樺太 真岡

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上:ソ連による満州侵略
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64年前の8月9日、ソ連は日ソ中立不可侵条約を踏みにじって満州や北方領土などに攻め込み、日本侵略を開始した。

ソ連は日本から日米の終戦交渉を依頼されていたにもかかわらず、日ソ中立不可侵条約を一方的に破棄し、原爆によって虫の息ほどになった日本に対し、宣戦を布告した。



そして、ソ連軍は、その頃手薄になっていた満州や樺太に上陸し、略奪・強姦・殺戮など悪逆・暴虐の限りを尽くした。

更に、ソ連は、100万人以上の日本人を拉致し、シベリアに強制連行し、強制労働をさせた所謂『シベリア抑留』で50万人以上を大虐殺した。



「長崎原爆の日」は学校やマスコミで毎年大きく取り上げるが、「ソ連による侵略の日」は殆ど無視されている。

満州残留孤児も、北方領土問題も、「8・9ソ連侵攻」から始まっていることを日本人は忘れてはならない。



――――――
[読者手記 53編] 文藝春秋・特別号 '83・9掲載

 昭和20年8月20日頃であったろうと思う。・・・(中略)・・・ぶきみという程静かな日が続いていたので、新京の街で何が起こっていたのか解らなかった。
 そんな日病院の玄関で大声で騒ぐ声にびっくりして、私は板でくくりつけた足をひきずりながら玄関に出て見て驚いた。12、3の少女から20ぐらいの娘が10名程タンカに乗せられて運ばれていた。それは、まともに上から見ることの出来る姿ではなかった。その全員が裸で、まだ恥毛もそろわない幼い子供の恥部は紫に腫れ上がって、その原形はなかった。大腿部は血がいっぱいついている。顔をゆがめつつ声を出しているようだが、聞き取れない。
 次の女性はモンペだけをはぎとられて下(しも)の部分は前者と同じだが、下腹部を刺されて腸が切口から血と一緒にはみ出していた。次の少女は乳房を切られて、片眼を開けたままであったから死んでいるのかも知れない。次もその次も、ほとんど同じ姿である。
「ああ女とはこんな姿でいじめられるのか・・・」。次々に病室に運ばれて行く少女を眼のあたりに見て、その非情なソ連兵の動物的行動に憤りを感じると同時に、道徳も、教養も平和な中にのみあるのであって一つ歯車が狂ってしまったら、そんなものは何の役にもたたないのだ。
・・・(中略)・・・1週間私はこの病院にいて毎日毎日この光景を見て、その無残、残酷さに敗戦のみじめさを知った。
 銃でうたれて死ぬのは苦痛が一瞬であるが、自分の体重の3倍以上もある毛むくじゃら男数名になぶられた少女や娘等はどんな苦しみであったろうか。
 ・・・(中略)・・・また女医さんに聞いたことだが、「10名に2、3名は舌を噛んで死んでいるんです。また何名かの方は胸を圧縮されて息絶えている人がありました」と語られたことを想い出す。

――――――

ベール脱ぐ引き揚げ史、福岡の旧二日市保養所、看護婦が体験を証言
1997/05/13, 西日本新聞

 終戦直後、中国大陸から引き揚げ途中に旧ソ連軍兵士らから暴行を受け妊娠した女性の堕胎処置が行われた福岡県筑紫野市武蔵の「旧二日市保養所」跡地で十二日、供養が行われた。当時、看護婦として同保養所で働いた村石正子さん(71)が初めて参列し、自らの体験を涙ながらに語り、隠れた引き揚げ史を証言した。
 「博多引揚援護局史」などによると、旧二日市保養所は一九四六年三月に開設。患者総数は三百八十人、閉鎖までの治療日数は延べ七千九百八十一日を数えた。堕胎は、当時非合法だったこともあり、保養所の歴史はあまり語られず、引き揚げ史の中でも実態は詳しく分かっていない。
 日赤看護婦だった村石さんは、四六年、同保養所で約三カ月勤務。「堕胎は違法と知っていたが、心ならず妊娠した女性は故郷にも帰れなかった。ただ救いたい、という一心だった」と当時の様子を証言した。
 処置後、「悔しい」という言葉を残して亡くなった十七歳の師範学校女生徒のことなどを思いだすにつけ、村石さんは自分の過去に苦しめられたが、五十年余りがたち「歴史の一ページとして証言しなければならない」と思ったという。
(以下略)

