●そしてアメリカ国務省から来た証人、つまりアメリカの立場を代表する人物であるバランタインから
「そういうことを聞いたことがある」という証言を引き出す。バランタインは弁護人の追及がうまかったためしばしば答えに詰まり、結局、自分個人の意見という形で逃げてしまう。もちろん、個人の意見では証言としての力がなくなってしまうことは言うまでもない。
《渡部昇一 「「東京裁判」を裁判する」》
(他著書「
決定版・日本史」)
●「ハルノートの過酷な要求が戦争を誘発した」という外国人の主張
◇英 オリバー・リトルトン通産相…「米国が戦争に追い込まれたというのは、歴史を歪曲するも甚だしい。米国があまりひどく日本を挑発したので、日本は真珠湾攻撃の止むなきに至ったのだ」
◇駐日英国大使・クレーギー…「日本の国民感情を無視するの甚だしきもので、交渉決裂も止むを得ない」
◇米歴史学者・ビアード…「国務省高官は、一人残らずこの覚書を作成しつつある時に、日本は決してこれを受諾しないであろうということを知っていたに違いない」
◇「ルーズベルトもハルも日本はこれを受諾するであろうとか、この文書の対日交付が戦争への序曲にはなるまいと考えるほど、日本の事情に疎かったとは到底考えられない」(同)
◇
「ハルノートは日本の乙案を全面的に拒否したが、乙案は戦争回避に役立ったかもしれない」(同)
《中村粲 「
大東亜戦争への道」》
●ハルノートは、東京裁判で日本側弁護人ブレークにーが「こんな最後通牒を出されたらモナコやルクセンブルグでも武器をとって立つ」と言ったほどの高圧的かつ屈辱的なものであった。
《藤原正彦 文芸春秋2010年7月号》
●アメリカとしては、交渉を続けていれば、開戦時期を望み通りに設定できるというメリットもあった。当初アメリカは一時的に譲歩案を日本側に出し、日本に望みを持たせながら戦争準備のための時間を稼いだ。そして最後に、日本が飲めるはずのない条件を並べた「ハル・ノート」を最後通牒として突きつけて、「最初の一発」を日本に撃たせることに成功したのである。
●「ハル・ノート」が開戦を意図したものであることは、「ハル・ノート」を日本側に提示した翌日の11月27日、ワシントンの参謀本部がフィリピン駐在アメリカ極東軍の司令官だったマッカーサー(開戦前は中将)に、
「開戦近し。警戒せよ」と打電していることからも明らかである。
《中西輝政
正論2011/12月号》
●昭和の戦争について批判的な司馬遼太郎ですら、『坂の上の雲』の中で、ロシアは日本に対して白人同士ではあり得ないサディスティックな折衝をやっており、同じように
「ハルノート」もサディスティックな要求で、白人同士の国ではあり得なかっただろうと書いている。
《新保祐司
正論2010/10月号》
●半藤一利さんは、「ハルノート」を呑んだらよかったと言っている。
そもそも昭和16年の4月ごろからずっと日米交渉をやっているわけである。日本としては何とか妥協点を見出してそこで手を打ちたいと考えていた。ところがアメリカにはその気が全然なかった。「ハルノート」というのは昭和16年の11月下旬に急に出てくる。
●「ハルノート」は何ら妥協点を含まない、要するに原則論なのである。アメリカは初めからこの原則論で一歩も退かないわけである。
つまり、
4月からずっとやってきた交渉というのは、アメリカにとって日米開戦の準備のための時間稼ぎ以外の何でもないわけだ。戦争は避けられたという人もいるが、つまりあの時の交渉が下手だったという含みで言っているのだと思うが、下手も何もアメリカは最初から交渉する気なんてないのだから、どうしようもない。
●あれを呑めば日本はいわゆる「現在の戦後」と同じようになっていた。
でも、だから戦禍がない分その方がよかったじゃないかという言い方をする人がいるが、そこまで奴隷的な根性でいいのかということになる。そういう民族は二度と自立できなくなるだろう。
《桶谷秀昭 〃 》
●ハルノートをとりあえず受諾して、おもむろに世界情勢の転換を待つのも悪くはなかったと思うが、強気の軍部や興奮した世論が受け入れる見込みは薄く、責任ある政府当局としても石油を断たれたまま座視するわけにはいかなかったろう。
《秦郁彦 「現代史の争点」》
(他著書「
南京事件―「虐殺」の構造 」)