日清・日露戦争

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教科書に「日本の中国侵略」と書いてある。
 
教科書が嘘を書くと思わないから日本人はそのまま信じた。
 
しかし、以下のような事実がある。
 
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昭和31月、満鉄社員の大羽時男が地質調査で満州に入った時、奉天近郊の農村の村長の家に祭壇があり、乃木大将の肖像画が貼ってあった。

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王古老はこう言った。
乃木大将は今は神様です。乃木大将は村々に軍医を派遣し、病人を救ってくれました。日本の軍医は非常に親切でした。それから道路と排水路を造ることを教えてくれました。今、その辺にある水田はその時に出来ました。
 
それよりも農民が一番喜んだのは日本軍の軍紀が厳粛であったことです。日本の兵隊は卵一つ鶏一羽、奪う者はありません。元より婦女子に手を出すものなんかありません
 
神兵だと村人は崇めました。
 
日本軍のお蔭で匪賊は寄り付きません。盗人も出ません。官吏も悪いことは出来ません。
 
全く平和で安全な王道楽土でありました。私の想像は当たりました。
 
私は今でも乃木大将を神様だと信じております。ですからこうして朝夕拝んでいるのです。これは私ばかりではありません。この辺一帯の古老は皆、こうしております。
 
私は日本を信じておりますから、日本のために尽くします。しかしそうすると親日だ、漢奸だ、と言って張作霖政府は私を2年間も監獄に入れました。税は5倍に増やした上に紙幣を濫発して大豆を農民から取り上げる。ロシア人よりもたちが悪い。
 
日本がロシア人を追い払ったように張作霖どもを追っ払って、あの時の様な王道楽土にしてくれないかと、乃木の神様にお祈りしています」。
(山口重次『満州建国と民族協和思想の原点』)
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日本がシナを侵略したなら、乃木大将を神様とは思わないはずである。日本兵を「神兵」と崇めることもしない。
 
こういう事実があるのに、どうしてこれを教えないのか?
 
日本の歴史学者は、日本が悪いことしたことは必死になって探すが、上のような事実は出てきてもすべて無視する。
 
だから上のようなことは日本人は知らない。
 
しかも彼らの歴史の見方は日本がしたことしか見ない。
 
他国が日本にしたことは見ずに、日本がやったことしか見ないで「侵略」と断罪する。
 
しかし戦争は必ず相手がある。

彼らの見方は日本だけが周辺国に進出して戦争しまくったように書く。
 
そしてちょっとでも問題ありそうなことがあれば大騒ぎだ。
 
それでもほとんど出てこない。

それが立派に戦った証である。

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転載元転載元: さくらの花びらの「日本人よ、誇りを持とう」


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昭和41年に「ASEANセンター」を設立した中島慎三郎さんは、大東亜戦争で支那大陸からマレー、ニューギニア、インドネシアと転戦して、上等兵として終戦した。
 
昭和613月、中島さんはインドネシアのジャカルタのカリバタ国立英雄墓地に参拝した。
 
そこにはインドネシア独立戦争で戦死した日本兵の墓も並んでいるが、中島さんは真っ先に前年に亡くなったアリ・ムルトポ将軍の墓を詣でた。
 
墓に近づくと中島さんは墓石を抱きしめるようにインドネシア語で語り始め、顔を泣きはらして、涙をポタポタと地面に落とした。・・・

 

アリ・ムルトポは1924年生まれで、才能を見込まれて情報将校となった。1965年のインドネシア共産党事件では、ムルトポの戦略でスハルトの登場を促し、共産党を壊滅に追い込み、反共のASEAN結成に動いた。
 
昭和484月、マニラでASEAN諸国を中心に安全保障の国際会議が開かれた。
 
会議が始まると韓国代表が演説した。
「日本帝国主義が三十数年間も韓国を侵略したために、韓国は防衛体制が確立できなかった。その責任は日本にある」
 
日本側はこれに何も言わなかった。
 
するとインドネシア独立戦争を戦ったムルトポ将軍は、韓国は日本の庇護の下で日本人として生きてきたくせに、日本が戦争に負けたとたん戦勝国民だとうそぶき、独立戦争を戦ったと嘘を言う。自ら独立戦争を戦ったムルトポ将軍は朝鮮人のその性根が許せず、立ち上がって韓国代表にこう言った。
 
「朝鮮人は自ら戦わなかったくせに責任を日本に押し付けるとは何事か。もしアジアに日本という国がなかったと仮定してみよ。

1899年の義和団事件以来、ロシアは満州に大軍を駐留させ朝鮮を狙っていた。朝鮮が戦わないから日本が戦ったのだ。これが日露戦争だ。朝鮮は日本が敗けると思って裏でロシアと繋がっていたではないか。もし日本が戦わなかったら朝鮮はロシア領になっていたことは間違いなかった。

 
ロシア領になっていたのは朝鮮ばかりではない。支那も北半分はロシアが支配し、揚子江以南はイギリスとフランスが支配しただろう。遅れて登場したアメリカはどうやって支那大陸に食い込むか企んでいた。
 
そもそもアジア混迷の遠因は支那にある。支那はアヘン戦争でイギリスの不当な要求に屈して簡単に降参してしまった。その時支那はなぜ徹底して戦わなかったのか。イギリス・フランスを大陸に引き込んで蒋介石のように戦えば勝てたかもしれない。
 
“中華”と誇る支那が不甲斐なく敗けたから日本が大東亜戦争を戦わざるを得なくなったのではないか。この責任は支那にある。

そもそもアジアで戦ったのは日本だけではないか。もし日本という国がなかったらアジアは半永久的に欧米植民地勢力の支配下に置かれていたのではないか」
 
そして最後にムルトポ将軍は「戦後、アジア諸国は日本から経済、技術、資金でいかに多くの支援を受けたのか」と言った。
 
真実を言われた韓国代表は何も言えなかった。

                            参照:『昭和の戦争記念館』

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--------【講演会のご案内】---------
 「田母神俊雄・西村真悟ダブル講演会 『日本の危機』」
     (保守の会大阪・日本高志会 主催)