――――――

【双方向プラザ】看護婦22人眠る「慈蔵尊」参りたい
2003/07/27, 産経新聞

■“ソ連軍暴行より死”悲劇忘れてはならぬ

(一部抜粋)

≪命日に有志、靖国の提灯供える≫

「事件」は終戦後の昭和二十一年六月に起きました。その年の春、ソ連軍(当時)の支配下にあった満州・新京(長春)の長春第八病院で、三十四人の従軍看護婦が仕事を続けていました。

そこへ、数キロ離れたソ連陸軍病院から「三人の看護婦を派遣せよ」という命令が届きます。約一カ月後にはもう三人、そしてさらに三人と、看護婦の派遣命令が続きますが、誰一人として帰ってきません。

しばらくたって、瀕死の重傷を負った看護婦の一人が長春の病院のドアをたたきました。ソ連軍の病院に派遣された一人が、決死の思いで逃げ帰ってきたのです。

「わたしたちは看護婦の仕事ではなく、ソ連軍将校の慰みものにされているのです。もう、人を送ってはいけません…」。その看護婦が息もたえだえに語ったのは衝撃的な事実でした。

そしてその二日後の六月二十一日、悲劇が起きました。長春の病院に残っていた二十二人の看護婦が青酸カリを飲んで自ら命を絶ったのです。遺書には、「ソ連軍に暴行されるよりは死を選びます」という内容のことが書かれていました。看護婦たちは、ソ連軍の非道ぶりに“死の抗議”をしたのでしょう。

看護婦たちの遺骨は当時の婦長さんの手によって、日本へ帰りました。

(以下略)
――――――




なお反日左翼が良くいう「関東軍は自分の家族だけ最初に逃がした」は真実を歪曲している。

「同胞4万救出作戦」
内蒙古在住4万人の同胞をソ連軍から守ろうと、日本軍将兵が立ち上がった。
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h16/jog357.html

満州の対ソ戦
http://yokohama.cool.ne.jp/esearch/sensi1/sensi-taiso2.html

(一部抜粋)


居留民後退の問題
それでも9日には在留邦人の後送に着手し一般邦人を先に送り出そうとしたが、既に生活拠点を有する民間人は直ちに乗車などできない状況にあり、満州は内地よりも安全と考えられていたことも手伝って遅々として進まなかった。
一刻の猶予もない状況下ではやむを得ず、緊急集合が容易な軍人・軍属の家族を主体に一番列車に乗せ、10日 0140には新京駅を出発した。
だがこのことは後に、関東軍は軍人家族を最初に後退させた、として非難されることとなった。






以上、ここまでは、満州における惨状について述べたが、ソ連軍が悪逆・暴虐の限りを尽くしたのは満州だけではない。


樺太でも、同様の悪逆・暴虐を行っていた。




樺太の真岡は人口2万の町だった。
8月16日夕から本土への引き揚げが開始され、19日夕刻までに6千人が出航していたが、乗船を待つ避難民がまだ1万5千〜8千人いた。

真岡への攻撃は20日早朝に始まった。
数隻の大型軍艦が町中に艦砲射撃を行い、その後、上陸したソ連兵は山へ逃がれる人々に背後から機関銃や自動小銃を撃ち、手榴弾を投げつけた。
引き揚げ船へ向かう女子供たちの上にも、容赦なく砲弾が降り注いだ。
厚生省資料ではこの時の民間人犠牲者は約千名としている。


樺太の真岡電話局には電話交換手の9人の若い女性たちが、引揚げの指示を断ってまで、市街の惨状を報告し続けるために現地に残留していたが、そこにもついにソ連軍が侵入。

9人は引き揚げの指示を断って、ソ連軍の砲撃開始後一時間半に渡って、市街の惨状を報告し続けた。

だが、そこにもついにソ連軍が侵入・・・


「氷雪の門」で伝えられる最後の放送は次のとおり。



「内地の皆さん、稚内電話局のお友だちに申し上げます。
只今ソ連軍がわが真岡電話局に侵入いたしました。
これが樺太から日本に送る最後の通話となるでありましょう。
私たち9人は最後まで、この交換台を守りました。
そして間もなく、9人そろってあの世に旅立ちます。

