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“国がさくらの花ならば、ひとりひとりが花びらだ 輝く誇りを持っている”
 
これはシンガーソングライターの山口采希さんが歌っている国民の歌「若い日本」である。
 
“輝く誇り”とは何か。・・・
 
爆撃にたふれゆく民の上をおもひいくさとめけり身はいかならむとも
 
これは昭和20年の停戦時の昭和天皇の御製である。
 
この御製が国民に紹介されたのは昭和43年であるから、この時、国民は誰も知らなかった。
 
昭和20814日の御前会議の陛下の御発言「朕の一身は如何にあろうとも、これ以上、国民が戦火に斃れることは忍び難い」を翌815日の新聞各紙が報じた。
 
この御発言が先ほどの御製に繋がり、そしてこれを実践されたのが927日のマッカーサーとの会見であった。
 
「自分はどうなってもいいから、国民を救ってほしい」
 
陛下は国民の知らないところで、国民のために命を差し出されておられた。
 
昭和20128日、大東亜戦争開戦と同じ日であった。手に鎌などを携えた青年達が皇居にやって来た。
 
当時は食糧難で自分が生きるか死ぬかの時に、皇居が荒れ放題と聞いて、宮城県から60名の青年達が上京して清掃奉仕した。
 
数日間、青年達は凄まじいばかりの奉仕ぶりであった。
 
彼らのことは早くも陛下の耳に入り、「一同に会いたい」とのお言葉があった。皇居内でこういうことが行われるのは前例がなく初めてである。

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陛下は奉仕の労をねぎらわれ、「郷里の農作はどうか」「肥料の配給はどうか」「地下足袋の配給はあるのか」と次々質問された。
 
さらに10分ほどお話をされた後、最後に「何とぞ国家の再建のために、たゆまず精を出して努力してもらいたい」と仰せになり、一同とお別れになられた。
 
天皇陛下と皇后陛下がもとの道を三十歩ほどお歩きになられた時、突如、奉仕団の間から「君が代」が奉唱された。
 
当時、占領軍が国旗・国歌をやかましく取り締り、誰も口に出来ずにいた「君が代」を歌い始めたのだ。
 
この歌声に陛下は急に立ち止まられ、背中を向けたままじっと聞いておられた。
 
すると今度は青年達の歌声が嗚咽の声に代わり、しまいに歌えなくなってしまった。
 
嗚咽の声を聴かれて陛下はその場で何度も何度もうなづかれて、そして歩いて行かれた。

 

戦時中は二十歳になるかならずの多くの若い編△良霓傭は「私」を捨てて国のために殉じた“無私”であった。この奉仕団の青年達も代価や報酬を求めない“無私”である。そして「わが身がどうなろうとも、国民を救いたい」と言われた陛下もまた“無私”であられた。
 
輝く誇りは、この“無私”である君臣一体の国柄にあるように思う。
 
 
 
「若い日本」
 
一、 日本はいつでも若いのだ 国がさくらの花ならば
ひとりひとりが花びらだ かがやく誇りを持っている
気高い理想を持っている 咲こう 咲こうよ 咲きとおせ
日本よ 日本よ われらの日本
 
二、 日本はいつでも進むのだ 国が火を吐く島ならば
ひとりひとりが溶岩だ 燃えたつ意気と情熱で
世紀を超えて進むのだ
燃えろ 燃えろよ 燃えとおせ
日本よ 日本よ われらの日本
 
三、 日本は大きく伸びる樹だ たまに嵐に折れたとて
若い芽がある 枝がある
がっちり組んで堂々と 世界の上に伸びるのだ
伸びろ 伸びろよ 伸びとおせ
日本よ 日本よ われらの日本




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転載元転載元: さくらの花びらの「日本人よ、誇りを持とう」


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昨日、編⊃声劼播贓蟇儺‖臂の位牌を燃やした、シナ共産党の資金で反日活動をしている保釣行動委員会のシナ人に繋がるニュースである。
 
今年1213日から南京市では「南京大虐殺追悼式典」の時刻に1分間の「黙祷」と「車は停止してクラクションを鳴らし続ける」ことを義務付けた条例を施行した。

アホか?

当時の南京の人口は11月18日から12月21日まで20万人のまま変わっていない(警察庁長官の王談話及び南京安全区国際委員会「人口調査表」)。つまり人口減となる虐殺はなく、12月13日は「南京陥落」の日である。

