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原爆投下 「日本に懲罰」が目的 米の歴史学者が論文を発表
1994/12/24, 産経新聞

 【ニューヨーク22日=共同】米国の有力外交専門誌「フォーリン・アフェアーズ」は来年一月九日発行の最新号で、太平洋戦争末期の広島、長崎への原爆投下は日本の降伏を早めたり、米軍兵士の犠牲を回避するのが目的で決断されたわけではない、との内容の米歴史学者の論文を掲載する。



 一九四五年八月の原爆投下をめぐって米国では、戦争終結を早め、日本本土上陸作戦を無用にすることで米軍兵士五十万人の生命を救うために決断された、などと正当化する議論が有力だが、論文はこうした米国の一般的な見方の修正を迫っている。

 執筆したのはカリフォルニア州スタンフォード大学のバートン・バーンスタイン教授。当時の政策担当者のメモや日記、また秘密解除された公文書などの資料に基づいて当時の政策判断を検証している。

 それによると、戦争末期の四五年、日本が降伏しなければ米軍は十一月一日に七十六万七千人の部隊による九州上陸作戦の実行を計画。その際には最大二万五千人の米側戦死者を予測していた。続いて翌四六年三月一日に計画していた東京正面の上陸作戦では一万五千人から二万一千人の戦死者を予測していた。

 バーンスタイン教授は、上陸作戦による五十万人の戦死者予測などは存在せず、当時の米国指導者はより大きな犠牲を避ける目的で原爆投下を決断したわけではない、と主張。また最大で計四万六千人と予測された米軍の戦死者発生を回避するためでもなかったとして、日本に懲罰を加えることが原爆投下の本来の目的の一つだった、と説明している。


 また、原爆開発のマンハッタン秘密計画は約二十億ドルの資金を投じて推進されたため、ルーズベルト、トルーマン両大統領は政治的にもその成果を示す必要があり、民間人に大量の犠牲者が出ることが分かっていながら原爆投下の決断を下した、としている。

 さらに、当時の米政府当局者はだれも原爆一発ないし二発を投下すれば戦争終結が早まるとは期待しておらず、むしろソ連の参戦や対日降伏条件の緩和が日本の降伏を早めることになるとみなされていたことを紹介している。


Ω Ω Ω Ω Ω Ω




原爆投下、市民殺りくが目的
1983年8月6日、朝日新聞

米学者、極秘文書で確認

原子爆弾が広島に投下されてから6日で38年。これについて米最高首脳はこれまで「軍事目的に限定して使った」(トルーマン大統領回顧録)としてきたが、実は「日本への原爆投下の目的は一般市民を大量殺りくすることにあった」とスタンフォード大の米歴史学者が極秘文書で確認、近く出版する本で発表する。また広島、長崎に「米人捕虜がいる」と英国情報部などが警告したのにもかかわらず、米政府はこれを無視したという。
(パロアルト<米カリフォルニア州>菊地特派員)


スタンフォード大歴史学部のバートン・バーンスタイン教授は、原子爆弾が日本に投下されたとき、まだ小学生で、辺りの人々が「これで戦争が終わった」と喜んでいるのを記憶している。しかし、スタンフォード大で歴史学を専攻するうち、なぜ人々が原爆投下を単純に受け取っているか、について疑問を持ったという。あのころドイツが降伏し、日本だけが世界を相手に戦っていたのになぜ原爆を使わなければいけなかったか、についてである。この疑問を解明するため米軍事外交文書を研究するうち、“歴史の偽り”を発見したという。

同教授が入手した極秘文書によると、1945年7月31日、原爆投下についてスチムソン米陸軍長官を囲んで最高会議が開かれた。その際ノーベル賞学者のE・ロレンス博士(サイクロトロンの発明者)は「科学者としては原爆を直接日本に投下したくない。まず米国の砂漠などで世界の代表者を呼び、公開の場でその威力を見せるべきだ」と主張した。しかし、他のメンバーたちは「もし原爆が不発だったら世界の笑いものになる。ともかく日本へ投下しよう」と主張して決定を見たという。

