満州

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                          建国神廟鎮座祭
 
918日は柳条湖事件が起きた日です。昭和6年でした。
これが満州事変となり、翌、昭和7年に満州国建国となったわけです。
建国当初、元首を“執政”と呼び溥儀は執政としていました。
しかし、溥儀を皇帝にして帝国にしなければ国家として整わないという声が出てきて、ついに昭和931日、即位の礼をもって満州帝国と皇帝溥儀が誕生しました。
 
満州帝国が創建されると「建国廟」の創設が必要であると考えられました。
関東軍も建国廟は必要であると考えました。ただその御祭神はどうするかが問題となりました。
これまで日本統治の「台湾神宮」や「朝鮮神宮」は天照大御神や明治天皇をお祀りしていましたが、満州国は日本の統治下にあるわけではなく独立国です。
当時の米内首相も閣僚も宮内省も日本の神を祀るのは反対でありました。
 
しかし、溥儀皇帝は「御祭神を天照大御神としたい」と強く主張されました。
天照大御神を祀る『建国神廟』は『伊勢神宮』にあたるもので、満州建国に尽くした英霊を祀る『建国忠霊廟』は『靖国神社』にあたるものです。
溥儀はこれを創建しようと決めました。
 
溥儀は訪日し「満州帝国の元神として天照大御神を奉斎する」ことを日本側に了承してもらおうとしました。しかし、日本側は反対しました。
反対されても諦めきれない溥儀はご神体である鏡を製作し、溥儀自身が伊勢神宮でお祓いを受けることにしました。そして溥儀は天皇陛下に天照大御神奉斎の意志を伝えると、陛下から『太刀一振り』と『屏風』が贈られました。
 
溥儀は帰国すると『建国神廟』の鎮座祭を行いました。そこで溥儀は「満州国の今日あるのは、天照大御神と天皇陛下のお陰であり、惟神(かんながら)の道をもって建国の精神とする」と宣言しました。
 
さらに918日、『建国忠霊廟』の鎮座祭が行われ、陛下から拝受した刀は忠霊廟の神宝とされました。ここには満州国の理念である五族協和、つまり五族の英霊24141柱が祀られたのです。
 
このように、満州帝国は日本の傀儡なんかではなく、満州国と溥儀の意思で建国され天照大御神を御祭神とされたのです。
尚、陛下が御贈進された刀は終戦直前に満州に侵攻したロシアが所蔵しています。
 
これらのことは今では語られることなく、教えられることがないため、ここに残しておきたいと思います。
 
 
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                満州帝国当時の建国忠霊廟(日本でいえば靖国神社)
 
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転載元転載元: さくらの花びらの「日本人よ、誇りを持とう」

河豚計画

日独伊三国同盟を結んでドイツを手を組む一方、日本政府では「八紘一宇」=「すべての民族は兄弟である」という建前があり、ユダヤ人の迫害には反対でした。
そこで、満州国内にユダヤ人自治州を作ろうというのがこの計画です。
計画名は「ユダヤ人の受け入れは益も大きいが、河豚の調理のように、一歩間違えば日本の破滅を招く」ことから来ているのだとか。彼らは財産家も多く、日本の味方につけられれば大きな利益があると考えられたのです。
また、同時にアメリカのユダヤ系資本を誘致し、満州の開発をさせようとしていました。
「ユダヤ人の安全を保証する代わりに、公共事業を監視つきで請け負わせよう」というわけです。ここだけ聞けばWIN−WINといえなくも……ないですかね。
想定では1万8000〜60万人程度の移住を見込み、インフラ整備などが行われていました。
居留地内では自治や教育・文化の自由を認めることで、ユダヤ人の好意を勝ち取ろうとしていたようです。密かに監視することも考えられていましたが、まあそれは当時の日本国内でも似たようなものですしね……。
しかし、戦争が始まるとドイツの感情を損ねないことが重視され、大々的な動きにはなりませんでした。
満州国経由で南北アメリカ大陸に行こうとしたうち、ごく一部のユダヤ人が満州に留まりながら、当初の想定よりはずっと少ない数字に終わっています。
また、1933年にハルビンでユダヤ系ピアニストの殺害事件があり、このときの日本側の対応がユダヤ系の不信を招くようなものだったことも悪影響を与えました。
この事件によって満州から上海に移動した者も多かったそうです。
また、アメリカ政府に警戒されてしまったことも、頓挫の一因になったと考えられています。
ドイツからはおぞましい実験や虐殺・強制労働計画が持ちかけられ、日本政府によって拒絶されました。
上海にゲットーを作ることは強いられましたが、ナチスドイツ勢力圏内のものに比べれば緩やかな規制だったようです。とはいえ、決して良い生活ではありませんでしたが。
こういう経緯があったから日本政府としては杉原千畝のことも暗黙の了解だったのかもしれません。戦後の外務省の対応については……うん。