ソ連軍が近づいております。足音が近づいております。
稚内の皆さん、さようなら、これが最後です。
内地の皆さん、さようなら、さようなら」




9人の乙女は青酸カリを飲んで自決した。


戦後建てられた稚内市の「九人の乙女の碑」を昭和43年に訪れられた昭和天皇と香淳皇后は深く頭を垂れて、冥福を祈られ、次の御製、お歌を残された。




樺太に
命をすてし
をたやめの
心を思えば
むねせまりくる

からふとに
露と消えたる
乙女らの
御霊安かれと
ただいのるぬる







●関連記事

ソ連が100万人以上の日本人を拉致、強制連行、労働させ、50万人以上を大虐殺した所謂『シベリア抑留』
http://blogs.yahoo.co.jp/deliciousicecoffee/13965146.html

満州引き揚げ苦難の歴史
樺太の真岡に散った9人の乙女
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転載元転載元: 正しい歴史認識、国益重視の外交、核武装の実現


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今の日本は終戦の815日が終わると、テレビも戦争のことは取り上げなくなる。

それは、なぜか?
 
それは、当時815日以後に起きたことは戦勝国にとって都合の悪いことが多いからである。戦後、彼らにとって都合の悪いことはないことにされている。
 
しかしマスコミや学校が日本人に教えなければならないのは、終戦の15日以降に日本人がされてきたことである。
 
米軍は日本に来て何をやった? 連日の婦女暴行だ。調達庁資料には10万人の日本人女性が強姦されたが、今の日本人はほとんどそれを知らない。
 
そして、シナ人は、ソ連は、朝鮮人は、日本人に何をした? ・・・
 
「ソ連との友好関係を損ねる恐れがある」と中止になった映画がある。「氷雪の門」である。東映が製作し、文部省などが推薦した映画だった。
 
しかし、この映画は真実の歴史であったためソ連が抗議して中止となり、フィルムも買い上げられた。
 
「友好関係」と言われれば真実も伏せて配慮してきた日本。外国の抗議にはすぐに屈する戦後日本。このままいけば100年経っても、200年経っても、日本はずっと敗戦国のままだ。
 
終戦から70年以上も経っている。真実を語り継いでいかなければ「日本が悪い」という嘘だけが残ってしまう。
 
だから言うべきことは言う。書いておくべきことは何度でも書いておく。それが語り継ぐということである。
 
昭和20820日、樺太の真岡にソ連の軍艦が現れた。諸外国は全て停戦して交渉を開始している時にである。
 
ソ連だけが国際法を踏みにじって攻撃してきた。日本軍は白旗を掲げた軍使を3度も派遣したが全てソ連軍に射殺された。
 
真岡郵便局の女子電話交換手がソ連軍乱入に際して、電話交換の職場を守り、最後に従容として青酸カリを服用して、純潔を守り通して花と散った。
 
真岡郵便局の伊藤千枝さんは泊居郵便局の局長に弱々しい声で「局長さんですか、ソ連兵が次々と来ています。私達もみな倒れてしまいました。私もだんだん目が見えなくなってきました。長い間お世話になりました。さようなら」。
 
局長は異変を感じ「窓から白いキレをつけて(降伏していると)出すように」と言ったが電話の声は次第に細くなり「高石さんも死んでしまいました。弾丸がどんどん飛んできます。もうどうにもなりません。さようなら、さようなら」と電話は切れた。
 

823日、左腕を貫通銃創を負い庁立病院に入院中だった真岡郵便局の上田局長が郵便局に入って9人の遺体を見た。死体はそのままだった。そのうち2人は耳にブレストを着けてコードを持ったまま交換台にうつ伏せ姿で死んでいた。