投下地点の選定については、「軍事施設のみという科学者の主張に米軍側が強く反対し、結局、民間人を大量に殺りくすることが決定された」としている。

人類初の原爆は“効果半径”約1.8キロ。同教授の入手した米空軍史(部外秘)によれば、「その火の玉を広島の住宅密集地、商業地区に投下せよ」との命令が出ている。投下時間は午前8時15分。「これは工場労働者が仕事を始め、市民の子どもたちが戸外に遊びに出る時間帯。米軍はまさにそこを狙ったのだ」と同教授。

しかしトルーマン大統領はその回顧録で「原爆は非戦闘員の婦人、子どもを避けて、軍事基地だけに限定して使った」と書いている。

この広島原爆で護送中だった米人捕虜23人が死亡した。この事実は1945年10月9日、国際赤十字が確認したが、米当局は公表を避けているという。同教授によれば、それは、原爆投下の直前、米国は英情報部から「広島に米人捕虜がいる」と通告を受けていたがこれを無視したからだという。

米戦略空軍司令部の極秘電報(45年7月30日付)によると同司令部は長崎には米人捕虜収容所があることを確認、ワシントンに打電した。しかし投下は強行された。結局、長崎の原爆は目標を少しずれたため、約1400人の米人捕虜は助かった。

同教授はトルーマン大統領の内政、外交政策について研究を続けるうちに、あるときふと、「広島で米兵捕虜も爆死しているのではないか?」という疑問を抱き、政府や軍に当たったが答えは得られなかったという。

しかしその後、ワシントンの国立公文書館で「極秘」扱いを解かれた兵士らの「軍歴書」の中に、「ヒロシマで戦死」との記述を見つけ、米兵捕虜被爆死の事実を確認した。

とはいえ、軍歴書は、乗機を撃墜され捕虜になって広島で死んだ、としているだけで、それが原爆によるものであることにはまったく触れていない。その遺族らも、被爆死どころか広島で死んだことすらも知らされておらず、日本上空で撃墜され戦死、あるいは戦傷死したものと信じていた。

政府が秘密にしていた理由について同教授は「米国民の大半が支持した原爆投下で米兵が殺されていたとなれば、世論は批判にかわり、第2次大戦直後の冷戦激化の中での核戦略に重要な影響をもたらす、と懸念したからではないか」と語り、「一般市民はもちろん、味方の軍人まで犠牲にしても平気な“戦争の狂気”を告発したい」といっている。

バーンスタイン教授はこれらの新発見を基に近く「核軍縮への道」(仮題)という著書を出版するが、「米外交文書の公開は軍事機密に関しては特に厳しい。1978年に資料要求したものが最近やっと数点入手できたほどだ」と語っている。

―――――――


(注)原爆の投下目標として検討された都市は東京など16都市があり、最後に広島、小倉、長崎の3目標に絞られた。8月9日の第1目標は小倉だったが、天候その他の条件が悪いときは長崎に投下すると決まっていた。

原爆の効果を視るため、出来るだけ被害を受けていない都市を選んだと聞いたことがあります。
被害の少ない都市といえば、京都も原爆投下の目標に入っていました。









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転載元転載元: 正しい歴史認識、国益重視の外交、核武装の実現

世界一放射線量が高い場所で暮らす老婆たち 避難者よりも長生きする


1986年に起きたチェルノブイリ原子力発電所事故では、約34万人が強制避難を命ぜられました。しかし今もなお、デッドゾーンと呼ばれる地域に住み続けている人々が200人もいます。彼・彼女らは一体何を思って、避難せずにそこに住み続けるのでしょうか? 今や70〜80代に近い彼女らは頑なに移住を拒みます。ほぼ全員が女性なのは、 放射線以外でもアルコールの大量摂取や喫煙などが原因で、男性の寿命が短いからです。そして、ある説によれば、移住した人に比べてチェルノブイリに残った人々のほうが長生きしているという調査結果も出ているのだとか。彼女らが語る「郷土愛」とはどのようなものなのでしょうか
ホーリー・モリス氏 3年前、私はチェルノブイリ原子力発電所の4号炉から90メートルほどの場所にいました。放射線量を測るガイガー・カウンターは狂ったように鳴り響き、原子炉に近づくと、更に音が大きくなり、耳をつんざくようになるほど、私もあわてたものでした。
私は史上最悪の原発事故の25年後を取材するためにそこにいました。私の表情からもわかるように、乗り気ではありませんでした。
というのも1986年に起きた原子力火災は11日間燃え続け、広島に投下された原爆の400倍もの放射線を放出したのです。「石棺」が4号炉を覆っていますが、27年前にあわてて建てたため、今や亀裂と錆びだらけで放射能が漏れています。
私は撮影をしていました。ただ早く仕事を終えてそこを立ち去りたい一心でした。ところがそんな時、遠方に目をやると農家から煙が立ち上っているのが見えました。こんな所に誰か住んでいるのでしょうか?
チェルノブイリの土壌も水も空気も、地球上で最も汚染されているのです。それに原子炉周辺は立ち入り禁止区域、デッド・ゾーンで、国境警備員に囲まれた、まるで核の警察国家なのです。

