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投稿者 : rekisisiranai 日本の戦争責任 責任なし24 通州虐殺事件 これは「責任なし23郎坊事件と広安門事件」の続きです。 香月中将は、最後通牒を出し、通告どおり7月28日、北京の中国軍へ攻撃を開始、実力排除に出ました。 宋哲元はこれまでと北京を去りましたが、只では逃げません。 通州と天津に分駐する冀東保安隊と第38師の一部に“蜂起”を指令しました。 そしてその指令は実行されます。 天津の中国軍は、天津駅、東機器局、飛行場、日本租界、支那駐屯軍司令部などを襲撃しました。 尤も、これは日本軍によって撃退されますが。 一方、通州の方は事情が異なっていました。通州は親日政権冀東防共自治政府の所在地であり、保安隊は野砲を持つ強力な存在だったので日本軍は安心していたのです。 ところが、彼らは、ひそかに宋哲元に服従していました。 南京から「日本軍が負け、中国軍が勝っている」というラジオの偽放送があり、これを信じた彼らは、このまま親日でいたら自分たちが危ない、ここは一つ手柄をたてて、宋哲元の下に馳せ参じようと考えたのです。 そこで、彼らは29日、通州にある特務機関、警察分署、守備隊、旅館、出張所、食堂、民家、など日本人のいる所を一斉に襲撃しました。ここで彼らは軍人、警察官だけでなく、非戦闘員の日本人居留民約260人を惨殺しています。老若男女の別なく。 その、惨状は、聞きしに勝るものでした。証言には 《城内は実に凄惨なもので到る処、無惨な日本居留民の死体が横たわって居りまして、殆ど全部の死体には首に縄がつけてありました。頑是なき子供の死体や婦人の虐殺死体は殆ど見るに耐えませんでした》 《旭軒とか云ふ飲食店を見ました。そこには四十から十七〜八歳迄の女七〜八名は皆強姦され裸体で陰部を露出したまま射殺されて居りました。そのうち四〜五名は陰部を銃剣で刺されていました。家の内は家具・布団・衣類等は何物もなく掠奪されていました》 《錦水楼と云ふ旅館は凄惨でありました。同所は危険を感じた日本人が集まったものの如く大量虐殺を受けておりました。錦水楼の女主人や女中等は数珠繋ぎにされ、手足を縛られたまま強姦され、遂に斬首されたと云ふ事でした》 《男は目玉をくり抜かれ、上半身は蜂の巣の様でありました》 《南城門の近くに一日本人の商店があり、そこの主人らしき者が引っ張りだされ殺された屍体が路上に放置されてありました。これは腹部の骨が露出し、内蔵が散乱しておりました》 《旭軒と云ふ飲食店に入りますと、そこに居りました七〜八名の女は全部裸体にされ、強姦射(刺)殺されて居りまして、陰部に箒を押し込んである物、口中に土砂を填めてあるもの、腹部を縦に割ってあるもの等、見るに耐えませんでした》 《東門近くの鮮人商店の付近に池がありましたが、その池には首を縄で縛り両手を併せて、それに八番鉄線を通し(貫通)、一家六名数珠繋ぎにして引廻された形跡、歴然たる死体がありました。池の水は血で赤く染まって居たのを目撃しました》 《守備隊の東門を出ますと、殆ど数間間隔に居留民男女の惨殺死体が横たわって居るのを目撃し、一同悲憤の極に達しました。敵兵は見当たりませんでしたので‥‥「日本人は居ないか」と連呼し乍ら、各戸毎に調査して参りますと、 鼻部に牛の如く針金を通された子供や、片腕を切られた老婆、腹部を銃剣で刺された妊婦等が、そこかしこの塵埃箱の中や壕の内、塀の蔭等から続々這い出して来ました》 とあります。 ‐‐‐‐ 彼らは、日本人をやっつけた手土産を持って意気揚々北京にやって来ました。ところが、そこにいたのは宋哲元ではなく、日本軍だったのです。彼らは慌てて逃げますが捕まります。 温厚な中島29軍顧問は「機関銃をくれ、仇をとってやる」と息まきました。尤も「それでは暴に酬ゆるに暴を以ってするだけだ」と止められ、結局、連中は収容もされず城外に放置されただけでした。 理由は「収容すると飯を食わさにゃならん。本当は鉛の弾を食わしたいくらいなのに、飯などもったいない」という事です。彼らは後、移動して中国軍に加わります。これが当時の日本軍だったのです。現在宣伝されている事とえらい違いです。 この後も、日本は和平を模索しますが、蒋介石は逆に上海戦を計画します。 つづく ●関連記事 惨!