より

Yahoo!掲示板


投稿者 :
rekisisiranai


日本の戦争責任


責任なし12 塘沽協定から冀察委員会まで


これは「責任なし11 中国の満州侵犯と熱河作戦」の続きです。


 停戦協定が結ばれたからといって、ハイそうですか、と引き下がる中国ではありません。

執拗に満州再侵略と非武装地帯侵犯をくりかえします。

 1934年(昭和9年)11月 宋哲元の部下の馮治安の部隊が突如、熱河省を侵犯し、大灘西方20キロの断木梁という部落に進出して来ました。

そこで怒った関東軍が、どこまでも追撃し宋哲元の本拠地近くまで迫ったのです。

 困った宋哲元は、天津軍司令官梅津少将の所に泣きつき、天津軍のとりなしでやっと関東軍は追撃を止め引き返しました。

 1935年5月3日、天津の日本租界で、国権報の社長胡恩傳と振報社の社長白逾桓の二人の親日分子が白昼何者かに襲撃され、命を落とす事件がありました。

これについては、米公使ジョンソンは北京憲兵の関与と言っています。

 また塘沽協定で設けられた緩衝地帯には、いつのまにか匪賊がはびこり、彼らは「抗日義勇軍」を名乗って、5月24日、長城を越え熱河を侵犯しました。

これもどうやら河北省主席である第51軍長于学忠が後で糸を引いていたようです。

 便衣隊の侵入、共産党の策動などで、河北は物情騒然となって来ました。

 天津軍の任務は本来《北京・山海関間の鉄道の保全、並びにこの間に居住する居留民の保護》だったのですが、現状ではこの任務も危うくなります。

 そこで「こんな事では困る!」と短気な酒井参謀長は、華北粛清対策案を起案紙に一気呵成なぐり書きしました。

    通告

一、最近華北に頻発しつつある排日・侮日の諸現象は、方(ひと)しく塘沽協定の破壊行為たると共に、また北清議定書の精神を蹂躪するものなり、我が方はこれを明確なる対日挑戦行動と認め、条約上の権限に基づき、今後自衛上必要と信ずる行動に出るある事を通告す。

二、これを未然に解決せんが為、左記各項の即時実行を要求す。

 イ、軍事委員会北京分会、憲兵第3団、国民党本部、政治訓練所、藍衣社等の一律撤去。

 ロ、黄杰の第2師、関麟徴の第25師等、中央直系諸軍の華北撤退。

 ハ、河北省政府主席于学忠、憲兵第3団長蒋孝先、藍衣社主任劉一飛等の罷免ないし処罰。

 ニ、排日侮日行為徹底取締りの確約 

 以上

というものです。

そして、これを北京の何応欽の所に持って行き、談判して呑ましたのが、梅津・何応欽協定です。


 その次に、中国軍の熱河侵犯があまりにも執拗なため、6月28日、土肥原少将は断木梁侵犯なんか絶対に出来ない様にと、新たに《京綏鉄道以北の察哈爾省内に非武装地帯を設定する》という協定を秦徳純に結ばせました。

これが、いわゆる土肥原・秦徳純協定です。


 中国は屈辱的な協定を耐えて飲みますが、それで大人しくしているわけではありません。
 次の手段として、幣制改革を打ち出しました。

 これは中国の通貨を英国の通貨にリンクさせ、英国の経済と一体化させて、日本の影響力を排除しようというものです。

これが成功し北支が経済的に国民政府のコントロール下に入れば、北支に交易の基礎を置く満州国は、重大な経済的脅威にさらされます。

 危機を感得した、関東軍と支那駐屯軍は、「北支を南京より経済的に分離するしかない」と考え分離工作を始めました。
 そこで11月25日、土肥原少将は殷汝耕を長官とする冀東防共自治政府を成立させたのです。