 
終戦後なのにソ連軍はそのまま真岡市民に襲いかかった。阿鼻叫喚の地獄絵そのものであった。
 
白旗を掲げていても関係なく殺された。ここでは500人が犠牲になった。
 
無残に腹や胸をえぐられた婦人、子供や老人がまるで魚河岸のマグロのように一面にごろごろ転がっていた。道にはちぎれた手や足が散らばっていた。
 
避難民は樺太から北海道に逃げた。しかし822日、引揚げの輸送船3隻が留萌近くを通った時、2隻がソ連の潜水艦に撃沈され1800人が死んだ。
 
この怨みは永遠に消してはならない。
 
日本が「アジアの加害者」というのはつくられた嘘だ。

日本人が知るべき歴史はマスコミが報じない昭和20815日以降にある。
日本人は何をされてきたのか。この消されてきた真実を知らなければいつまでも敗北のままである。

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転載元転載元: さくらの花びらの「日本人よ、誇りを持とう」

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死傷者日本軍800、ソ連2300に至る。
(諸説あり)

日本軍は強かった!
占守島の戦いで日本を守った士魂精神を受け継ぐ
陸上自衛隊士魂戦車大隊!
本当の終戦記念日は8月15日ではなかった





ソ連軍が満州で暴虐の限りを尽くしていた昭和20年8月中旬から下旬にかけて、千島列島や南樺太では、日本軍守備隊とソ連軍の間で激しい戦闘が行われていた。
 戦史叢書「北東方面陸軍作戦2」(防衛庁戦史室)によると、ソ連軍は18日午前1時半ごろ、千島列島の最北端に位置する占守(しゅむしゅ)島に対し、対岸のソ連領カムチャッカ半島から突然、砲撃を始め、上陸作戦を開始した。当時、大本営参謀本部から秘密裏に同島に派遣され、ソ連軍の動向を探っていた永井正氏(78)=少佐=は「ソ連軍侵攻の第一報は、(戦史叢書の)記録より二時間早い17日午後11時半だったように記憶している。満州の惨状は聞いていたので、千島にもソ連軍が来るという予想はあった」と振り返る。

 占守島北端の最前線に布陣していた独立歩兵二百八十二大隊(大隊長、村上則重少佐)は直ちに射撃開始を命令、濃霧が立ち込める深夜、戦闘が始まった。当時、北方派遣軍(占守島、幌筵島)は約4万6千人。野戦砲、重砲、爆薬、医療機材などの装備は、この時期の日本軍のものとしては、ずば抜けた規模だった。占守島では、1カ月分の食糧が備蓄されていた。17日夜は、日米停戦に対する残念会が催され、しまわれていた酒が振る舞われた。みんな酔って寝ていたところへ出動命令が下ったという。

 永井氏がいた部隊(第九十一師団速射砲大隊)は、戦闘が始まった占守島最北端の国端崎から約35キロ離れた南西部の長崎に布陣、18日午前7時、国端崎へ向け出発した。「7時40分ごろ、国端崎から約六キロの大観台あたりで味方の砲声を聞いた。島北部の四嶺山にあった砲台はカムチャッカに向けて1時間に300発の砲弾を打ち、カムチャッカの要塞砲を沈黙させた」(永井氏)

永井氏の部隊は行軍途中、大観台の手前で戦車第十一連隊(連隊長、池田末男大佐)と合流。「池田連隊長は白装束で日の丸の鉢巻きを締め、砲頭に馬乗りになっていた。戦車37両は一丸となって敵陣に突入、連隊長は戦死された」(永井氏)
 日本軍は被害を出しつつも、終始優勢に戦闘を進めた。札幌の第五方面軍から「18日午後4時をもって全面停戦」との命令が届き、二度、停戦のための軍使を送ったが、いずれも帰らず、ソ連側と連絡が取れないまま戦闘は続いた。
 戦史叢書によると、この間、日本大本営はマッカーサー司令部に宛て、《八月十八日千島列島占守島ニ対シ一部兵力上陸シ我方ハ自衛ノ為已ヲ得ス戦闘中ナリ 彼我共ニ停戦シアル今日甚タ不都合ト認ムルニ付至急停戦スル様指導アリ度》と打電している。
 しかし、戦闘はなおも続いた。日本軍は21日午前、いったんソ連軍を国端崎近くの豊城川河口まで追い詰め、同日午後7時、ようやく停戦が実現した。日本側は翌22日、武器弾薬を同島中央の三好野飛行場に集めてソ連軍将校に引き渡した。ソ連軍将校は北千島派遣軍の兵力を約4千人と想定していたが、「実数はその10倍」と告げると青くなったという。