しかも南京戦を戦っていたのは蒋介石国民党であり、毛沢東共産党ではない。大体、9000万人以上の虐殺をしてきたシナ共産党が何を言うか。
 
このアホらしいニュースを日本の各メディアが一斉に報じた。
 
まるでシナの“広告塔”そのもののメディアを見る思いである。
 
こんな”嘘”を報じて、関西生コンの逮捕者数十人の”大事件”は全く報じない。
 
これだけでも日本のメディアが如何に日本国民のためになっていないかがわかる。
 
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南京虐殺から81年 追悼の一斉警笛や黙とう義務付け
旧日本軍が多くの中国人を殺害したとされる「南京事件」から81年となる13日、中国政府は追悼式典を開きました。(平成301213日 テレ朝)
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「南京事件」から81年、追悼式典では日中関係に配慮も
旧日本軍が多くの中国人を殺害したとされる「南京事件」から、13日で81年です。追悼式典では日中間で議論がある犠牲者数について、「30万人」だと改めて強調。日本に対する厳しい言葉が減り、日中関係への一定の配慮がみられました。(平成301213 TBS
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追悼式典で日本批判“封印” 「南京事件」から81
1937年に旧日本軍が多くの市民を殺害したとされる南京事件の追悼式典が、13日朝、南京市で行われ、およそ8,000人が出席し、共産党幹部は、演説で30万人が殺害された」と主張した。(平成301213日 フジテレビ)
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日本のテレビ局は自ら日本を貶める南京の嘘虐殺をそのまま報道しているが、これを見てシナは笑っている。
 
もし日本が逆の立場で、シナがシナ自身を貶める嘘話を報道をしたり、シナ政府がその嘘話に謝罪ばかりしていたら、「バカなシナ人だ」と笑ってしまうだろう。
 
日本はそういうバカなことをしているのである。
 
我々の先人を貶めているのはシナだけではなく、こういう嘘をそのまま報じているマスコミにも原因があるのだ。
 
どうして「南京虐殺はなかった」と真実を言えないのか?
 
30万人」の捏造に反論する識者を出演させてきちんと反論するべきである。
 
それが日本国のマスコミの姿である。
 
しかし、それ以上に、日本政府はこれに何も反論しない。
 
30万人の南京大虐殺」など、今やいくらでも反論できるであろう。

日本国のために仕事しろ、と言いたい!

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転載元転載元: さくらの花びらの「日本人よ、誇りを持とう」


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『大東亜戦争失われた真実』
(葛城奈海・奥本康大共著 ハート出版)
 
『大東亜戦争失われた真実』は共著であるが、奥本康大さんのところをご紹介したい。

奥本康大さんの父上は大東亜戦争において、『空の神兵』の歌でも有名なスマトラ島パレンバン落下傘降下挺進作戦の第三小隊長として参戦され、殊勲甲の武勲の手柄で、昭和18219日に天皇陛下より単独拝謁を賜られた。
 
当時、この作戦で油田を制圧するかしないかは、我が国においては死活問題であった。
 
この重要でしかも非常に困難な作戦を見事に完遂されたことは、日本国民のみならず、独立に目覚めたアジア諸国の多くの人々も勇気づけられたことであろう。
 
その詳細については奥本さんの前著『なぜ大東亜戦争は起きたのか?空の神兵と呼ばれた男たち』(ハート出版)に書かれている。

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この本が非常に良書であったので、今回の新刊が非常に楽しみであった。
 
新著『大東亜戦争失われた真実』で奥本さんが何度か強調している言葉がある。
 
「英霊は二度死なせてはいけない」である。
 
「一度目の死は肉体の死、二度目の死は記憶から忘れ去られる死」であるという。
 
そして「国を護るため、尊い命を捧げられた方々を日本人全員が感謝すべきなのに、わけのわからない理由をつけて蔑ろにしたりしている」と続く。
 
私はこの言葉を読んで、しばらく考え込んでしまった。
 
例えば、自分が国のために命を捧げて亡くなって、死んだ後に悪い奴だったとされて、戦った真意さえも人々の記憶から薄れて、語られなくなったなら何のためにお国のために命を捧げたのかわからない。

吉田松陰先生は、たとえ肉体が滅んでも、後世の人々が語り継いでくれれば生まれ変わって生きていることになる、と言った。
 
たった一度敗れただけで日本人は何十年も何百年も先人達を貶めたままにするのか。

奥本さんは各地の慰霊碑を訪れ、著書でその実態を伝えている。
 
レイテ島は約8万という最大の死者を出したところである。
 
「レイテ島には、戦後、遺族や戦友会の人達が建立された慰霊碑が至る所にある。しかし戦後70年以上が経過し、訪れる人も少なくなり、朽ち果てたような慰霊碑もたくさんある。ご遺族も元気な頃は、毎年お墓参りとして来られていたようであるが、代が変わってしまえば、レイテ島に足が遠のいているのだろう」。
 
国を護るために戦った方々に対する感謝の念と慰霊、顕彰、鎮魂は、今を生きる日本国民全員の肩にのしかかる「責務」である。
 
「激戦地であったサンパブロ飛行場近くにあるとされていた高千穂降下部隊の慰霊碑が撤去されていた」とある。
 

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また奥本さんは沖縄の義烈空挺隊玉砕之碑が読谷村から消失してしまうのではないかと書いている。
 
そして「大東亜戦争の史実が風化しつつある現在、正しい史実を後世に伝えなければならない」と書いている。
 
今、政府が公式参拝しない編⊃声劼睫簑蠅世、各地に数多くある朽ちている慰霊碑の管理を今後誰がしていくのか、日本人として深く考えさせらえる一冊である。

今、奥本さんは大東亜戦争の真実を伝えるために全国で講演活動や慰霊をしておられる国士である。講演の最後には必ずみんなと一緒に「空の神兵」を歌う。

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転載元転載元: さくらの花びらの「日本人よ、誇りを持とう」