 また土肥原少将は、宋哲元に独立政権を樹立させようと、日夜腐心していましたが、南京行政院は、そうはさせじと先手を打って12月11日に冀察政務委員会設置法案を満場一致で可決し、その委員長に宋哲元を任命しました。

 (幣制改革を除く大部分 寺平忠輔著『盧溝橋事件』読売新聞社刊 昭和45年発行より引用)

 (幣制改革の部分は児島襄著『日中戦争』より引用)


 梅津・何応欽協定、土肥原・秦徳純協定、冀東防共自治政府設立等、これらの一連の行為を日本の華北侵略と言う人もいます。

が、そうせざるを得ない様に仕向けたのは中国です。

 別に日本は侵略したくてそうしたわけではありません。

 中国が執拗に満州を再侵略し、テロで北支の治安を乱し、意図的に日本が困るようなことを企むものだから日本が自衛策をとっただけです。

中国が最初から友好的な態度をとっていれば起こらなかった事です。


  つづく










●関連記事

【今日は何の日?】塘沽協定が締結される:1933年5月31日
蒋介石の国民党政権が満州事変の終結と満州国の成立を認めた
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遊就館展示修正に関する考え・岡崎久彦元駐タイ大使
【北支工作】と【西安事件】の真相と解説(日本の弁明)・後半の真相と解説(日本の弁明)
http://blogs.yahoo.co.jp/deliciousicecoffee/13329649.html

責任なし11 中国の満州侵犯と熱河作戦
Yahoo!掲示板でrekisisiranai さんが語った真実の歴史
http://blogs.yahoo.co.jp/deliciousicecoffee/26788294.html








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投稿者 :
rekisisiranai


日本の戦争責任


責任なし9 中国の逆恨みと反日激化


これは「責任なし8 満蒙独立運動 4」の続きです。


 満州事変が起こるや、中国は、自分達の悪逆非道・満蒙侵略を棚に上げ、日本を逆恨みして、日本が侵略していると罵り、外国に訴えました。まるで自分達のものが盗まれてるかの様にです。

 彼らが盗んだものを、真の所有者に取り返して上げた、行為を泥棒だと錯覚しているのです。
 自分達の悪に気づかない中国は、逆恨みの反日・排日を激化させます。

 長沙、南昌、北京、上海等その他の都市では全国的に反日市民大会が開かれ、寧波の大会では「対日宣戦、永久反日」が決議され、漢口、武漢を中心とする湖北救国会では次の様な「排日十大方針」が宣言されました。

一、日貨を買わず日貨を用いず

二、日貨を積まず

三、日本船に乗らず

四、日本人と往来せず

五、日本人に雇われず

六、日本人を雇わず

七、日本の銀行に預金せず

八、日本人に食料を供給せず

九、日本に留学せず

十、日本で商売せず

です。

 この十大方針は、各地に同調の輪を拡げ、日本人居留民に暴行を加える傾向も高まって来ました。

 そして、国民党中央常務委員会は、高等中学校以上の学校に「青年義勇軍」、初等中学校以下に「童子義勇軍」を組織させ、各学校の教職員、学生に「不買日貨」を宣誓させました。

 これら「義勇軍」には、このほか各自の胸に「団結奮闘雪恥救国」と墨書した白布をぬいつけ、毎朝の朝礼のさい「誓雪中国国恥」、「恢復中国領土」、…等のスローガンを高唱することが義務づけられます。

 これら国民党政府の煽る反日は、次第に激化し、遂には、政府の統制の利かない所まで行ってしまいました。日本に宣戦を布告しない政府を軟弱と非難し、暴動を起こすようになったのです。