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国歌斉唱、海ゆかば斉唱、教育勅語奉読から始まります。
関西の皆さん、大阪で「日本」を熱く語りましょう
日時:10月27日(土) 開場1400〜 講演 14301700
場所:国民會舘 住友ビル12
参加費:事前申込み1,500円(当日2,000円)
懇親会:17301930 ホテル京阪地下1階(参加費3,500円)
お問合わせ・申込み:050-3568-7220(日本高志会代表 六本)


転載元転載元: さくらの花びらの「日本人よ、誇りを持とう」

日本が輝いていた訳

 
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日露戦争直前の『戯画 公園の各国児童』
(解説文)
朝日太郎(日本のこと) 「おい露助、清吉の油断に付込んで饅頭(満州のこと)を盗もうとは何事だ、さあ早く返してしまえ!」
露助 「つべこべ言うな、生意気な野郎だ。俺の身体の大きいのが見えんか」
仏次 「露助君、そっと僕にも分けてくれたまへ」
独一 「仏次君、君が貰ったら僕にも分けるんだよ」
米蔵 「これは面白い。露助のやつ強そうなことを言っているが、朝日にヤラレルんじゃないかな」
英子 「露助の顔の憎らしいこと、有夫サン、その艦を太郎さんに上げなさいよ」
有夫 「そうだ、早くやろう」(アルゼンチンより巡洋艦日進、春日を購入)
韓坊 「太郎兄ちゃん恐いよ」
清吉 「グウ・・」
・・・・・・・・・  
  
日本人がいちばん輝いていたのはいつごろであっただろうか。
高度成長期か、否。大東亜戦争を戦った時か、否。それは日露戦争がはじまる前から終わる頃まででありましょう。
 
日露戦争はロシアもシナも学校で教えない、というよりも歴史にはないのです。そして肝心の日本も大事な部分をほとんど教えなくなりました。
 
先達が国家存亡の危機に、勝つ望みの薄い戦に勝ち抜いた栄光に満ちた時代を知ることなしにどうして日本人として誇りを持つことが出来るのでしょうか。・・
 
東ヨーロッパのことわざにこういう言葉があります。
「ロシアの隣国になるほど不運なことはない」。
現在の日本に当てはめればシナや朝鮮というところでありましょう。
 
明治33年、ロシアの大軍が満州支配を目指して黒竜江を超えて南下します。
その時、ロシアは黒竜江の東岸であるブラゴウェシチェンスクにおいて、3000人のシナ人全員を黒竜江に突き落とす大虐殺が行われました。
 
この時、ブラゴウェシチェンスクにいた帝国陸軍の石光真清の日記にはこのように書かれています。
「これを知った日本人は怒り、同じ東洋の民族がこんなにむごたらしく扱われている、それを黙って見ていられようかと国民感情は沸騰し、我が国危うしとして正義の戦としてロシアとの戦いを決意していくのです」
 
当時、明治大帝による陸軍大演習の御統監、昭憲皇太后までもが軍艦に乗り込まれて海軍将兵の士気を鼓舞されたことをみても、日本軍の強さは皇室のお心遣いの賜物であるといえます。
 
現在の日本では天皇陛下が自衛隊を直接鼓舞することはありませんが、一旦緩急あれば自らの身を顧みることない自衛官にとってこのことがどれほど励みになることでありましょうか。
 
明治天皇は戦争だけはお避けになりたかったのですが、あえてご決断を下さねばならなかったお気持ちが偲ばれるお言葉があります。
 
事乃一蹉跌を生ぜば 朕何を以てか祖宗に謝し、臣民に対するを得んと、すなわち涙さんさんとして下る
(失敗することがあれば、我が高祖皇宗(御始祖と歴代天皇)の神霊に何とお詫びを申し上げ、我が子のごとく慈しむ国民に対してどうして顔向けが出来ようかと苦しみ、涙が流れるばかりである)
 
この戦より御食事がおすすみにならず、8年後に明治大帝は御隠れなるのですが、明治大帝の御心労のほどが如何ばかりだったかが偲ばれます。
 
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転載元転載元: さくらの花びらの「日本人よ、誇りを持とう」

NHKが捏造・虚偽・嘘を放送!5月25日(金)放送のNHK「チコちゃんに叱られる!」ラーメンのラーは、ラー油のラー?…ボーっと生きてんじゃねぇよ!
5月25日(金)放送のNHK「チコちゃんに叱られる!」

NHKの【「ロースーメン」のことを「支那そば」と呼ばれたから「ラーメン」の名称を考案した】は、真っ赤な嘘!

事実は、【「ロースーメン」のことを「チャンコロそば」と呼ばれたから「ラーメン」の名称を考案した】だった!

NHKは事実を知っていたくせに、悪意をもって捏造し、虚偽の内容を放送した!



▼NHKの悪質な嘘▼
大正時代に「支那そば」という差別用語を使う日本人の客が多く、札幌にある「竹家食堂」の女将さん大久タツは、北海道大学に通う中国人留学生に配慮して「ラーメン」という名称を考案した。

▼事実▼
大正時代に「チャンコロそば」という差別用語を使う日本人の客もいたので、札幌にある「支那料理 竹家食堂」の女将さん大久タツは、北海道大学に通う支那人留学生に配慮して「ラーメン」という名称を考案した。


http://www4.nhk.or.jp/chikochan/x/2018-05-25/21/18182/1490007/
5月25日金曜 NHK G
午後7時57分〜 午後8時42分
NHKチコちゃんに叱られる! #7
チコちゃん表紙2018年5月25日分-300x195.jpg2018年5月25日 第7回「チコちゃんに叱られる!」、​ラーメンの「ラー」
ラーメンのラーは、ラー油のラー?…ボーっと生きてんじゃねぇよ!
学校で、職場で「知ってる、ラーメンのラーってね…」と、話題になること間違いなし。



>NHK
>大正時代に「支那そば」という差別用語を使う日本人の客が多く、札幌にある「竹家食堂」の女将さん大久タツは、北海道大学に通う中国人留学生に配慮して「ラーメン」という名称を考案した。



NHKの上記の嘘は、本当に許せない!