正式な研究ではありませんが、彼女たちが故郷に戻り、過去27年間も世界一放射線量が高い場所に住んできたのに、移住を受け入れた人々に比べて長生きなのです。ある推計では最高で10年も長生きです。なぜそんなことが起こったのでしょうか? こう考えることができます。彼女たちの言葉の端々に見られる、先祖代々の土地とのつながりが寿命に影響を与えているかも知れません。世界にたったひとつしかない故郷の力が、苦しみを和らげるようです。故郷とコミュニティの力には、放射線ですら敵わないのです。放射線とは関係なく、彼女たちは人生の終盤にあります。10年後にはゾーン内の住民はいなくなり、放射線に満ちた野生に戻って、たくさんの動物にあふれ、時折大胆ながらも面食らった科学者たちが訪れるでしょう


知り合って3年が経ち、バブーシュカたちの人数は半分になりましたが、彼女たちの精神と存在は、パワフルで新しい考えと取り組み方を教えてくれます。リスクは変化すること、故郷とのつながりが変化を促すこと、そして活力の源は意志と自己決定にあるということです。ありがとうございました。


イメージ



地球上の生物は下から自然放射能、上から宇宙線
そして太陽という名の巨大原子炉の下で生きてきた
放射線が細胞を破壊しても再生する
その再生能力が追いつかないほどの線量を浴びたらアウトだが
それは火が体を温めてくれるが、近付き過ぎると焼死するのと同じだ


適度な放射線があるから人類はそれに適応できるような体に進化する。
全くない環境で育てば適応力のないものになってしまうんでないの。


俺思うんだけど、チェルノブイリで適度に生活するだけで『自然なガン治療』を受けていることと同じ状況なのではないだろうか(^^)

少なくともそう考えるほうがポジテイブだな。


うちのじいちゃんは93歳の死ぬ直前までヘビースモーカーでした(笑)
でもね、肺がんとは無縁でしたよ。

転載元転載元: 未来を見つめて 夢の彼方へ!

https://youtu.be/tmvqw0JtIR0

インディアナポリス号の話がすでに映画になっていたんですね。
観たんですけどなかなか良かったですよ。
ネット上ではあまり話題にもなっていないようです。
みんなオバカさんねえ。

巡洋艦インディアナポリス号は極秘任務をおってテニアン諸島へむかいます。
日本に落とす2発の原爆を輸送しています。
イメージ 2
おそるべしタミヤ模型、セットで売ってますね。


行きの道中で日本海軍の潜水艦伊号58に見つかります。
この折、「回天」が出撃しますが失敗してしまいます。
命を懸けた一撃が無駄に、・・・・

もし撃沈していたら歴史の歯車は変わっていたかも。
イメージ 1


そしてテニアン諸島で積み荷をおろした後
同じ伊号58にみつかり
今度は通常の魚雷6発によりインディアナポリスは撃沈されます。

乗員の水兵約1100人は海に投げ出され約700人が
サメに食われてしまいます。
極秘任務であるがゆえアメリカ本国からの救助も来ません。
因果応報とはこのことです。
ただサメに食われた水兵にはなんの罪もないのですが・・・・
もちろん原爆によって命を失った日本の非戦闘員の一般国民はなおさら罪はありません。