 永井少佐は昭和21年元旦、占守島からナホトカ経由でモスクワへ送られ、約6年間の抑留生活を送った。「日本が降伏しなければ、我々はもっと戦い、北千島のソ連軍は完全に粉砕されていただろう。戦闘で勝って捕虜になり、つくづく不思議なものだと感じた」と永井氏は述懐する。
 一方、ソ連軍は占守島での停戦後も島伝いに千島列島の占領を続け、北方四島には米軍の不在を確かめてから上陸した。択捉島への上陸は8月28日。国後島と色丹島への上陸は9月1日。歯舞群島の占領は、日本が米戦艦「ミズーリ」号上で降伏文書に調印した9月3日以降だった。ロシア科学アカデミー極東研究所発行「極東の諸問題」副編集長、ボリス・スラビンスキー氏は平成四年五月、「イズベスチヤ」紙に寄稿、こう書いている。
 《ソ連の文献のどこを探しても、ソ連軍による歯舞群島に対する上陸作戦についての記述が見つからないことに注目する必要がある。…我々の歴史のこれまで論争されてきた諸問題は、数十年間にもわたり偽造されてきた…》
(日ソ問題取材班、産経新聞 平成5年10月17日)
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歴史は再評価される。北方領土は日本の領土です。

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  昭和20年8月18日午前二時ごろ、北方領土最北端の占守島に国籍不明のが上陸。ソ連軍でした。そして日本軍と交戦。23日に停戦協定が結ばれます。ソ連軍は8月27日には得撫島の沖合いまで到達します。ここにたどり着くまで米軍機が上空を飛んだことがあります。このとき、ソ連艦に占守島にいた日本軍参謀部の将校が乗艦していましたが、「空襲警報が発令された」「米軍機は友軍ではないか?と質すと、今後は日本と握手して米軍を叩くのだと言ったり、或いは、米軍が択捉付近まで進出しているかもしれないと語ったりした」と証言しています。別の艦では米軍機に対して高角砲や高角機関銃の射撃がニ三十分続けられました。もう、米ソの対決に入っていたのですね。得撫に飛行基地を作らせるかで米ソが激論していたのでした。

  それからソ連艦船は北へ引き返しました。ソ連艦に乗船していた水津満参謀はソ連軍ウォロフ参謀長に引き返す理由を尋ねるとこう答えたといいます。

「これより以南はアメリカの担当だからソ連は手を出さない」

  ところが8月28日にソ連軍は択捉、国後の命令が出て9月1日には歯舞諸島、色丹島を占領し、武器と捕虜の引き取りを完了したのが9月5日でした。

  言うまでもなくソ連の参戦自体が日ソ中立条約違反であり、千島列島の占領は不法行為になります。南樺太の占領もそうです。

  樺太では8月20日になって真岡町にソ連軍が進駐してきて日本軍と交戦になっています。ソ連軍の祝砲に対して日本軍が実弾で応戦したという話もありますが、真岡町にはほとんど日本軍の戦力はないにも拘らず民間人が大量に殺害されました。平和的にソ連軍が進駐した町もありましたが、警察官らは共産党を迫害したというような理由で射殺されたり、シベリアに送られました。

  さかのぼること4年余り。昭和16年4月13日、日ソは中立条約を結びました。この後、日本と軍事同盟を結んでいたドイツが日本に何の連絡もなく、6月22日にソ連に攻め込みます。日本は大変難しい局面に立たされました。ここで日ソ中立条約の立役者となった松岡洋右が意外なことを言います。