NHKは嘘だと承知の上で虚偽の内容を放送しているのだから、かなり悪質だ!

大正11年の4月に北海道大学の正門前に看板を掲げた支那料理屋の正式名称は「支那料理 竹家食堂」だった!

「支那料理 竹家食堂」の看板に記載された文字は、「支那料理」だった!

「支那料理 竹家食堂」NHKが捏造・虚偽・嘘を放送!5月25日(金)放送のNHK「チコちゃんに叱られる!」ラーメンのラーは、ラー油のラー?…ボーっと生きてんじゃねぇよ!
「支那料理 竹家食堂」が掲げた看板は「支那料理」だった!


それなのに、NHKは「支那そば」という差別用語を使う日本人の客が多く、「竹家食堂」の女将さんは、北海道大学に通う中国人留学生に配慮して「ラーメン」という名称を考案した。】と放送したのだ!

ふざけんな!

「支那料理」の看板を掲げた「支那料理 竹家食堂」の女将さんが「支那そば」という差別語を使用しないために「ラーメン」という名称を考案するわけないだろ!

視聴者を騙すのも、いい加減にしろ!

NHKは視聴者を馬鹿にするな!

NHKは、番組内で謝罪と訂正をしろ!




まずは、5月25日(金)放送のNHK「チコちゃんに叱られる!」の再現をしよう。

5月25日
NHK
チコちゃんに叱られる!


チコちゃん表紙2018年5月25日分-300x195.jpg2018年5月25日 第7回「チコちゃんに叱られる!」、​ラーメンの「ラー」

NHKが捏造・虚偽・嘘を放送!5月25日(金)放送のNHK「チコちゃんに叱られる!」ラーメンのラーは、ラー油のラー?…ボーっと生きてんじゃねぇよ!

時は、大正11年(1922年)春、北海道札幌にある「竹家」

おかみさん大久タツのお店「竹家」には、北海道大学に通う中国人留学生たちが沢山やってきます。

彼らに人気だったメニューが、「肉絲麺(ロースーメン)」

「ロースーメン」の「ロースー」とは「青椒肉絲(チンジャオロースー)」の事。

細い牛肉と竹の子の炒め物がのった「ロースー麺」を目当てに、中国人留学生だけでなく、お店には沢山の日本人も訪れるようになりました。

しかし、おかみさんには、一つ気がかりな事がありました。

日本人客「支那そば一つ」
日本人客「あ 俺も。 支那そば」

おかみさん「肉絲麺(ロースーメン)ですね?」

日本人客「肉絲(ロースー)?支那そばで いいんだよ。支那そばで。 なあ?」
日本人客「支那そばだよ。」

1894年〜1895年(明治27〜28)に日清戦争以降、中国の事を見下す表現として「支那」と呼ぶ日本人が、少なくありませんでした。

(竹屋食堂のおかみさん、大久タツの心の声)
「中国の学生さんたちに嫌な思いさせるのは申し訳ないわ。そうだ。 『肉絲麺(ロースーメン)』が言いにくいのかも しれないわね。」

その日から、ロースー麺に変わる新しい名前を考えはじめました。

しかし、なかなか良い名前が浮かばず、中国人留学生たちの可哀想な状態が続きました。

そんな ある日の事、料理人が「ハオラー」とラーメンを差し出します。

「好了(ハオラー)!」(料理ができたよ)

「は〜い。」

「ハオラー」とは「料理ができたよ!」という合図です。

(竹屋食堂のおかみさん、大久タツの心の声)
「好了(ハオ ラー)、『ラー』って いい響きね。…『ハオラー、ロースーメン』…『ラーメン』だわ!」
NHK「チコちゃんに叱られる」という番組で、ラーメンの「らー」について由来について、チャイナでは肉絲(ロースー)麺と呼んでいたが、日清戦争以降、日本人は『支那そば』とチャイナを見下す呼び方をしていた…NHK

この「ラーメン」という新しい名前は覚えやすく、その後、日本人のお客さんも…。

「ラーメン 1つ下さい」
「僕も ラーメンお願いします。」

「ラーメンですね?」
「ラーメン2つ!」

これが ラーメン命名の瞬間。

そうです。
「ラーメン」の「ラー」とは、中国人留学生を思いやったおかみさんの優しさの「ラー」だったのです。


「支那料理 竹家食堂」NHKが捏造・虚偽・嘘を放送!5月25日(金)放送のNHK「チコちゃんに叱られる!」ラーメンのラーは、ラー油のラー?…ボーっと生きてんじゃねぇよ!

(参考)
チコちゃんに叱られる!ラーメンの「ラー」って何?由来と語源は?
http://candy17.club/11865.html
『チコちゃんに叱られる! #7』の番組情報(EPGから引用)
https://tvpalog.blog.fc2.com/blog-entry-2220.html
韓流研究室
NHK「チコちゃんに叱られる! #7」でチコちゃんが教えない事⇒ラーメンの由来編
http://toriton.blog2.fc2.com/blog-entry-5604.html


NHKチコちゃんに叱られる! #7NHKチコちゃんが大嘘「支那そば」→「ラーメン」!・事実は「チャンコロそば」→「ラーメン」!NHKが捏造・虚偽・嘘を放送!5月25日(金)放送



如何にも尤もらしい嘘番組をつくるのがNHKの狡賢いところだ!

こんな本当のようなウソを吐くNHKを絶対に許してはいけない!

上述したとおり、「竹屋食堂」の正式名称は「支那料理 竹家食堂」であり、堂々と「支那料理」の看板を掲げていた!

