二月、王弥が青・徐両州を騒擾。

            ”楚公”陳敏敗死。

        五月、汲桑・石勒、鄴を落として斬首万余、司馬騰敗死。
            鄴の王宮に放火、十数日に続く。

        七月、琅邪王司馬睿、建康に江南の軍事を治める。

        九月、汲桑・石勒が兗州に苟晞に敗れる。
            石勒が劉淵に投降、汲桑が并州の難民(乞活)に殺される。

         王弥・劉霊らが劉淵に帰服。

         慕容廆が鮮卑大単于となる。

         拓跋猗盧、二人の兄が死亡したため、拓跋三部を総領す。

   308’ 一月、劉聡(劉淵の子)が太行山に、石勒が趙魏に進軍。

       三月、王弥、青徐兗豫四州を攻略して、許昌に入る。
           のち、洛陽に晋兵に敗れて、黄河以北に退却。

       七月、劉淵、平陽を陥落して、蒲子に遷都。上郡の鮮卑・氐人が劉淵に帰服。

       冬、王弥・石勒・劉霊らが、鄴・魏郡・汲郡・頓丘を侵攻。

       蜀の李雄が頻りと漢中を攻める。

   309’ 一月、劉淵、平陽遷都。

       三月、劉淵の将劉景、黎陽・延津を落城して、百姓三万を黄河に沈殺。

       夏、大旱魃、長江・漢水・黄河・洛水皆歩いて渡れる。

          石勒が巨鹿・常山を攻略して、衣冠人物(身分ある人)を集中して、
          ”君子営”を置く。趙郡の張賓が重用される。

       八月、劉聡・石勒・王弥ら、壷関を取ったが、洛陽の戦いに敗北。

       十一月、潁川など四郡の流民が晋の官吏を殺して、王弥につく。

   310’ 二月、石勒・王弥、徐兗豫冀を攻む。

        七月、劉淵没。子劉和は後継ぎ。
            劉聡、劉和を殺して、漢の王位に即す。

        九月、晋政府、南陽に居る雍州の流民に帰郷命令。
            こうして、王如ら数万人が蜂起。

        十月、劉曜・石勒・王弥が洛陽を攻める。

            石勒が王如の軍を攻撃。

            劉琨、鮮卑の拓跋猗盧を連合して鉄弗・白部鮮卑を攻める。
            拓跋猗盧が鮮卑大単于・代郡公と晋に封じられる。

        この年、幽并司冀秦雍六州が蝗災、草木・牛馬の毛も全滅。

   311’ 一月、荊・湘各地の巴蜀の流民が蜂起して、杜弢を首領に擁立。

        二月、石勒、許昌落城。

        三月、司馬越が苟晞と内訌して、しばらく憂死。
            王衍、司馬越のひつぎを東海に護送。

        四月、石勒、苦県に王衍を追撃して、晋軍を大破って死者十余万。
            王衍を殺して司馬越の亡骸を焼いたあと、石勒曰く:”天下のための仇討ち”。

        五月、杜弢が長沙・零陵・桂陽を攻略。

        六月、洛陽陥落屠城、劉曜が懐帝を平陽に持ち帰る。
            中原士族らが多いに南遷。

            苟晞、豫章王司馬端を奉じて、蒙城に居る。
            司空荀藩が秦王司馬業を奉じて密県に居り、のち許昌に向かう。

        七月、王浚、幽州に司馬氐の子を皇太子に立てる。

        八月、漢兵、長安陥落、南陽王司馬模を殺す。

        九月、石勒、蒙城を落として、苟晞・司馬端を捕る。

        十月、石勒、王弥を殺して、その勢を併合。

        十二月、晋の馮翊太守索綝・安定太守賈疋らが劉聡の軍を攻めて、
              長安を囲み、司馬業を迎えて西に向かう。

   312’ 四月、賈疋、劉曜を追い払って、長安に司馬業に居らせる。

        七月、石勒は建業攻めの計画を飢疫で止めさせられて、長江一線から襄国に北帰。

            劉聡、晋陽を落城して、劉琨が常山に逃れる。

        十月、劉琨、拓跋猗盧の軍を借りて晋陽奪還。

        十二月、王浚、鮮卑の段疾陸眷を連れて石勒の襄国を侵攻。
              ところが、段疾陸眷が石勒と盟を結んで、王浚を離れる。

         王如が晋の揚州刺史王敦に投降、武昌太守陶侃が杜弢を攻撃。

         南安の羌人姚弋仲が数万人を率いて楡眉に移住して、護羌校尉・雍州刺史と自称。

         道教の創始人張道陵の四世孫張盛が龍虎山(今江西貴渓)に遷して、張氐がここに定          住して、”張天師”の号をする。

   313’ 一月、劉聡が晋懐帝を殺す。懐帝の”永嘉”年号も一緒に終焉、しかし時代の色はまだまだ続く。

        四月、司馬業、長安に晋帝を称す。晋の愍帝の御世。(313〜316)

            王浚、拓跋猗盧・慕容廆を誘って、ともに段疾陸眷を攻める。
            のち、王浚が石勒の和睦誘いを信じる。

        五月、晋愍帝、琅邪王司馬睿に北伐を示唆したが、”江東平定したばかり”と辞される。
            ただ北伐に熱心する祖逖は豫州刺史となって、長江北の淮陰に駐軍。

   314’ 三月、石勒、幽州を襲撃して王浚を討つ。
            石勒撤退、鮮卑段匹「石+単」が幽州地方占拠。

        六月、劉曜が長安を攻めて、索綝に敗れる。

        十月、張寔が亡父張軌のあとを受け継いで、西平公となり、前涼を開く。
            (314〜376)

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