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朝鮮人は編△麻られている朝鮮人を「出してくれ」と言う。
しかしインドネシア英雄墓地にいる朝鮮人を「出してくれ」とは言わない。
 
昭和173月、350年間インドネシアを支配してきたオランダを打倒した日本軍は、昭和2097日にインドネシア独立を約束して、スカルノ(初代大統領)に独立準備委員会を結成させた。
 
しかしこの約束は日本の終戦で果たせず、インドネシアは自分達の力で独立しようと817日に独立宣言した。
 
これをオランダは認めず、「独立」の動きを「暴動」と言って日本軍に武力鎮圧を命じた。
 
インドネシアは植民地に戻るわけにはいかなかった。
 
インドネシアは日本軍によって育てられたPETA出身の将兵達が中心となって10万人でインドネシア独立戦争を戦った。
 
この時、インドネシアにいた日本軍は日本に帰ることも出来たが、インドネシア独立のために一身を捧げることを選んだ二千人がいた。
 
彼らは経験乏しい独立軍を指導するため常に第一線に立ったために千人が命を落とした。
 
この中に朝鮮人軍属の梁七星(日本名 梁川七星)がいた。梁は幼いころ両親と死別し、叔母夫婦に引き取られて育てられた。
 
大変心の優しい子供で、小学校に入る時に近所の貧しい子供に学用品を分け与えたという。また親孝行でもあり、引き取ってくれた養父を早く亡くすと、家計を助けるため、日本軍の軍属の募集に応じてジャワに渡った。
 
ジャワでは捕虜の監視を務め、日本軍の給料を実家に届けていた。
 
終戦後、実家には「インドネシアにもう少し留まる」との手紙を書き、アジア解放のために上官であった青木政四郎曹長と長谷川勝雄軍曹と共にインドネシア独立軍に加わった。
 
彼らはバンドンなどでオランダ軍相手にゲリラ戦を展開。インドネシア人部隊とジャングルの中を転戦してオランダ軍を悩ませた。
 
リーダーの青木はオランダ軍が懸賞金をかけるほどの優れた戦士であった。特に「民家のものは決して奪うな。日本人でも女を襲ったり、物品を略奪したら撃ち殺す」と規律も厳格に維持して、現地人とも信頼関係を得ていた。
 
梁はこうした青木の姿勢と理想に共感して生死を共にする決心だった
 
オランダ軍はインドネシア軍が日本軍の訓練で強くなっていたことを知らず、オランダ軍は簡単に鎮圧出来ると考えていた。
 
しかしインドネシア人は見違えるほど強かった。
 
戦いは4年間も続きインドネシア側は80万人の死者を出した。それでもオランダ軍は占領することが出来ず、インドネシアの独立に同情した国際世論の圧力で、昭和24年、インドネシアの独立を認めた。
 
しかし青木や長谷川や梁の3人はインドネシアの独立に立ち会うことなく、捕えられて、独立の4ヵ月前に銃殺された。
 
処刑前に3人は「君が代」を歌い、「天皇陛下万歳」を三唱して死に赴いた。
 
青木曹長は3人の共同辞世に一首留めた。
「国思う 大和をのこの散り際は 盛り短き桜花かな」
 
3人は共に戦った独立軍の墓地に埋葬してくれるようにオランダ軍に頼んだが、拒否されて民衆墓地に埋葬された。
 
インドネシア民衆は3人の遺体が運ばれる時、沿道に集まって「ムルデカ(独立)!」とオランダ軍をも恐れず叫んで見送った。
 
その後、3人の遺骨はインドネシアが「独立英雄」と公式に認め、昭和50年に彼らが戦ったガルングン山を仰ぐガルートの英雄墓地に埋葬した。

独立の英雄をいつまでも忘れないインドネシアは立派である。日本は見習わなければいけない。
 
この時、分骨された小さな棺は遺族に送られたが、梁七星の棺だけ取り残された。それを知った日本人が遺族を探し出したが、梁がインドネシア独立軍として戦っていたことを知らず、帰りをずっと待って全州駅に出迎えていた義母は、この9年前に他界していた。
 
この英雄墓地の梁七星の墓碑には「日本 梁川七星」と刻まれていた。
 
しかし韓国はこの碑文を「韓国名」と「韓国国籍」にするようインドネシア政府に抗議した。
 
結果、「韓国名」と「韓国国籍」になった。
 
それは本人が望むのだろうか?
「日本 梁川七星」のままがよかったのではないか。
 
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転載元転載元: さくらの花びらの「日本人よ、誇りを持とう」

自衛隊巡り(in百里)

説明不要の百里基地航空祭に行ってきました
そして、最早説明するまでもあるまい、ファントムおじいちゃん😊
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飛翔するファントムおじいちゃん😊
しかし、これがスマホのカメラの限界
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地上展示です
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転載元転載元: hij*****のブログ


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