「日本はただちに北進してソ連を攻撃し、ドイツとともに東西からソ連を挟み撃ちにすべきだ」

  戦後、日本は「バスに乗り遅れるな」とヒトラー・ドイツに追随したのがまずかったといいますが、それはナチスと同盟した「日本悪玉論」という戦後の刷り込みであり、当時の国際情勢は奇奇怪怪で、「戦争に勝つのが勝者」という観点でいうと松岡洋右の進言は正しかったということになります。バスに乗り遅れたのです。
  日本は対ソ戦備を強化していますが、それはあくまで万一のことを考えてのことです。ソ連が満州に進攻してくることもありえるからです。昭和16年7月2日の御前会議では日本は軍事同盟によってソ連と戦争する義務はない、という結論に達しています。日本は国際信義を守ったわけです。

  チャーチルやアメリカのウェデマイヤー将軍は異口同音に次のように指摘しています。
「日本は第二次大戦で勝者となれる、唯一最大のチャンスがあった。それは独ソ戦勃発時に北進してソ連を攻撃し、ドイツと組んでソ連を東西から挟み撃ちにすることだった。この絶好の機会を日本はみすみす逃してしまった。日本が北進せず南進して、アメリカとの戦争に突入してくれたことは、われわれにとって最大の幸運だった」

  当時の国際情勢からいうと条約なんて「紙切れ」だったのです。ですが、日本は明治維新からずっと国際信義を守り続けたのです。松岡洋右の進言を昭和天皇は叱責したといいます。国際信義を守り戦争の勝者になれず、北方領土を不当にとられた日本。国際信義を破り火事場泥棒をしたソ連。歴史は必ず再評価されるでしょう。まだ勝負は終わっていません。いつか千島列島と樺太からロシアを叩き出す日がくるでしょう。



参考文献
  「8月17日、ソ連軍上陸す」大野芳(著)
  「東條英機 歴史の証言」渡部昇一(著)
  「ダスビダーニャ、わが樺太」道下匡子(著)
  「板垣征四郎と石原莞爾」福井雄三(著)

添付画像
  北方領土返還を訴える看板。函館市内にて。Author:shirokazan

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転載元転載元: かつて日本は美しかった

北海道防衛で無念の樺太放棄


 新生の明治政府は樺太問題について、旧幕府がロシアとの間に締結した「樺太島仮規則」にもとづき、同地を日露両属とする立場を継承した。前記したようにロシア側は、「樺太島仮条約」を利用して兵力の駐留・罪人の流刑・開拓移民の奨励など、樺太の実効支配を強化する政策を進めており、明治初期には現地の日本人との間でさまざまな軋轢や衝突を生じるようになっていた(詳細は秋月俊幸「明治初年の樺太―日露雑居をめぐる諸問題―」参照)。

http://ironna.jp/file/w240/h240/bef5f90b830e844ccde57bfba777eefd.jpg 
樺太千島交換条約の締結交渉に当たった榎本武揚。
幕末から欧州軍事事情などを見聞しただけにロシアの脅威を身に
染みて感じていたか…

 ロシアの南下を警戒する日本政府は、明治二(一八六九)年に「蝦夷地」の名称を「北海道」と改めたのに続き、翌明治三年には「樺太開拓使」を設置してこれに備える方針を示したが、十分な対策を実施できる状況になかった。そのため日本政府は、樺太に駐在する官吏から再三にわたって軍隊の出動を要請されたにもかかわらず、武力衝突回避の視点から出兵を見合わせていた。

 当時日本側は、樺太問題への対応を誤ればロシアの脅威が北海道にも及ぶとの懸念を有しており、「唐太ハ露人雑居ノ地須(すべか)ラク専(もつぱ)ラ礼節ヲ主トシ条理ヲ尽シテ事ニ従フヘシ卒爾(そつじ)軽挙シ以テ曲ヲ我ニ取ル可ラス或(あるいは)彼(かれの)非理(りあらざる)暴慢ヲ以テ加フル有ルモ必ス一人ノ意ヲ以テ挙動ス可カラス」という姿勢でこれに臨んでいたのである。
 樺太開拓使の開拓次官となった黒田清隆は、日本側による樺太経営の現実と限界を踏まえて、明治四年に「樺太に対する建白書」を政府に提出し、「彼地中外雑居ノ形勢ヲ見ルニ、永ク其親睦ヲ全スル能ハス」との観点から樺太放棄論を示すに至った。