「支那料理」の看板を掲げた「支那料理 竹家食堂」の女将さんが「支那そば」という言葉を差別語だと思うわけがない!

NHKは、番組内で謝罪と訂正をしろ!


https://twitter.com/RyuichiShigaki/status/999971079408959488
志垣竜一・やまざくら会‏
@RyuichiShigaki
NHK「チコちゃんに叱られる」という番組で、ラーメンの「らー」について由来について、チャイナでは肉絲(ロースー)麺と呼んでいたが、日清戦争以降、日本人は『支那そば』とチャイナを見下す呼び方をしていた…

はぁ?『支那』という言葉は見下す言葉なのか?違うだろ!
これだからNHKは…😩

NHK「チコちゃんに叱られる」という番組で、ラーメンの「らー」について由来について、チャイナでは肉絲(ロースー)麺と呼んでいたが、日清戦争以降、日本人は『支那そば』とチャイナを見下す呼び方をしていた…
20:10 - 2018年5月25日


事実は、【大正時代に「チャンコロそば」という差別用語を使う日本人の客もいたので、札幌にある「支那料理 竹家食堂」の女将さん大久タツが北海道大学に通う支那人留学生に配慮して「ラーメン」という名称を考案した】だ!

この事実については、「竹家食堂ものがたり―北のラーメン誕生秘話」という本に書かれている。


<br />
「竹家食堂ものがたり―北のラーメン誕生秘話」(2004/2)大久 昌巳、杉野 邦彦 (著)


番組内容から、NHKは間違いなく上記の「竹家食堂ものがたり―北のラーメン誕生秘話」を読んだはずだ。

NHKは事実を承知の上で、事実ではない虚偽の内容を捏造して放送したのだ!

事実が書かれてある「竹家食堂ものがたり―北のラーメン誕生秘話」の内容については、次のサイトで紹介されている。


http://dosanko21.com/Goodthing/100/cat42/3/
■北海道 ラーメン発祥のお話 その3 ハオラー(好了)!

「なんとかしないとねぇ。」

中国人の留学生たちや最近は店の評判を聞きつけて来てくれるようになった日本人の客で賑わう店を見ながら大久タツは思いました。
「せっかくここまで来たんだから、このままじゃいけない。でもどうしたらいいんだろう。」
厨房から料理人王のよく通る声が響きました。

「ハオラー(好了)!」

北9条西4丁目、北海道大学の正門前の一角にその店が「支那料理 竹家食堂」の看板を上げたのは大正11年の4月のことでした。

北9条西4丁目、北海道大学の正門前の一角にその店が「支那料理 竹家食堂」の看板を上げたのは大正11年の4月のことでした。

竹家の店主、大久昌治とタツの夫婦はその前年大正10年の4月にそれまでやっていた小樽のお焼き屋(北海道ではいわゆる「今川焼き」を「お焼き」と呼びます。)を売り、この北大正門前に写真館を開きました。
「大学なら毎年新入生も卒業生も出るだろう。写真の需要はあるはず。」
写真技師を雇い、新しい機材を入れて始めたその商売は、しかし見事に失敗、でした。

秋にはもう写真館の看板を下ろさざるを得ないことになり、悩んだ二人は、12月には店を「竹家食堂」と変え店内ではタツがカレーライスや親子丼を作り、店先では昌治が「お焼き」を焼くようになりました。
北大の近くには「お焼き」はありませんでしたのでこれは思ったよりはよく売れました。しかし、このままでは先はしれています。もっと可能性のある商売は?

そんな頃タツはここに中国からの留学生が多いことを知りました。
そして、店の常連になった留学生たちと話しているうちに彼らの一番大きな悩みも知ったのです。

それは、食べ物。
「私たちは毎日日本の食事ばかりでは力が出ません。故郷の料理が食べたい・・・。」

「支那料理の店、なんてどうかしらね?留学生の人たちもたくさんいるし、寒い北海道には脂っこい支那料理合うんじゃないかねぇ。」
「支那料理か・・・。それはいい考えかもしらんな。でもそうなると料理人を雇わなきゃならん。作れる料理人はいるかな?」
「そうだねぇ。」


王文彩が日本人の船員に連れられて竹家食堂に現れたのはそれからしばらくした頃でした。王は大柄で目が大きく風格のある中国人でした。
「この人はシベリアで支那料理の店をやっていたんですが、尼港事件に遭って樺太経由で北海道まで逃げてきたんだそうです。日本語はまだしゃべれないんですが料理の腕は確かです。こちらで使ってやってもらえんでしょうか。」
昌治とタツは顔を見合わせました。まるで神様が幸運を運んできてくれたように思えたのでした。

二人は早速(中国人留学生に通訳を頼み)王文彩の意見を聞きながら店を中華料理店に改装し北大の春休みが終わった頃「支那料理 竹家食堂」は開店しました。北海道では初めての本格的中華料理店の誕生です。

王文彩の料理の腕は本物でした。それは食通と呼ばれる人たちや本場の味を知っている北大の教授をうならせるほどの物でした。
毎日数十名の中国人留学生たちの賄いも引き受け、北大からの出前や宴会の依頼などもあり竹家食堂は順調に滑り出しました。評判が上がってくるとそれを聞きつけた日本人のお客も増え店はますます賑わって来ています。

しかしお客が増えるにつれタツには悩みができました。

王文彩は麺作りの技術も持っていました。
麺の生地を引き延ばして折りたたみさらに引き延ばして、
2本が4本、4本が8本、と言った具合に繰り返し、一本が2ミリくらいの太さになるまで伸ばしていくと言う製法でした。大きな王の腕の間で麺がまるで生き物のように震えながら次第に細くなり数が増えていく様子は魔法のようだったと言います。
この麺を使った料理で人気になったのが「肉絲麺(ロースーメン)」でした。
「これはどんな料理?」
「肉を糸のように刻んで油で揚げたのを入れた麺なんですが・・・」
「あっ、支那の蕎麦か。それ一つ。」