通州事件 1937年7月29日 南京放送のデマ報道で身の危険を感じた支那保安隊が日本人居留民約260人を大虐殺 http://blogs.yahoo.co.jp/deliciousicecoffee/23308190.html 南京虐殺は嘘61・支那軍による虐殺1・通州事件 http://blogs.yahoo.co.jp/deliciousicecoffee/10890186.html 盧溝橋事件〜通州事件(1937年7月) 北支で攻撃を受け停戦しても繰り返し攻撃を受け続けた日本軍 第7章いかにして戦闘は始まったか 『シナ大陸の真相1931〜1938』K・カール・カワカミ6 http://blogs.yahoo.co.jp/deliciousicecoffee/14471246.html 人気ブログランキング https://blog.with2.net/in.php?671525 くつろぐブログランキング http://kutsulog.net/index.php?id=66431 クリック、よろしくお願いします ∧_∧ ( ・∀・) よろしく ↑ ( ∪ ∪ と__)__) |
通州事件
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2016.10.6生放送『やらまいか』#19
通州事件〜中国人の残虐性を知れ〜
出演者
ゲスト:藤岡信勝(拓殖大学客員教授) 加藤康男(ノンフィク出演者ション作家) 『慟哭の通州 昭和十二年夏の虐殺事件』(飛鳥新社)著者 10/6発売→ https://www.amazon.co.jp/dp/4864105146/ こういう動画は、下のようにすぐに見られなくなる。
現在では、ニコニコ動画で見られる。
日清戦争以来、シナ軍に捉えられた捕虜はなぶり殺しにされ遺体をさらされるなど、ただ死ぬよりずっと辛い結末が待っていた。
この刑は清朝時代に行われていた処刑方法で、站籠(たんろう)あるいは立枷(たてかせ)と呼ばれていた。この方法は首枷(くびかせ)の変種で、中国の処刑の一種である。「図説中国酷刑史」(徳間書店刊)より。 この写真は1905(明治38)年に絵葉書として街中で売られており、横浜宛てに送られていたものもある。ただし、この写真の処刑された者はシナの罪人で、日本兵ではない。
2007年のニュースによれば、中国ハルピンのサファリパークでは、生きた牛をトラの餌にするところをバスの中から見物することが家族連れのレジャーとして人気がある様子が報じられている。
次のURLでこの動画を見ることができる。公開処刑をレジャーとして見物する気風が、こんな形で残っているのである。
シナでは現在でも公開処刑をレジャーとして楽しむ気風がある。西尾幹二氏はこれを「ヨーロッパ中世と同じだ。『大陸はまだ中世にある』のではないのか?」と述べている。
第二次上海事変における中国人による日本人捕虜の残虐処刑
非人間的な仕打ちを受けて死ぬくらいなら潔く自決した方が良いと警告したのが 戦陣訓の「生きて虜囚の辱めを受けず」だった。 このように、通州事件に類するシナ人の残虐さは、戦前・戦中までは日本人に広く知られていた。
ところが、戦後はまったく言われなくなった。
なぜなのか?
それは、GHQの検閲指針があったからなのだ。
昭和27(1952)年SF講和条約が発効して日本が独立し、占領軍が去っても、教育界やマスコミは保身による自己規制で「検閲指針」に従い続けた。
なぜなのか?
「検閲指針」に従っていれば、戦後の東京裁判史観(日本悪玉論)に抵触しないでうまく保身をはかることができたからである。これは、アメリカの圧力と言うよりは、朝日やNHKが主導して日本人がやって来たことなのである。
昭和27(1952)年に、国内外で戦犯として収監されている者を即時に釈放すべしという国民運動が発生し、4千万人の日本国民の署名が集まった。そしてA級戦犯の「名誉の回復」については、昭和28(1953)年、国会決議で回復された。
ところが、マスコミ・教育界の日本悪玉論がジワジワと日本を侵食し、昭和末から平成になると、「一番悪いヤツ」の意味で「A級戦犯」が使われるようになった。私はテレビ討論で、自民党の国会議員がこういう使い方をしているのを見たことがある。
なぜ、日本人が「日本悪玉論」を推進したのか?