 蒋介石の罷免を要求したり、政府要人に対してまでテロをするようになります。
 こういう状態ですから、日本人に対するテロや暴行は当然のように激化していきます。

 それは、上海でも例外ではありません。

次は、第一次上海事変についてです。











●関連記事

「支那の対日ボイコットは違法」
『リットン報告書』 第7章 日本の経済的利益及支那の「ボイコット」
http://blogs.yahoo.co.jp/deliciousicecoffee/7931625.html

幣原外相の対支宥和外交で図に乗った国民党
反日的教科書・無数の暴力行為(対日テロ)
第6章日本は侵略国か、それとも権利を侵害された国か(続)
『シナ大陸の真相1931〜1938』K・カール・カワカミ5
http://blogs.yahoo.co.jp/deliciousicecoffee/14404914.html

デフレ、スムート・ホーレイ関税、排日ボイコットなど、幣原協調外交への失望と幻滅
『世界政治と東亜』G・F・ハドソン著17
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男装の麗人
東洋のマタハリ
川島芳子




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投稿者 :
rekisisiranai


日本の戦争責任


責任なし8 満蒙独立運動4


これは「責任なし8 満蒙独立運動 3」の続きです。


一方、郭家店近くで混乱が生じました。張軍の近くには日本陸軍守備隊の兵舎がありました。

 (これは恐らく張軍がわざと、日本軍兵舎のそばに布陣したと思われます。第二次上海事変でも中国軍は英国租界のすぐ側に布陣して日本軍の流れ弾が外国租界に当たるようにしていましたから。こういうのは中国軍の伝統でしょう。第三者を巻き込んで相手を非難させるのは)。

 流れ弾が兵舎に飛び込んで来るので、稲生田守備隊長が部下を率いてパプチャプ軍陣地に行き、撤退を要請しました。そして、これを約束させた後で、張軍陣地に向かうとなんと張軍側は軍使に発砲してきたのです

 (これも済南事件と同じで軍使に平気で発砲して来る中国軍の伝統でしょう)。

 この為、稲生田は公主嶺の日本守備隊に応援を依頼しました。その間に、張軍軍事顧問の菊池大佐が来て休戦協定を結ばせました。

 日本軍としては満鉄に被害があっては困るので、パプチャプ軍に退いてもらう事にしました。その代わり、パプチャプ軍に武器を与えるという条件でですが。もっとも、このことは外務省には内密ですけど。

 パプチャプ軍は9月2日引き揚げました。ところが、張軍は陣地を構築してパプチャプ軍に攻撃を掛けたのです。 (これも、盧溝橋や、紀元前3世紀、劉邦が項羽に対してとったのと同じ停戦協定破りです。停戦協定をまじめに守って引き揚げる者を攻撃するのは中国の伝統です)。

 この時、日本軍の公主嶺守備隊の一中隊が応援に駆けつけ、パプチャプ軍は張軍を追い払いました。
 パプチャプ軍は、ようやく内蒙古にたどり着きますが、その入り口で張軍に攻撃され、パプチャプは戦死しました。

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 蒙古の独立運動は、中国の汚いやり方と、日本の中国に媚びた態度で潰されます。日本政府は、昔から中国に甘く、助けを求めて来るものを見殺しにしていたのです。 日本のこの態度は"瀋陽の領事館に駆け込んだ北朝鮮人を、中国の官憲が侵入して連行するのを許した"のと同じ態度でしょう。

 また公平とか内政不干渉の美名の下に、中国の蒙古侵略を許してしまうのも、現在、内政不干渉の名の下で、中国のチベット侵略を許しているのと同じ事でしょう。日本人の甘い性格は今も昔も全く変わっていません。

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 2回目の満蒙独立運動に夢破れた粛親王は2月に訪日を打診しますが、日本政府は断りました。日本政府は北京支持にまわり「日本の復辟援助は事実無根」と言ったのです。(これなども現在、中国の顔色を伺って李登輝氏の訪日を拒否するのと同じ態度です)

 大正6年3月、旅順の粛親王は軍再編成の命を出しました。旧パプチャプ軍は再びハルハ河畔を出発、6月初旬進撃に移りハイラルに入り、そこでコロンバイルの独立宣言を発表しました。

 驚いたロシアと中国は、蒙古軍参加の日本人退去を二瓶領事に要請してきます。そこでやむなく外務省と参謀本部は動き出し、最も効果的な方法として、旅順の粛親王の滞在に圧力を加える事にしました。