戦争は終結されますがインディアナポリスの艦長マクベイは
全責任をアメリカからおしつけられ多くの遺族から罵られます。

そして軍事裁判がはじまりますが
弁護人にあらわれたのが伊号58の橋本艦長です。

マクベイは無罪になりますが
アメリカの国民感情は彼を許しませんでした。

ラスト近くマクベイと橋本が裁判所の中庭で短く言葉をかわします。

橋本「私の国なら貴方が裁判に召還されることはない」

「私の判断で700人が犠牲になったことを後悔している」

「しかし貴方達が帰りではなく行く道中で撃沈できなかったことも後悔している」

というような会話

マクベイは1967年にピストル自殺する。

ここにはアメリカ万歳もなく
回天、原爆、海難事故
という3つの事柄が絡み合う壮絶なドラマでした。
本来、娯楽映画ですが優秀な映画でした。






大和心を語るねずさんのひとりごとより
一部抜粋。



以前、「回天」のことも書きましたが、「回天」については、昭和20年8月15日の終戦の日、米政府は「回天特攻中止」を特別に日本側に申し入れています。
それだけ被害が甚大であると恐れられていたのです

南方戦線の島々での玉砕戦でも、いまわれわれが入手している各種数字は、島への上陸作戦の初日の戦死者は、上陸作戦の戦死者として数えずに、行方不明者としてカウントする。

戦闘記録フイルムに数百の十字架が建っていても、戦死者は、百名近くと発表する。
島での戦没者は、戦後すぐに、アメリカに移送する。
実際の被害が見えないようにする。

一方で原爆投下については、狂気となっていた日本軍部に対して、いちにちもはやく戦争を終わらせるために原爆を投下したと、きれいごとで誤魔化そうとしていました。







http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-2347.html
ねずさんのブログより一部抜粋です。

8月9日はソ連軍が日ソ不可侵条約を一方的に破棄して満州、北鮮、樺太、アリューシャンへの侵攻を開始した日でもあります。
今日は、そのなかで長崎への原爆投下について書いてみたいと思います。

長崎に原爆が投下されたのは、昭和20(1945)年8月9日、午前11時2分のことです。
当時の長崎市の人口は24万人でした。そのうちの14万9千人の長崎市民が、一瞬のうちに燃やされてしまいました。

この長崎への原爆投下についてですが、あまり知られていないことに、この日の当初の原爆の投下目標地点が福岡県小倉市(現:北九州市)であったことがあります。

この原爆投下のために米軍が飛ばせた飛行機(B−29)は6機でした。
別々に飛び立ったB−29は、硫黄島を経由して、屋久島上空で合流する予定でした。
ところがエンジンにトラブルが発生し、そのうちの2機だけが午前9時44分に、目標地点である小倉市に到達したのです。
ところがその2機のB−29は、小倉への原爆投下を断念して、目標地点を、第二目標の長崎市に切り替えてしまいました。

なぜでしょうか。
ここに歴史を学ぶための重要なポイントがあります。

飛来したB−29に対し、小倉造兵廠にいた陸軍の守備隊が、果敢に高射砲で応戦したのです。
そのあまりに激しい応射に、B−29は爆弾投下目標の目視ができなくなってしまったのです。
それでもB-29は、45分かけて目標地点補足を3度やり直しています。
けれど、3度とも失敗してしまう。

そこへ陸軍の芦屋飛行場から飛行第59戦隊の五式戦闘機が、同時に海軍の築城基地から第203航空隊の零式艦上戦闘機10機が緊急発進してきました。
このためB−29は、小倉への原爆投下を断念して、目標地点を第二目標の長崎市に切り替えざるを得なくなってしまったのです。

なぜこのことが重要なポイントなのかといいますと、その理由は3つあります。

ひとつは、当初の目標地点が小倉市であったことです。
小倉市の当時の人口は30万人です。
その小倉は、長崎以上に平野部が広がっています。つまり遮蔽物がありません。
そこに原爆が投下されると、熱線による被災は、北九州の戸畑、若松、八幡、門司全域、および関門海峡を越えて対岸にある下関市までに被災が広がっていたはずなのです。
ということは、被害規模は推定で瞬間の死者だけで30万人以上となります。
その後の被爆による死者も10万人以上に至ったであろうといわれています。ぞっとします。

ふたつめは、日本側の抵抗です。
北九州の陸軍小倉守備隊が、猛然と必死の高射砲での応戦をしたのです。
このためにB-29は、原爆投下のために必要な高さに高度を下げられない。また猛烈な弾幕とそによる煙幕で目標地点を目視しようにも目標物が見えなくなりました。