 黒田はこの建白書で、明治初年から開始した樺太開拓の成果が挙がっていない現状を指摘し、「之ヲ棄ルヲ上策ト為ス、便利ヲ争ヒ、紛擾(ふんじよう)ヲ到サンヨリ一著を譲テ経界ヲ改定シ、以テ雑居ヲ止ムルヲ中策トス、雑居ノ約ヲ維持シ、百方之ヲ嘗試(しようし)シ、左(さ)支右吾(しゆうご)遂ニ為ス可ラサルニ至テ、之ヲ棄ルヲ下策ト為ス」とし、「樺太ノ如キハ姑(しばら)ク之ヲ棄テ、彼ニ用ル力ヲ移シテ遠ニ北海道を経理スル」ことを提案したのである。

 日本政府もこうした黒田の意見を容れ、明治八(一八七五)年にロシアとの間で「樺太千島交換条約」を締結した。これにより、「樺太全島ハ悉ク魯西亜帝国ニ属シ『ラペルーズ』(宗谷)海峡ヲ以テ両国ノ境界トス」ることと、十八島から成る「『クリル』全島ハ日本帝国ニ属シ柬察加(カムサッカ)地方『ラパツカ』岬と『シユムシユ』島ノ間ナル海峡ヲ以テ両国ノ境界トス」ることが定められた。

 この条約に関しては当時においても、得撫島(うるっぷとう)以北の千島諸島を代償に、広大な樺太南部を割譲することへの異議が存在していた。しかし明治初期の日本には、樺太の実効支配を「力」で推し進めるロシアを排除し得るだけの国力が備わっておらず、幕末以来の「北門鎖鑰(ほくもんさやく=北方の守り)」という課題に、一定の譲歩を伴いつつ外交的手段で決着をつけざるを得なかったことは、ある意味必然であったといえよう。

軍事圧力で領土侵奪した事実


 十八世紀にはじまるロシアの北方領域での南下政策は、当時すでに日本の施政下にあった千島列島・樺太に対する、武力を背景とした外交的侵食という形で進められた。こうしたロシアからの圧力に、徳川幕府はくり返し外交努力を以て対応したが、「日露和親条約」や「樺太島仮規則」の締結を経て、結果的に択捉島以北の千島列島を手放し、樺太についても著しい主権侵害を蒙ることとなった。
http://ironna.jp/file/w480/h480/e4069e58cd2deb75bdcabf7a334b4a38.jpg 
列強による不平等条約の一つ「樺太千島交換条約」の批准書
             
 さらにロシアは、成立したばかりで政権基盤の固まっていない明治政府に対し、北海道さえ呑み込む勢いで樺太の全島領有化を迫り、「日露和親条約」で自国領とした千島列島を、元々の主権者だった日本側に引き渡すという、強圧的な交換条件を以てその要求を貫徹した。

 アジアをめぐる近現代史のなかで、日本はシャム(タイ)と並ぶ、欧米列強からの侵略を受けなかった数少ない国の一つである、と言われることが多い。しかし北方領域における幕末・維新期の日露関係を仔細に見て行くと、この評価は必ずしも正鵠を射たものでないことが知られる。
 すなわち、国家としての変革期で財政力・軍事力とも不安定だった当時の日本が、強権的なロシアの領土要求に対して外交的譲歩を強いられるなか、千島・樺太における主権と領土をロシアに侵食されて行った事実を、看過することはできないのである。 

 このような北方領域における日露関係の歴史を振り返り、その帰属をめぐって両国間で繰り広げられた、外交的攻防の史実を発信することが何より重要である。


主要参考文▽献鈴木良彦『日露領土問題総鑑』(平成十)▽開拓使編『北海道志 上・下』(昭和四十八年)▽鹿島守之助『日本外交史 第一巻 幕末外交』(四十五年)▽同『日本外交史 第三巻 近隣諸国及び領土問題』(同)▽原剛『幕末海防史の研究』(六十三年)▽大熊良一『幕末北方関係史攷』(四十七年)▽秋月俊幸「明治初年の樺太―日露雑居をめぐる諸問題」(平成五年)

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