人気は出ても「肉絲麺(ロースーメン)」とと言う名前が日本人には発音しづらかったのかその名前で注文してくれる人はいませんでした。
「支那の蕎麦」「支那蕎麦」・・・

言葉の持つニュアンスは時代の空気によって変化します。元々中国や中国の人を表す言葉だった「支那」「支那人」も日清・日露戦争を経て日本が大陸へ進出していく頃には中国人を見下すようなニュアンスに変わりつつありました。
しかし大学関係者がほとんどの客だった頃はそれもあまり気にはなりませんでした。それが普通の日本人の客が増えてくると・・・
「チャンコロの蕎麦くれ。」
「こっちもチャンそばひとつ。」

チャンコロは完全に中国人を侮蔑した言葉です。
中には店に中国人留学生がいることを知りながら、
「この辺にはやたらチャンコロが多いな。」などと聞こえよがしに言う客もいます。


そんな時、タツは中国人留学生と目を合わせるのが辛いような気がしました。
「あんなに真面目で一生懸命な人たちに嫌な思いをさせるのは辛いねぇ。それにこの店がうまく行き始めたのもあの人たちが力を貸してくれたからなんだしね。チャンそば、なんて言われなくて済むようにしなければ。」

昌治も思いは同じでした。二人は色々と考えながらメニューや店内の表記を変えてみたりもしていました。
この少し前には「肉絲麺(ロースーメン)」「柳麺(リュウメン)」としてみました。

「これの方が読みやすいし発音もしやすいだろう。」
しかし、効果は全くありませんでした。

どうしたらいいもんか、ねぇ。

そんな思いにふけっていたタツは王の大きな声で我に返りました。

「ハオラー(好了)!」

料理ができたよ、と言う意味です。料理中の厨房に他の人間が入るのを嫌う王は注文を受けた料理が出来上がるたびに大きな声でハオラー!と叫びました。店が賑わうごとにそんな王の声が店に響く回数は増えています。
「王さんったら、またあんな大きな声で。」
タツは微笑みながら思いました。
「いつもいつも、ラー、ラーって。」
その時、タツの頭に閃く物がありました。

「ねえ、ラーメンって言うのはどうかな。」
「ラー、メン・・・か?」
「うん。私店にずっといると、王さんのラー、ラーって声が耳に残っちゃって・・・」


タツは笑いながら言いました。
「ラーメン、なら言いやすいし、でも日本語にはないでしょう?」
「そうだな、ラーメンか。語呂はいいし支那料理に合っているかな。でもどう書く?柳麺の時みたいに読んで貰えなければ意味はないぞ。」
「だから、カタカナで大きく、ラーメンって書いたら?」


タツの閃きは、あたり、でした。
最初のうちこそ、「ラーメンって何だい?」と質問する人が多かったのですが、そのうち「チャンそば」はもちろん、「支那の蕎麦」「支那蕎麦」と注文する人もいなくなりました。そしてもっと驚いたことは「ラーメン」とメニューに書いてから、麺類の売り上げがうなぎ登りに上がったことでした。ラーメンと言う言葉が札幌にしっかり根付いたのです。
その頃札幌は喫茶店の街とも呼ばれ市内には10数店の喫茶店があったそうです。竹家のメニューに「ラーメン」が登場して数年のうちにそれらの喫茶店や市内の食堂のメニューに「ラーメン」が入るようになりました。その頃、喫茶店や食堂のラーメンの値段は一杯15銭だったそうです。竹家食堂のラーメンは一杯20銭でした。しかしラーメンの元祖としての竹家食堂の評判は高く値段の差も関係なくお客が減ることはありませんでした。

王文彩は大正13年に惜しまれながら竹家食堂を去りました。
その後は李彩、李宏業が後を継ぎ竹家食堂を発展させていきました。

大正14年には支店「芳蘭」開店
昭和3年、「旭川芳蘭」開店

旭川でも、ラーメンは人気メニューとなりました。
すでに札幌では知らない人がいないほどになっていた「ラーメン」は旭川でも少しづつ認知されるようになっていったのです。

昭和8年、本店、竹家食堂新装開店。

竹家食堂は繁栄を続けていました。
その未来は永遠に明るいようにさえ見えました。

しかし昭和15年12月、日本はアメリカとの太平洋戦争に突入。
戦局の悪化につれ物資も不足してきます。
麺を打つ小麦さえ質の良い物は手に入らなくなりました。

そしてついに昭和18年、物資統制令により、竹家食堂廃業。

北海道のラーメンの歴史のプレリュードはここに終わりました。


>北9条西4丁目、北海道大学の正門前の一角にその店が「支那料理 竹家食堂」の看板を上げたのは大正11年の4月のことでした。


NHKは、店の正式名称が「支那料理 竹家食堂」だったことを隠蔽し、「竹屋食堂」「竹屋」としか放送しなかった。

実に許し難い、隠蔽、捏造だ!






>「支那料理の店、なんてどうかしらね?留学生の人たちもたくさんいるし、寒い北海道には脂っこい支那料理合うんじゃないかねぇ。」
>「支那料理か・・・。それはいい考えかもしらんな。でもそうなると料理人を雇わなきゃならん。作れる料理人はいるかな?」



「支那料理 竹家食堂」の女将さんは「支那」を連呼している。

NHKの捏造は、本当に許し難い!