それは、敗戦で日本の指導層にのし上がった敗戦利得者が、「戦前の日本を悪く言わなければ、自分の立場を失うことになる」からであった。
通州事件に類するシナ人の残虐さに言及すると、日本悪玉論が成立せず、指導層の多くがタナボタで得た立場の正当性を失うからであった。
通州事件の関連記事
以下の出典:「宮崎正弘の国際ニュース・早読み」 平成28年(2016)10月18日(火曜日) 通算第5063号 http://melma.com/backnumber_45206_6435566/
(読者の声4)『ユネスコ記憶遺産に登録申請した「通州事件」から』。
その6、「通州事件」遭難生存者(4人)の証言。
その(3)通州惨劇とその前後 東京日日新聞 橘善守。
遭難生存者の証言その3は、東京日日新聞天津支局詰めだった、橘善守記者の現地レポートです。 橘記者は、天津で28日に不穏な空気、保安隊反乱の情報を受けていましたが、29日午前2時ころには、天津日本租界中央部に迫撃砲弾が落下。車で司令部に向かい夜明けをむかえて、保安隊が29軍の指揮の下、天津、通州、塘沽その他で一斉に反乱起こしたことを知ります。 この現地レポートは、昭和13年7月号の『文芸春秋』に掲載されたものを『昭和史研究会報』第101号』(平成17年9月10日)に再録されたものです。 日本語原文:http://hassin.org/01/wp-content/uploads/Tachibana.pdf 英訳文:URL: http://www.sdh-fact.com/essay-article/845/ PDF: http://www.sdh-fact.com/CL/Testimonial-record-of-suvivors-Tachibana-Moriyoshi.pdf 海外には英語文で発信しました。 (「史実を世界に発信する会」会長代行 茂木弘道) 東京裁判史観の批判や、GHQのWGIP(日本人に戦争に対する罪悪感を植え付ける宣伝計画)を扱った動画は、すぐに見られなくなることがあります。
「ニュース女子」は
①「靖国神社」
②「GHQは何をした?」
を扱った#71だけが非公開にされています。
ニュース女子#71の動画は、
こちらの記事の一番下のURLで見ることができます。
日本のマスコミが保存・公開をビビる重要番組は、
一般に外国に保存されるようです。
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そろそろ
テレビ不買運動を
はじめても
いいんじゃない
たとえば通州事件に関しては
NHKは一切ふれません。
なぜ?
以下転載記事 産経よりhttp://ironna.jp/article/4237?p=4小名木善行(国史研究家)支那事変の時に「通州事件」という事件がありました。北京郊外にある通州市で、日本人居留民233名が、おそらく人類史上類例のないほどの残虐な方法で殺されました。通州は、北京郊外18キロにある、明朝時代に築かれた静かな街で、天津からの集荷の拠点として、事件直前までは日本人にとっても、中国人にとっても治安の良い街でした。そこには親日派とされる中国軍閥の冀東防共自治政府の兵たちも守備にあたっていました。この自治政府の長官の殷汝耕は日本人を妻にしていて、自治政府軍は約9000名の保安隊を組織していました。NHKの戦争史観の偏向が問題になっています。NHKの持つかつての日本の戦争に関するレトリックは明快です。戦争に反対である、日本は侵略国だった、日本は悪いことをした、ということです。私も戦争には反対です。二度とあってはならないと思います。けれど戦争は相手があって起きることです。日本だけが一方的に戦争を回避しようとしても、相手が攻めてきたら戦わざるをえないのです。そうでなければもっと大きな悲劇に襲われることになるからです。 ・救援のため通州に急行した、支那駐屯歩兵第二連隊長萱島高中将の供述「旭軒(飲食店)では40から17、8歳までの女7、8人が皆強姦され、裸体で陰部を露出したまま射殺されており、その中4、5人は陰部を銃剣で刺殺されていた。商館や役所に残された日本人男子の死体はほとんどすべてが首に縄をつけて引き回した跡があり、血潮は壁に散布し、言語に絶したものだった」