 その為、川島は妥協せざるを得なくなり、無念の涙を呑んでやめることになりました。(またも日本は中国にいい顔をして満蒙の独立運動を潰してしまいました)。日本人が離れると、ロシア・中国の連合軍は蒙古軍を総攻撃し、ここに蒙古の独立運動はついえました。

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 挙事に失敗した粛親王は大正11(1932)年2月旅順の邸宅で死去します。川島は旅順に駆けつけ葬儀に参列、粛親王の子供たちを引き取り、日本で教育を与えました。廉子と芳子は川島の養女となり、特に、芳子は男装の麗人、東洋のマタハリとなって活躍します。

 また、粛親王の第一王子は満州国宮内府侍従武官に、第七子は新京特別市長に、第14子はチチハル市長になりました。
 満州事変は、いわば満蒙独立運動の最後の総仕上げでもあったわけです。中国人に侵略された祖国を関東軍の手を借りて取り戻したのです。

1931年9月、柳条湖事件
   9月下旬、遼寧省、吉林省、黒龍江省、コロンバイル等は独立を宣言
   10月、満州各地の代表が揃って、天津に溥儀を訪ね出馬を懇請
   11月、溥儀、天津脱出
1932年 満州国建国、溥儀執政に就任

 関東軍は、川島らの満蒙独立運動を陰で応援していましたが、時の政府の中国への遠慮からことごとく潰されて来ました。
 今回は日本人の生存が脅かされた為、政府の意向を無視して、軍事行動に出て、ついでに満蒙独立運動もやったわけです。

 満州事変は、日本の自衛行動であると共に満蒙独立運動でもあったわけです。

 満州事変はこれで終わるのではなく、続きがありますが、その前に、中国の反日激化と第一次上海事変をとりあげます。









●関連記事

合法的独立国家「満州国」
満州事変は日本の警察行動
満州と支那は別物
自発的な独立運動
『アメリカの鏡・日本』ヘレン・ミアーズ著15
http://blogs.yahoo.co.jp/deliciousicecoffee/20361357.html

9月18日は満州事変勃発(柳条湖事件)記念日(2)
支那人「寧ろ日本の支配を」
無責任な国連決議
事変後の治安回復と発展
満満蒙独立運動、復辟運動、張作霖の独立宣言、満州事変、満州国建国の年表
http://blogs.yahoo.co.jp/deliciousicecoffee/25371089.html

責任なし7 満州事変の背景
Yahoo!掲示板でrekisisiranai さんが語った真実の歴史
http://blogs.yahoo.co.jp/deliciousicecoffee/26545300.html

責任なし8 満蒙独立運動1
Yahoo!掲示板でrekisisiranai さんが語った真実の歴史
http://blogs.yahoo.co.jp/deliciousicecoffee/26573808.html

責任なし8 満蒙独立運動2
Yahoo!掲示板でrekisisiranai さんが語った真実の歴史
http://blogs.yahoo.co.jp/deliciousicecoffee/26608321.html

責任なし8 満蒙独立運動3
Yahoo!掲示板でrekisisiranai さんが語った真実の歴史
http://blogs.yahoo.co.jp/deliciousicecoffee/26648393.html






(参考)

――――――
 日本は満州国の建設についてこう説明するのだ。
満州がかつて中国の一部だったことはない。
全く逆で、中国のほうが満州帝国の一部だった。
満州人が北京に在って中国を統治している限りは、2つの地域の間に関係はあるだろう。


しかし、万里の長城が証明しているように、満州王朝の統治時代でも、満州の各省は中国の境外の地と考えられていたのだ。

 1912年の革命で満州王朝は倒れた。
これによって中国と満州の法的関係は切れたにもかかわらず、西洋列強は満州は中国の一部であるという擬制(フィクション)を続けている、と日本はいう。

・・・

 日本の説明では、満州の独立運動は長い時間をかけてはぐくまれ、現地住民が自発的に張の悪政からの独立を宣言できるところまで、熟成していたのだ。

P292-293
『アメリカの鏡・日本』ヘレン・ミアーズ著(1948年)
――――――






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