>王文彩が日本人の船員に連れられて竹家食堂に現れたのはそれからしばらくした頃でした。王は大柄で目が大きく風格のある中国人でした。
>「この人はシベリアで支那料理の店をやっていたんですが、尼港事件に遭って樺太経由で北海道まで逃げてきたんだそうです。日本語はまだしゃべれないんですが料理の腕は確かです。こちらで使ってやってもらえんでしょうか。」
>昌治とタツは顔を見合わせました。まるで神様が幸運を運んできてくれたように思えたのでした。



NHKは「尼港事件」についても隠蔽した。

尼港事件は、ロシア内戦中の1920年(大正9年)にアムール川の河口にあるニコラエフスク(尼港、現在のニコラエフスク・ナ・アムーレ)で発生した、共産主義者の赤軍パルチザンによる大規模な住民虐殺事件だ。

共産主義者のパルチザン部隊4,300名(ロシア人3,000名、朝鮮人1,000名、支那人300名)が、多数の日本人を含むニコラエフスク住民を大虐殺した。

殺された住人は総人口のおよそ半分の6,000名を超え、日本人居留民の犠牲者数も判明しているだけで731名にのぼり、ほぼ皆殺しにされた。

廃墟となったニコラエフスク(尼港)
廃墟となったニコラエフスク(尼港)

来年5月24日には、小樽手宮公園で【尼港殉難者100百回忌慰霊祭】が行われるという。(詳細は、後述)





>「チャンコロの蕎麦くれ。」
>「こっちもチャンそばひとつ。」
>チャンコロは完全に中国人を侮蔑した言葉です。
>中には店に中国人留学生がいることを知りながら、
>「この辺にはやたらチャンコロが多いな。」などと聞こえよがしに言う客もいます。
>そんな時、タツは中国人留学生と目を合わせるのが辛いような気がしました。
>「あんなに真面目で一生懸命な人たちに嫌な思いをさせるのは辛いねぇ。それにこの店がうまく行き始めたのもあの人たちが力を貸してくれたからなんだしね。チャンそば、なんて言われなくて済むようにしなければ。」
>昌治も思いは同じでした。二人は色々と考えながらメニューや店内の表記を変えてみたりもしていました。



これが事実だ。

「チャンコロの蕎麦」「チャンコロ」という言葉は支那や支那人に対する差別語だが、「支那」「支那人」は全く差別語ではない。

なぜ、NHKは事実を放送しないのか?!

事実を放送しないなら、捏造はするな!

NHKは、番組内で謝罪と訂正をしろ!


https://www.nhk.or.jp/css/sp/
NHKへのご意見・お問い合わせ
ご意見・お問い合わせについては、NHKふれあいセンター
電話:0570-066-066 までお願いします。

メールフォームによるお問い合わせ
(お問い合わせフォームあり)



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真実は、「中国」「中華」「中共」が差別語であり、「支那」「シナ」が正しい。

「中華主義」「華夷秩序」という差別文明観を取り込んだ「中国」という国名は、モンゴルや東トルキスタンやチベットやベトナムや台湾や日本や朝鮮や満洲などの周辺諸国を「野蛮な種族の地」だとする差別語だ!

一方、「支那」という国名は、オランダ語やポルトガル語の「シーナ」、スペイン語の「チナ」、英語の「チャイナ」と同様に世界の共通語であり、全く差別的な意味は含まれていない!
真実は、「中国」「中華」「中共」が差別語であり、「支那」「シナ」が正しい。

「シナ」が中国を示す蔑称』というのは真実ではなく、「中国」という呼称こそが周辺の異民族を野蛮な民族の地として見下す蔑称(差別語)だ。

支那人の伝統的な文明観は「中華主義」というやつで、これを「華夷秩序」と言う。

これは差別そのものだ。


差別を強調した「中国」こそが差別的な表現であり、世界共通語の「支那」は全く差別的な表現ではない!

この「中華主義」「華夷秩序」という差別文明観を取り込んだ「中国」という国名を認めて使用することは、満州やモンゴルや東トルキスタンやチベットやベトナムや台湾や日本や朝鮮などの周辺諸国を「野蛮な種族の地」と認めて呼ぶことを意味する。

真実は、「中国」「中華」「中共」が差別語であり、「支那」「シナ」が正しい。NHKが捏造・虚偽・嘘を放送!5月25日(金)放送のNHK「チコちゃんに叱られる!」ラーメンのラーは、ラー油のラー?…ボーっと生きてんじ


「支那」という言葉(表記)は、大昔からあった。

「支那」という表記を発明したのは古代支那人だった。

支那人自身が支那を「支那」と呼んできており、清朝の公的文書にも「支那」は出てくる。

これらは、1999年5月7日付の「人民日報」で認めている事実だ。



支那の「国父」といわれる英雄「孫文」も国籍は「支那」と書いていた。
支那の「国父」といわれる英雄「孫文」も日本に入国した時、国籍は「支那」と書いていた
「支那」呼称問題。支那の「国父」といわれる英雄「孫文」も日本に入国した時、国籍は「支那」と書いていた。NHKチコちゃんは嘘を吐くな!
孫文「支那革命」


一方、日本においては、14世紀には既に、広島や岡山などの中国地方は「中国」と呼ばれていた。


辛亥革命の後に支那が「中華民国」と名乗った後も、世界は、「支那」、「シナ」、「シーナ」、「チナ」、「チーナ」、「シーヌ」、「チャイナ」などと呼び続け、「中華民国」とか「中国」などの周辺国に対する蔑称(差別語)で呼ぶ国はなかった。

ところが、大東亜戦争が終わり、一応戦勝国となった支那は、敗戦国となった日本に対してのみ「中国」という差別語を強要してきた。

支那が日本に「中国と呼べ」と言って来たのは、終戦の翌年1946年で、アメリカのお蔭で一応「戦勝国」となった国民政府(蒋介石政権)が、アメリカに占領されて主権がなかった日本に対して要求したのだった。

当時の日本の外務省は、公務員の公務時と公共電波での「支那」呼称だけに限定して禁止することを受け入れた。

日本では敗戦直後の1946年に中華民国からの要望により、支那を中国と呼ぶように外務省から通達が出され、公務員が公務を行っている時のみは支那を使うことや公共電波での支那呼称は禁止されている(当時の外務省局長級通達による)。
ただし、上記通達で禁止されているのは「国名としての『支那』」呼称のみであり、歴史的・地理的および学術的呼称の場合は必ずしも従う必要はない。
上記通達でも「東シナ海」「支那事変(日支事変)」などの名はやむを得ないとされている(現実には支那事変は日中戦争に取って代わられた)。