・支那駐屯歩兵第二連隊歩兵砲中隊長代理、桂鎮雄元少佐の供述 「錦水楼入口で女将らしき人の死体を見た。足を入口に向け、顔だけに新聞紙がかけてあった。本人は相当に抵抗したらしく、着物は寝た上で剥がされたらしく、上半身も下半身も暴露し、四つ五つ銃剣で突き刺した跡があったと記憶する。陰部は刃物でえぐられたらしく、血痕が散乱していた。帳場や配膳室は足の踏み場もない程散乱し、略奪の跡をまざまざと示していた。女中部屋に女中らしき日本婦人の四つの死体があり、全部もがいて死んだようだった」
「折り重なって死んでいたが、一名だけは局部を露出し上向きになっていた。帳場配膳室では男1人、女2人が横倒れ、或いはうつ伏し或いは上向いて死んでおり、闘った跡は明瞭で、男は目玉をくりぬかれ上半身は蜂の巣のようだった。女2人はいずれも背部から銃剣を突き刺されていた。階下座敷に女の死体2つ、素っ裸で殺され、局部はじめ各部分に刺突の跡を見た。1年前に行ったことのあるカフェーでは、縄で絞殺された素っ裸の死体があった。その裏の日本人の家では親子二人が惨殺されていた。子供は手の指を揃えて切断されていた。南城門近くの日本人商店では、主人らしき人の死体が路上に放置してあったが、胸腹の骨が露出し、内臓が散乱していた」
・支那駐屯歩兵第二連隊小隊長、桜井文雄元少佐の供述
「守備隊の東門を出ると、ほとんど数間間隔に居留民男女の惨殺死体が横たわっており、一同悲憤の極みに達した。『日本人はいないか?』と連呼しながら各戸毎に調査していくと、鼻に牛の如く針金を通された子供や、片腕を切られた老女、腹部を銃剣で刺された妊婦等の死体がそこここのゴミばこの中や壕の中から続々出てきた。ある飲食店では一家ことごとく首と両手を切断され惨殺されていた」
「婦人という婦人は14、5歳以上はことごとく強姦されており、全く見るに忍びなかった。旭軒では7、8名の女は全部裸体にされ強姦刺殺されており、陰部にほうきを押し込んである者、口中に土砂をつめてある者、腹を縦に断ち割ってある者など、見るに耐えなかった。東門近くの池には、首を縄で縛り、両手を合わせてそれに八番鉄線を貫き通し、一家6人数珠つなぎにして引き回された形跡歴然たる死体があった。池の水が血で赤く染まっていたのを目撃した」 悪鬼も目をそむける惨たらしい所業ですが、その後の調べで、襲撃した連中は襲撃対象の日本人居宅を、あらかじめリストアップしていたことが分かっています。通州事件は、仕組まれた計画的な犯行だったのです。
通州での殺戮と略奪は、まる一日続けられましたが、ひとつだけ、涙なくしては語れない物語があります。ある人が、便槽に隠れていると、外で日本人の男性の声がしたのだそうです。その声は、日本語でこう叫んでいました。「日本人は隠れろ! 日本人は誰も出てくるな! 日本人は逃げろ〜っ!」必死の叫び声だったそうです。そして、ズドンという銃声。以降その声は聞こえなくなりました。中国兵に引きずられながら、その日本人男性は、最期の瞬間まで、自分のことではなく、ほかの日本人の心配をしていたのです。 だから「助けてくれ〜!」じゃなかったのです。「日本人は逃げろ〜!」だったのです。
このような事件が起こった場合、徹底的な報復と賠償を求めるというのが世界の常識です。4千名の居留民が襲われ、ほぼ無傷で全員が助かった義和団事件でさえ、当時の清朝政府の年間予算をはるかに上回る賠償請求がなされたのです。では当時の日本政府は、通州事件の後、いったいどのような要求をしたのでしょうか。実は事件後、日頃は仲の決して良くないといわれる陸軍省と海軍省の意見が一致し、内閣満場一致で決めた対策があります。それが「船津工作」です。
日本と中国国民党は同年8月9日に上海で、船津工作に基づく現地停戦協定を結ぶことになりました。そして、いよいよその協定締結のその日の朝、上海で起こったのが、大山中尉虐殺事件です。この事件は海軍上海陸戦隊の大山勇夫中尉が車で走行中に、中国の保安隊に包囲され、機関銃で撃たれて殺されたものですが、実はそれだけではなく、射殺後、中尉を車外に引きずり出して、頭部を青竜刀でまっ二つに割るという猟奇性も帯びていました。この緊急事態発生によって、当日予定されていた日本と国民党との和平会談はご破算になります。