基本的に日本の軍隊は、物資が不足する中でめくら撃ちのような速射はほとんどの場合しません。
それが弾幕と煙幕で、上空からの目標地点捕捉ができなくなったほどの応射をしたというのは、当時の陸軍が、どれだけ危機感を持っていたのかがわかります。
わずか3日前に広島に原爆を落されていたばかりなのです。

さらにそこへ陸海軍の戦闘機が飛来しました。
おかげでB-29は、小倉を去り、小倉から下関一帯は被爆被害に遭わずに済みました。

軍事的脅威に対して「抵抗力を持つ」ということが、いかに国を護り命を守るか。
このことは私たちは、原爆という実際の被害を受けた国の国民として、しっかりと認識すべきことだし、学校でも子供たちにしっかりと教えるべきことと思います。

みっつめは、情報戦争です。
あとに書きますが、長崎ではたいへん不幸な事態が重なり、十分な抵抗ができないまま原爆被害を受けてしまっています。
長崎への原爆投下について、戦後宣伝されたデタラメの中に、
「長崎への原爆投下は、空襲警報が鳴ったけれど、なぜか解除された。そこに原爆が落ちた」
「大本営は、B29の無線をキャッチしていたけれど、これを放置していた」というものがあります。まったくの妄言です。

どちらも、日本の無能、もしくは大本営の無能として形容され、宣伝されたものですが、残念なことにいまだに、それを真実と思い込んでいる人が多数います。
けれども、経過をみれば、その宣伝が、事実と事実を巧妙に繋ぎあわせた妄言にすぎないことが、はっきりとわかるのです。

小倉上空を離脱したB−29が長崎上空に達したのは、小倉上空で原爆投下をしようとした約1時間後の午前10時50分のことです。
この日の長崎上空は、積雲に覆われていました。
積雲は分厚い夏の雲です。
これがあると上空を飛ぶ飛行機の姿を地上から見ることができません。

つまりB−29は地上からは発見されないまま、長崎上空に達したのです。
発見されていませんから、当然、地上からの反撃もありません。
ところが同じことはB-29の側にもいえたのです。
B−29は、第二目標の長崎上空に達したことは機内での計算によってわかっているものの、原爆投下の目標地点の目視ができなかったのです。
つまり、そのままでは、原爆の投下ができない。

ところがそこに不思議なことが起こりました。
空を分厚く覆っていた積雲に、切れ目が生じ、そこから地上の様子が見えたのです。
眼下に長崎の街並が見えました。そこでB−29は「手動操作で」原爆を投下しました。

投下したのが午前11時1分です。
放物線を描いて落下した原爆は約1分後の午前11時2分に炸裂しました。
炸裂した場所は、長崎市街中心部から3kmそれたそれていました。
雲の切れ間からの手動操作による投下であったためです。

そして原爆は、長崎市松浦上地区中央にあったテニスコート上空、高度503mで炸裂しました。
長崎に投下された原爆の威力はTNT火薬換算で22,000トン(22キロトン)です。
これは、広島に投下されたウラン235型原爆の1.5倍の威力のある爆弾でした。

この炸裂によって、長崎市の浦上地区はほぼ完全に瓦礫の平原となり、一瞬で町に住む14万9千人がお亡くなりになりました。
広島よりも威力の大きな爆弾で、広島(人口20万人)よりも死傷者が少なかったのは、爆心地が市街中心部から多少それたことと、長崎市の周囲をとりまく山々が遮蔽物となったことによります。

それでも約15万にものぼる死者が出ました。
では、長崎では、なぜ空襲警報や応射が間に合わなかったのでしょうか。

硫黄島を出たB29は、午前9時すぎに大分県姫島方面から日本領空に飛来しました。
わずか3日前には、広島に原爆が落されたばかりでしたから、長崎でもB−29の飛来に、午前9時には警戒警報を鳴らして市民への警戒を呼びかけていたのです。

ところがそのB−29は、9時44分に小倉に現れました。
そのため長崎では午前10時過ぎには、警戒警報の解除を行っていたのです。
そのためいったんは防空壕に避難した長崎市民も、日常の生活に戻っていました。

ところが小倉での爆弾投下に失敗したB−29は、次の目標地点である長崎に進路を変えたのです。
この日、北九州から長崎までの空は、ぶ厚い積雲が覆っていました。
ご存知の通り、積雲は真夏の雲です。たいへん厚みがあります。
高高度を飛行するB29は積雲の上を飛んでいます。
ですから地上からその姿は見えません。
Bー29の側も、ぶ厚い雲で地上の目視ができません。