しかし、その後、蒋介石の国民党政権(中華民国)は支那大陸から台湾に追放され、支那大陸には共産党政権が樹立され、更に1952年4月28日のサンフランシスコ平和条約の発効によって日本に主権が戻ったのだから、蒋介石の国民党政権(中華民国)が日本に対して不当に要望した差別語の使用は完全に無効となった。

政府外務省やマスコミなどは、連合軍による占領統治下で支那から不当に強要された差別語「中国」の使用を破棄し、「支那」に呼称を戻さなければならなかった。


「相手が嫌がる呼称を使うべきでない。」などと言ったマスゴミ記者がいたが、だったら俺を含めて多くの人は「中国」「中華」「中共」呼称を嫌がっているのだからマスゴミは「中国」呼称を使うべきではない!




「支那」という言葉は最初の統一王朝の「秦」に由来し、その後今日に至るまで、世界中がその近似音で「シナ」「支那」と呼んでいる。

つまり、「支那」は、世界の共通語なのだ!


支那人が、「中華人民共和国」「中国」と呼べと言っている相手は、日本以外にあるのか?

日本以外の国は「チャイナ」「シーナ」のままで良いのに、日本にだけ「シナ」から「中国」(日本など周辺諸国に対する蔑称)に変更しろと言ってるのだ。

「支那」「シナ」は差別語や侮蔑語などではなく、「シーナ」(オランダ語、ポルトガル語)「チャイナ」(英語)と同じだ。

「中国」「中華」「中共」こそが、蔑称(差別語)なのだ。

●詳細記事
試験で「中国」を「支那」と書いたら不正解!教諭「支那は差別用語」・真実は「中国」こそ差別用語
http://deliciousicecoffee.jp/blog-entry-5691.html



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「尼港事件」【尼港殉難者100百回忌慰霊祭】に関す詳細
http://mizumajyoukou.blog57.fc2.com/blog-entry-2822.html
【水間条項ー国益最前線ジャーナリスト水間政憲のブログです。】

●超拡散希望《「尼港殉難者を慰霊する会」を発足します。来年5月24日に小樽手宮公園で行われる【尼港殉難者100百回忌慰霊祭】に全国からご参集ください》

■四年前、「済南・通州両殉難者慰霊祭」を、靖国神社本殿で催行するとき、日本社会で忘れられている「尼港日本人惨殺事件」もいっしょにと、思案しましたが、場所がロシアですのでいっしょには難しいと判断した次第です。

実際、尼港日本人惨殺事件殉難者の追悼碑と納骨堂は、昭和12年、小樽手宮公園に建立され、毎年5月24日に慰霊祭が執り行われていることを、小樽は地元ですので承知していましたが、また小樽は日教組発祥の地でリベラル色が強い街ですので、気になっておりましたところ、5月24日に安倍首相がプーチン大統領との会談のためモスクワへ飛び立ったとき、尼港日本人惨殺事件の慰霊祭が行われているか否か気になり、小樽の関係各所に電話で問合せしました。

その中で驚愕する事実が明らかになりました。

それは、手宮公園の尼港殉難者納骨堂に安置されていた「遺骨」を、小樽市が平成元年に小樽市共同墓地内にある万霊搭(無縁仏)に移設したとのこと。
それを訊いたとき体が震える憤りを覚えました。

何故なら、同納骨堂に安置されていた「遺骨」は、平成元年に移設業務を行った方によると「遺骨はひとつづつ木箱に入っていたものを、万霊搭に入れるため『木箱をバラバラ』にして、まとめて納骨しました」と、語っていましたが、この行為はあり得ない暴挙なのです。

それは、1920年・尼港日本人惨殺事件殉難者731名の日本人として特定された「遺骨」は、小樽市民の総意に基づき日本政府に請願して、ロシアに保管されていた「遺骨」をまとめて昭和12年(1937年)、小樽手宮公園の慰霊搭(追悼碑・納骨堂)に安置されることになっていたからです。

ちなみに、その慰霊搭は、海運業で財をなした実業家藤山要吉さんが私財を投じて建立されたものです。

※尼港日本人惨殺事件は、ソ連の統制下にあった共産パルチザンが実行したのであり、賠償責任はソ連にあるにも拘わらず、1925年、我が国はソ連と国交を回復する過程で北樺太のオハ油田利権と引きかえに、ソ連の責任が棚上げされ「賠償」を求めませんでした。
情けないことはいつもの通りです。

いま、北方領土交渉もロシアの意向のままでなんら進展していませんが、ソ連からロシアに政権が継承されており、シベリア抑留問題だけでなく「尼港日本人惨殺事件」を声高に訴えることは、現在の我が国の「国益」にも直結する大問題なのです。

【尼港殉難者を慰霊する会】は、会員を募ることはしませんが、「尼港日本人惨殺事件」に関する情報は「水間条項」で会として発信しますので、全国から2019年5月24日(金曜日)尼港殉難者100百回忌慰霊祭に参加される方は、個々にJALやANAのパック旅行を申込みしていただき、慰霊祭前日に共に行動を希望の方々は、事前に「オフィス存」に連絡していただければ登録しておきます。

◆実際、木曜・金曜・土曜の二泊三日であれば、東京発→札幌(小樽)、往復飛行機代・ホテル二泊宿泊代込みで3万5千円前後の「パック旅行」がありますので、それをイメージして九州・本州の皆様方は計画をたててください。








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転載元転載元: 正しい歴史認識、国益重視の外交、核武装の実現

嗚呼、尼港事件

「保守」というのは真摯な心に根ざしていないといけない。
目頭が熱くなる、怒りがこみ上げてくる などを感傷的にではなく
心の中からこみ上げて来て、その心情を源泉として立ち上がるのが保守の志だ、
と今朝の新聞に書いてありました。
・・・・・・