事件はそれだけにとどまりませんでした。その一週間後には、日本への帰国避難のために上海に集結していた約3万の武器を持たない日本人民間人に、中国側は5万の精鋭兵をさしむけてこれを包囲全滅させようとしたのです。このときの日本側の守備隊は、海軍陸戦隊のわずか2200名です。
話し合っても解決しない。でも戦争はしたくない。ではどうしたら良いのでしょうか。おそらく日本人は、誰も答えられません。なぜなら日本には、そもそも戦って相手を屈服させ服従させるという文化がないからです。
身近な例で説明してみます。仮に家の車庫の前に、お隣の旦那さんが勝手にクルマを停めてしまったとします。これではクルマを出したいのに出すことができません。そんなときみなさんなら、どうされるでしょうか。おそらくお隣さんの玄関のチャイムを鳴らして、次のように言うのではないでしょうか。「すみません。クルマを出したいので、停めてあるお車をどけていただけないでしょうか?」
なんと迷惑をかけられたほうが謝り、お願いをしています。諸外国では考えられないことです。もっというなら、多くの場合、自分の家のクルマを動かす必要が出るまで、お隣さんのクルマを放置します。つまり我慢するのです。 そしてどうしようもなくなったとき(クルマを車庫から出さなくてはならなくなったとき)になると、そこではじめてお隣さんに、なんと「謝罪とお願い」に行くのです。これが日本人です。
どうして日本人はそのようなことをするのでしょうか。迷惑をかけているのは相手なのです。大きなハンマーを持ち出して、「おーい、出てこい。出てきてこのクルマをどかしなさい。 さもなくば、このハンマーでたたき壊すぞ!」ということは、まずしません。このことを、単純に図式化してみると、実におもしろい対比となります(諸外国: 問題が起きる→話し合う→戦う(争う)、日本人: 問題が起きる→我慢する→謝罪する)。
どうして日本人が、そのような行動をとるかといえば、答えは簡単です。日本人は、どこまでも「和」を大切にしようとするからです。戦えば恨みが残ります。そんな恨みをいつまでも引きずるくらいなら、最初から喧嘩や争いごとなどしないで少々のことは我慢しようと考えます。そもそも問題が起きるのは、「自分に徳がないからなのだ」と思い、それに則した行動をするのが日本人であり日本国です。このことは戦前も戦後も何も変わりません。
こうした日本人の思考や行動を、果たしてNHKの方々は理解しているのでしょうか。歴史を直視しているといえるのでしょうか。戦争が悪かった、いけないことだと繰り返すだけでなく、なぜ日本人が、本当の意味で我慢に我慢を重ねてきたことを描こうとしないのでしょうか。それはただ日本が戦争に負けたからでしょうか。そうだとするならば、それは卑怯であり卑劣です。日本は我慢しました。我慢して我慢してどこまでも我慢して、そしてどうにもならなくなったとき、日本は正々堂々と宣戦布告をし戦いを挑んだのではないでしょうか。
歴史を俯瞰すれば、日本人の「戦」は単なる殺し合いではなく、敵と味方との間に「和」を築くための大きな試練であったといえるのではないでしょうか。敵をただ殺すのではなく、敵も味方も生かそうとする、この形容しがたい精神の奥深さこそ、日本精神の神髄です。それが普通の日本人にとっては、あたりまえの思考であり行動であり、国家としての意思と行動でもあったのです。それがまるで理解できないというのなら、その人は、果たして日本人なのでしょうか。
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あとで見ようと思い貼付けました。