そこで乗員のひとりが航法士に、「現在地はどの辺りか」と尋ねました。
このとき、答えようとした航法士が、誤って内線用のインタホンのスイッチと無線スイッチを取り違えて返事をしてしまったのです。
このため、無線通信が外に洩れました。
よほど慌てたのでしょう。これに慌てた操縦士が運転を誤り、あやうくもう一機のB−29と空中で衝突しそうになっています。

その無線を、鹿児島沖で、作戦からはぐれて迷子になって飛行していた別なB-29がキャッチしました。
そのBー29は、突然はいってきた現在地を知らせる僚機の無線に、「チャック、いまどこにいる?」と音声無線を返しました。
これが午前10時50分頃の出来事です。

この無線通信を、日本側も傍受しました。
ほんの一瞬の無線漏洩ですが、その一瞬のやり取りで、日本側通信傍受隊は、ひとつが鹿児島沖からのもの、もうひとつが長崎方面と場所を特定しました。
そしてすぐに長崎に警戒を呼びかけたのです。

知らせを受けた長崎市は、すぐに空襲警報を鳴り響かせました。
これを聞いたら、市民はなにはさておいても防空壕へ避難することになっています。
いつもなら、これだけの対応なのですが、広島の原爆投下で甚大な被害を受けたばかりのできごとです。
軍と市は一緒になって、空襲警報だけでなく、ラジオの臨時ニュースでも長崎市民への緊急避難を呼びかけました。

ラジオからは、「長崎市民は全員退避せよ。繰り返す。長崎市民は全員退避せよ」という声が繰り返し流されたのです。そしてその臨時ニュースの声が「総退避・・・・」と言ったとき、原爆が炸裂し、ラジオの音声は無変調になりました。
それが午前11時2分の出来事です。

中略

長崎の原爆投下までの空襲警報の流れや、当時の小倉市の陸軍基地や陸海の航空隊の奮戦。
そしてそれらを嘘とデタラメにすり替えていた戦後左翼の策謀。

私達は、そこから何を学ぶことができるのでしょうか。






以下 ウィキより

この時地上では広島への原爆投下の情報を聞いた八幡製鉄所の従業員が

少数機編隊で敵機が北上している報を聞き、

新型爆弾を警戒して

「コールタールを燃やして煙幕を張った」

と証言している[2]。

その後、別ルートで爆撃航程を少し短縮して繰り返すものの再び失敗、再度3度目となる爆撃航程を行うがこれも失敗。この間およそ45分間が経過した。
この小倉上空での3回もの爆撃航程失敗のため残燃料に余裕がなくなり、その上ボックスカーは燃料系統に異常が発生したので予備燃料に切り替えた。その間に天候が悪化、日本軍高射砲からの対空攻撃が激しくなり[注釈 9]、また、陸軍芦屋飛行場から飛行第59戦隊の五式戦闘機、海軍築城基地から第203航空隊の零式艦上戦闘機10機が緊急発進してきたことも確認されたので、目標を小倉市から第二目標である長崎県長崎市に変更し、午前10時30分頃、小倉市上空を離脱した。 


