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柴五郎 静かな英雄

https://youtu.be/ReUNpSZu-n0
かつて日本は美しかった
より転載。

静かな英雄。


 明治33年(1900年)に北京で義和団事件が起こり、各国大使館は義和団に包囲されましたが、籠城戦で大活躍したのが日本の柴五郎中佐です。また、義和団鎮圧後に各国は掠奪、暴行の限りを尽くしましたが、日本軍はそのようなことをせず、規律正しかったため、この後の日英同盟に結びついています。司馬遼太郎著「坂の上の雲」ではこのことが少ししか書かれておらず、秋山好古と柴五郎は士官学校の同期で、秋山真之とは米西戦争の観戦武官としてキューバで一緒だったことが書かれています。

 柴五郎は会津の出身で明治元年(1868年)の会津若松落城のときは10歳でした。幼い頃は「キンネン五郎」と呼ばれ、珍しいくらい大人しい子供だったといいます。戊辰戦争のとき五郎は大叔母の家におり、難を逃れましたが、母ら女性らは会津城下におり、官軍が攻めてきたときに全員自刃して果てました。会津藩は降伏し、城内にいた父と兄は東京へ送られ、翌年五郎も東京へ護送されました。その後、土佐藩の公用人宅に学僕として住み込み、さらにその後、旧会津藩の藩士らは下北半島の斗南へ流され、五郎もそこへ行きました。映画で「北の零年」というのがありましたが、それの会津藩版のようなものです。劣悪な環境化で凍死、餓死するものが次々とでました。五郎は死んだ犬の肉まで食べたといいます。

「武士の子たるを忘れたか。会津の武士ども餓死して果てたるよと薩長の下郎武士に笑われるのは、のちの世までの恥辱なり」

こう父親に叱責され想像を絶する生活に耐えていきます。

 明治4年(1871年)、五郎は青森県派遣の給仕に選ばれたのをきっかけ人生が急展開し、東京に行き、明治6年、陸軍幼年学校に入学しました。このとき秋山好古と同期になります。その後、陸軍士官学校に進んだ五郎は諜報員になることを目指し、明治17年には清国駐在となり大陸を念入りに調べていきます。このことが義和団事件の北京籠城にあたって大きな力になったといわれています。日清戦争後は台湾総督府の陸軍参謀、ロンドンの公使館付き陸軍武官を経て明治31年(1898年)に米西戦争の折にアメリカに行き、秋山真之と一緒になります。

 明治33年(1900年)義和団事件が勃発。各国公使は協力して義和団にあたることになりましたが、総指揮をとったオーストリアのトーマン中佐の判断ミスによりオーストリア兵が逃げ出すという失態がおこり、イギリスのマクドナルド公使が総指揮をとることになりましたが、軍人出身のマクドナルド公使は柴五郎の才能を見抜き、5カ国の兵の指揮官を命じます。どのような苦境にあっても冷静沈着な柴五郎の指揮と日本兵、義勇隊の活躍に籠城の各国兵士は士気を鼓舞され、どの国の武官も柴五郎の指揮下に好んで入るようになり、すべての作戦計画は柴五郎に裁可が求められるようになりました。柴五郎は諜報員としての得意の密使を使い天津の日本軍と連絡をとり、55日の籠城戦を持ちこたえました。

英スタンダード紙社説
「義和団鎮圧の名誉は日本兵に帰すべきである、と推しも認めている。日本兵の忍耐強さ、軍規の厳正さ、その勇気はつらつたるは真に賞賛に値するものであり、かつ他の追随を許さない」

 明治37年(1904年)日露戦争が勃発。柴五郎は砲兵連隊を率いて従軍。日露戦争後はロンドンに着任し、少将に昇進。日英同盟に関する協議に参画します。明治44年(1911年)、上海に派遣され、辛亥革命の諜報活動にあたります。その後も軍人として活躍し中将に昇進し、大正8年(1919年)、陸軍大将に昇進しました。会津藩は賊軍や逆賊とさげすまれた歴史があり、会津藩出で陸軍大将に昇進したのは初めてのことでした。その5年後に引退。

 昭和16年(1941年)真珠湾攻撃の際の自筆の略歴
「万歳を叫び、狂喜感涙するのみ」

 昭和20年(1945年)敗戦のときの柴の日記
「玉音を拝承し、悲憤激昂、生を欲せざらんとす。さきに戦局の順調なる時に生の終わりざりしを恨む」
「国のために生きた自分の使命は終わった。かくなるうえは、潔く武人としての最期を飾りたい」

 同年9月15日に切腹を計りますが、老体とあってうまくいかず、致命傷には至りませんでしたが、その傷がもとになり12月13日帰らぬ人となりました。享年87歳。


参考文献
 文春文庫「坂の上の雲」司馬遼太郎著
 PHP研究所 歴史街道2010.5
   「ここは戦場なるぞ!悲劇と辛酸が心に刻んだ会津武士の誇り」中村彰彦
   「何かひとかどの修行を・・・二人の武士に導かれ、少年は軍人の道へ」八尋舜右
   「米兵は勇敢だが将校は無能・・・若き天才と視察した米西戦争の教え」江宮隆之
   「武人の矜持が結んだ日英同盟、そして二度目の亡国に際し・・・」松田十刻
 転展社「大東亜戦争への道」中村粲著

添付画像
 柴五郎(PD)
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北京の55日のチャールストンヘストンの役柄は

柴五郎のすりかえだそうです。

日本の戦争映画はダメですね。

こういった義和団の乱でも活躍。

第一次世界大戦でもイギリスの船の大救出劇。

第二次世界大戦でもインドネシア独立やインドの独立。

数々のすばらしい成果をのこしながら

いつまでたっても真珠湾やミッドウェイばかりやっている。

GHQ の占領政策もプレスコードもとっくに終わっているのに

いまだに白人どものご機嫌うかがいやってるんですかね。

転載元転載元: 雷丸構築的心情世界


日清戦争がおこる前に
「勇敢な水兵」の曲が演奏されているけど
時系列でおかしいぞ。
黄海海戦のあとにつくられた曲ですやん。
歴史がデタラメ。

長崎事件らしきものもでてくるけど
支那人が女郎屋で順番抜かされたと
いちゃもんつけて暴れるという
歴史的史実が消されている

この映画何が言いたいのかと言うと
日本が尖閣をだまし取ったという様に
歴史を捏造したいのである
日本語のセリフのやりとりでわかるが
さすがに英語字幕版と日本語字幕版が発売されていない
いんちきである。

ちなみに尖閣は日清戦争前から
日本であるという認識が
ヨーロッパの地図でわかっている。
 
でも国策映画なので
定遠とか吉野とか船の模型がみどころです。
よくできています。

NHKの坂の上の雲では黄海海戦がなかった。
のでこれで雰囲気はわかる、

実際には定遠、鎮遠という
バケモンみたいな巨大な戦艦を相手に
連合艦隊はちっこい松島あたりの船で
必死で撃っては旋回、撃っては旋回
という機動性を活かした戦いで勝ったのだからね。
不利な戦いに命をかけた日本の方が
カッコよくて
でっかい戦艦に甘えていた支那軍人は
カッコわるいのであった。
という演出がないね。

第一「清」は今の中国ではないですよ。
満州人ですから

あちらは常に被害者というつまらん演出です。
この映画の目指してしるのは
センカク日本にとられたあるよという1点しか見えません。
あとは日本わるい国あるよ。ぐらいですか

日清戦争は日本の手で映画にすべきです。




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