元寇以来の国辱 といわれた尼港事件(にこうじけん)。

日本の歴史教科書、新聞、歴史学者は日本軍が悪かったということは作り上げてでも
大きく書き立てますが、
日本人が共産主義者に虐殺された尼港事件については口をつぐんでまったく語りません。
日本人の記憶と歴史からこの虐殺事件を消し去られようとしています。

しかし、そうはいきません。
我々はこの事実をきちんと知らなければなりません。
日本人が悲惨な虐殺をされた事件は他にもたくさんありますが、
当時の日本国民の感情を激昂させた元寇以来の国辱とはどのような事件だったのでしょうか。
・・・・・・

尼港とはニコライエフスクと言い、樺太の対岸にあります。
第一次大戦中にロシア革命が起こりロシアが無政府状態になり、
共産パルチザンたちが外国勢力追放を叫び、
各地で外国人の襲撃事件を起こします。

1920年には尼港に日本人居留民、陸軍守備隊、海軍通信隊の七百数十名がいました。
当時日本はシベリア出兵を連合軍と行っており、
やがて連合軍が撤兵し、日本も守備隊を縮小するという矢先に・・・

ロシア、支那、朝鮮人たちの4000人の共産パルチザンたちが尼港を包囲しました。
まずはロシアの資産階級を殺害し、
その老幼男女を問わず家の中に閉じ込めて、出入り口を厳重に締めて放火しました。
火中の家の中では悲惨な叫び声の中、焼き殺されたのでした。

次には親日派の知識階級を虐殺、強姦を尽くし、
それから彼らは日本人へと襲い掛かります。

日本人女性を公衆の面前で辱めて獣欲を満たし、
その後、指を切り、腕を断ち、足を絶ち、そして五体バラバラに切り刻み、
残虐ななぶり殺しの限りを尽くします。

また、馬2頭を並べ、日本人の男も女もそれぞれ両足を馬鞍に結びつけ、
馬に一鞭打ち付けて両馬が疾走すると、
悲鳴と共に見る見る五体は八つ裂きとなり悲惨な最期を遂げました。
それを見ている共産パルチザンの連中は手を上げて喜び、せせら笑い、歓呼していた。

この蛮行の姿を見た一人の日本軍海軍士官はこう語ります。
「我らが日本人共々、憤りの涙を絞り、深く心に決す。死なばもろとも、散らば桜と、・・・」

日本人一同が共にたすけあって、ようやく領事館に避難します。
その後、共産パルチザンの連中は市街の日本人たちの全財産を掠奪し、
放火、破壊の限りを尽くします。
それでも日本人一同は彼らとは衝突しないよう自重していました。
しかし彼らは領事館に向かって砲撃してきたのです。
領事館は砲火のため火災となり、
もはやここに到っては堪忍袋の緒も切れ、万事休すであると覚悟を決めます。

居留民の男女は一斉に決起し、
男は全員武器を持ち軍隊と共に防戦し、
女性は危険を顧みず
「敵に陵辱されるならば、潔く軍人達と共に死す」と覚悟をして、一同決死、反撃します。

全員が奮戦し、戦うが、日本人は徐々に減り、
女性まで小銃や短銃を手にしてその場で弾の込め方、撃ち方を教わり、
敵に果敢に攻撃するが、ことごとく壮烈なる戦死を遂げます。
弾薬は尽き、力尽き、それでも日本人として敵の屈辱を受けるものかと、
皆が進んで火の中に身を投げ、壮絶な最期を遂げました。


やがて、日本国は救援軍を派遣します。
共産パルチザンは日本軍がここに到着する前に収監中の日本人を全て惨殺しました。
さらに尼港市民12000人のうち、共産主義に従わない6000人を虐殺。
石田副領事夫妻以下居留民384名、軍人351名の計七百数十名の日本人が
陵辱暴行の上、虐殺されました。
共産パルチザンは市街に火を放ってそのまま逃げました。
・・・・・・

この事件の2週間後に日本の「時事新報」は現場を視察してその様子を掲載しました。

一望荒廃。
レンガの家は爆破されて崩れ、木造の家は跡形も無く焼失。
焼け跡には婦人の服、靴、鍋、子供の寝台など散乱。

焼け残った一棟に入りました。
まず異臭が鼻を突き、一同思わず顔をそむけました。
中は8室に分かれ、壁には生々しい血液が飛び散っています。

2号室の壁には
「大正九年五月二十四日午後十二時 忘れるな」
とあり、傍らには十二時を指す時計の絵が描いてありました。
https://blogs.c.yimg.jp/res/blog-7f-73/bonbori098/folder/1009491/12/22591112/img_0?20180527083039
「昨日は人を思えど、今日はわが身にかかる」
などの文字を白ペンキの壁に鉛筆で書かれていました。

特に悲惨なのは、赤鉛筆で5月19日から6月23日までを表にして
初めから23日までは線を引いて消されていますが、25日以降は消されていません。
これは24日の夜、140人は監獄から出され黒龍河畔に連れて行かれ
ことごとく刺し殺されて河に流されたのでした。

そのまま黒龍河畔に行くと、造船工場前の200坪の空き地は一面血潮に染められ、
色は既に黒くなっていた。
縛り付けた縄に着いている血、血を拭いたシャツ、船べりに付いたおびただしい血、
目も当てられぬ惨状です。
「これが皆、我が同胞の血だ。同胞が恨みを呑んで毒刃に斃れた。」

我々は同胞の血を踏まぬよう歩き、そのまま司令官の野津少将のところに行きました。
野津少将は涙を浮かべ
「我が同胞は一名も残らずことごとく死にました。同情に堪えません。
ただ、その中の一人として卑劣な行いも無く、最後までいさぎよかったということだけは嬉しいです」

転載元転載元: さくらの花びらの「日本人よ、誇りを持とう」

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