最初から落とすつもりだった原爆
相手が日本人だから大量虐殺

【入門・日米戦争どっちが悪い(7)】

イメージ

 戦争が始まると、米国内では12万人以上の日系人が全財産を没収されて強制連行され、鉄条網が張り巡らされた収容所に入れられました(日系人強制収容)。収容所ができるまでの間、臭気が漂う厩舎に入れられた人もいました。7割が米国生まれの2世で米国籍を持っており、残り3割の1世も永住権を持ち20〜40年も米国で暮らしていました。なんと、米大統領フランクリン・ルーズベルトは開戦5年前の1936年にハワイの日系人を強制収容する計画を検討していたことが明らかになっています。
 インディアン虐殺の延長
 太平洋の戦場では米兵による残虐行為が行われました。初の大西洋単独無着陸飛行に成功した米国人チャールズ・リンドバーグは開戦後、民間人技術顧問として南太平洋の前線に派遣され、そのときの米兵の振る舞いを著書『リンドバーグ第二次大戦日記』に書きました。
 「わが軍の将兵は日本軍の捕虜や投降者を射殺することしか念頭にない。日本人を動物以下に取り扱い、それらの行為が大方から大目に見られているのである。われわれは文明のために戦っているのだと主張されている。ところが南太平洋における戦争をこの目で見れば見るほど、われわれには文明人を主張せねばならぬ理由がいよいよ無くなるように思う」とした上で、米兵が日本兵の遺体から金歯を盗んだり、耳や鼻、さらには頭蓋骨を「お土産」として持ち帰った事実を紹介しています。
 日本兵の遺体の一部を持ち帰る行為は広く行われていて、米国の雑誌「ライフ」の1944年5月22日号には、若い米国人女性が前線のボーイフレンドから送られてきた日本兵の頭蓋骨をうっとり見つめながら礼状を書いている写真が掲載されています。
 ジョン・ダワーという米国の反日的な歴史学者でさえ、こうした実態を紹介した上で「もしも歯や耳や頭皮がドイツやイタリアの兵士から収集され、それが英米国内に報道されたならば、騒然たる状況を引き起こしたに違いない」と指摘しています。
 ドイツ人やイタリア人は同じ白人であり、人種的蔑視の対象ではありませんでした。ナチスの政治体制とドイツ人は分けて考えられていました。しかし日本人については国全体を人間ではない野蛮な存在とみなしていたのです。
 ルーズベルトが「日本人は頭蓋骨の発達が白人より2000年遅れているから邪悪なのだ」と大真面目に信じていたという話を連載の5回目で紹介しましたが、海軍提督ウィリアム・ハルゼーは「日本人は雌猿どもと、慈悲深い皇帝によって中国から追放された極悪の罪人たちとの交尾による産物であった」という「ことわざ」を信じていました。部下に対して「下等な猿ども」をもっと殺して「猿肉」をたくさん作れと督励しました。
 「良いジャップは死んだジャップ」とも公言しました。これは米国がインディアンを虐殺していたころの軍人フィリップ・シェリダンの有名な暴言「良いインディアンとは、死んだインディアンのことだ」をもじっています。米国人は対日開戦の半世紀前の1890年までインディアンの虐殺を行っていましたから、太平洋戦線の兵士たちは父や祖父から虐殺の武勇伝を聞かされていたのです。彼らにとって太平洋の島々は「開拓」すべき「フロンティア」であり、日本人はインディアンと同様、絶滅の対象だったのです。
 黙殺させたポツダム宣言
 米国による残虐行為の最たるものが東京大空襲広島、長崎への原爆投下など非戦闘員の大量虐殺です。
 米国は戦争が始まるとユタ州の砂漠に東京・下町の街並みを再現する日本家屋群を作り、ちゃぶ台の上にはしと茶碗まで置いて、焼夷弾の効果を確かめる実験を行いました。そうして完成したのがM69という、わが国を焼き尽くすための新型焼夷弾でした。江戸時代の大火が春に集中していたことを調べ上げ、1945(昭和20)年3月10日を東京大空襲決行の日に選びました。
 東京大空襲の約1カ月後の4月12日、わが国を戦争に追い込んだ米大統領ルーズベルトが死去し、後任に副大統領のハリー・トルーマンが就任しました。このトルーマンが8月6日に広島に、9日に長崎に原爆を投下した大統領になります。
 わが国の一部には「日本が侵略戦争を行い、ポツダム宣言を黙殺したから原爆を落とされた」という原爆容認論があります。広島の原爆死没者慰霊碑には「過ちは繰返しませぬから」と刻まれ、修学旅行でやってきた児童・生徒が「自分たちの祖先が悪かったから原爆を落とされたんだ」と反省しています。
 米国民の多くは「原爆投下によって終戦を早め、本土決戦で犠牲になるはずの100万人の米兵の命が救われた」という根拠のない「原爆神話」「早期終戦・人命救済説」を信じています。2007年には核不拡散問題担当特使のロバート・ジョゼフが「文字通り何百万もの日本人の命がさらに犠牲になるかもしれなかった戦争を終わらせたということに、ほとんどの歴史家は同意すると思う」と、米兵だけではなく日本人のためだったと恩着せがましく語りました。
 わが国の原爆容認論、米国の原爆正当化論は、どちらもとんでもない話です。ルーズベルトは真珠湾攻撃2カ月前の1941年10月に原爆の開発を承認していました。ポツダム宣言が発表されたのは1945年7月26日ですが、トルーマンはその前日の25日に「広島、小倉、新潟、長崎のいずれかの都市に8月3日ごろ以降の目視爆撃可能な天候の日に特殊爆弾を投下する。追加分も準備が整い次第、前記目標に投下せよ」と命令していたのです。
 トルーマンはこの日の日記に「ジャップに対し、降伏し、命を無駄にしないよう警告の宣言を発するつもりだ。彼らが降伏しないことは分かっている」と書きました。ポツダム宣言とは関係なく原爆を落とすつもりだったのです。
 日記には「われわれは世界の歴史で最も恐ろしい爆弾を発見した」とした上で「ノアの箱船の後のユーフラテス渓谷時代に予言された火による破壊とは、このことかもしれない」との記述があります。これは、旧約聖書の「創世記」に登場する都市「ソドムとゴモラ」を指しているとみられます。
 ソドムとゴモラは同性愛などの退廃が神の怒りをかい、天からの激しい火によって滅ぼされたとされています。トルーマンは原爆投下を天罰と考えていたのでしょう。
 トルーマンは8月の2発に続いて、9、10、11月に3発ずつ、必要なら12月にも7発と、最大18発の原爆を投下するという軍部の計画を承認していました(1995年7月16日付ワシントン・ポストの報道)。
 現代史研究家の鳥居民氏は、ポツダム宣言はわが国が「黙殺」するように作られていたと論じました。ポツダム宣言の草案には、共同署名国としてソ連が書かれていましたが、トルーマンと原爆投下を強硬に主張する国務長官ジェームズ・バーンズはそれを削り、中国国民政府に差し替えました。わが国がソ連に和平の仲介を依頼していることを知っていたため、ソ連への期待を持ち続けさせようとたくらんだのです。
 草案には天皇の地位保全(国体護持)を認める条項もありましたが、それも削除しました。国体護持こそがわが国がこだわっていた降伏条件だったからです。
 そして、最後通告の公式文書だと思わせない形式にし、ホワイトハウスや国務省からではなく宣伝機関の戦時情報局から発表しました。
 広島と長崎に原爆を落とすまでわが国を降伏させないように、ポツダム宣言はできていたのです。米国は開戦前にわが国の戦争回避の努力を知りながら時間稼ぎをして追い込みましたが、戦争が終わるときも和平意図を知りながら引き延ばして原爆を落としたのです。
 もしドイツの降伏が遅くても、原爆はドイツに対して使われることはなかったでしょう。日本人に対する人種偏見があったからこそ恐るべき人体実験が行われたのです。
 「日本人は獣として扱う」
 トルーマンは広島に原爆が投下されたとき、ポツダム会談を終えて巡洋艦オーガスタで帰国する途中でした。将校から「原爆投下成功」のメモを見せられると飛び上がって喜び、「歴史上、最も大きな出来事だ」と言いました。
 トルーマンはルーズベルトに負けず劣らずの人種差別主義者でした。27歳だった1911年、後に妻になるベスに宛てた手紙にこう書きました。
 「叔父のウィルが言うには、神は砂で白人を作り、泥でニガー(黒人の蔑称)を作り、残ったものを投げたら、それが落ちて中国人になったそうです。叔父は中国人とジャップが嫌いです。私も嫌いです。たぶん人種的偏見でしょう。しかし私は、ニガーはアフリカに、黄色人種はアジアに、白人はヨーロッパと米国にいるべきだと強く信じています」
 原爆投下を受けて、全米キリスト教会連邦協議会のサミュエル・カバート事務総長はトルーマンに「多くのキリスト教徒が動揺している。それが無差別破壊だからだ」と電報を送りましたが、トルーマンはこう返信しました。「獣を相手にするとき、あなたはそれを獣として扱わなければならない。大変残念だが、それでも真実だ」
 戦後も「後悔していない」「全く心が痛まない」と繰り返し語りました。1958年のCBSの番組で、道義上の問題があるので決定は難しかったのではないかと問われると、「とんでもない。こんな調子で決めたよ」と、ボーイを呼ぶように指をパチンと鳴らしました。

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