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80年前の1937年7月29日、北支の通州で「通州事件」が起こった。 私は、悪獣も及ばぬ猟奇の惨殺劇「通州事件」を日本の教科書に記述して、支那人の残虐性を日本の子供たちに教えておくべきだと考えている。 また、旧日本軍の独立歩兵第12連隊の奈良晃連隊長の三男、保男さん(87)が集会に参列した300人に呼びかけたように、通州事件をユネスコ(国連教育科学文化機関)の『世界の記憶』に登録するべきだ! 今年は通州事件から80年の節目でもあるため、新たな本なども出されている。 <br /> 「通州事件 目撃者の証言」 (自由社ブックレット5) 藤岡 信勝 著 2016/8/7 <br /> 「日本人が知らなくてはいけない通州事件 80年目の真実」 (英和ムック) ムック 藤岡信勝著 2017/3/21 http://blog-imgs-110.fc2.com/d/e/l/deliciousicecoffee/Survivor_of_Tungchow_Mutiny.jpg 通州事件の生存者 1937年7月29日、支那の保安隊が日本人居留民約260人を大虐殺した! 犯人は、支那の国民党軍でも共産党軍でもなく、事件前までは親日的だった「冀東防共自治政府」の保安隊だった。 しかし、支那保安隊が日本人居留民を大虐殺した最大の原因が支那国民党の南京政府の御用放送局(南京放送)によるデマ放送であり、保安隊が国民党軍(支那軍)に寝返るための日本人大虐殺だったので、支那軍による大虐殺といって良い。 【7月27日頃、北京特務機関がキャッチした南京放送ニュース】
日本軍を撃破した支那軍(宋哲元軍=29軍)が、冀東防共自治政府(通州)に攻め込んで来れば、今まで親日だった支那保安隊は漢奸として処刑される。 そこでの支那保安隊の連中は、日本人を大虐殺し、親日の冀東防共自治政府の殷長官を捕らえ、これを手土産にして北京の宋哲元へ馳せ参ずることを決意した。 通州大虐殺事件の原因については、事件の2日前にあった日本軍による保安隊への誤爆や、事前に国民党と保安隊に密約があった計画的犯行など、今でもいろんな説があるが、最大で直接の原因が支那の蒋介石政府の南京放送によるデマ報道だったことは間違いない。 支那保安隊の連中は、日本人大虐殺を手土産にして意気揚々と支那軍(宋哲元軍=29軍)が居ると思い込んでいた北京へと向かった。 ところが、そこにいたのは支那軍(宋哲元軍=29軍)ではなく、実際には日本軍だった。 日本軍による誤爆が原因なら、支那保安隊が日本人を大虐殺した後に日本軍の居る北京に向かうわけがない。 北京に居るのが支那軍(宋哲元軍=29軍)ではなく日本軍だと知った支那保安隊の連中は慌てて逃げたが、日本軍に捕まった。 中島顧問は「機関銃をくれ、仇をとってやる」と息まいた。 しかし、「それでは暴に酬ゆるに暴を以ってするだけだ。」と止められ、結局、支那保安隊の連中は収容もされず城外に放置されただけとなった。 理由は「収容すると飯を食わさにゃならん。本当は鉛の弾を食わしたいくらいなのに、飯などもったいない。」という事だったが、支那保安隊の連中は後に移動して支那軍に加わった。 これが当時の日本軍であり、お人好しぶりは今の日本人と変わらない。 支那保安隊の連中が通州で大虐殺した日本人を手土産に北京に行ったことは、事件の直接の原因が【支那国民政府の南京放送のデマ報道】だったことを裏付ける。 http://blog-imgs-34.fc2.com/d/e/l/deliciousicecoffee/118627765956116101447.jpg http://blog-imgs-34.fc2.com/d/e/l/deliciousicecoffee/118627728397316421068.jpg 通州事件では当時日本の外務省が公式声明を発しており、東京裁判で弁護団は通州事件に関する外務省公式声明を証拠として提出しようとしたが、ウェッブ裁判長が却下。 ただ、通州事件の目撃者3人の宣誓口供書は受理された。 その宣誓口供書の一部は次のとおり。
http://blog-imgs-59.fc2.com/d/e/l/deliciousicecoffee/20130507010232770.jpg http://blog-imgs-59.fc2.com/d/e/l/deliciousicecoffee/20130507010548f16.jpg 1937年7月30日、通州事件翌日の通州。南門から北門方面を見る。 http://blog-imgs-59.fc2.com/d/e/l/deliciousicecoffee/20130507011040727.jpg 被害甚大の近水楼 以下、北博昭「日中戦争の未公開写真−写真資料が語る通州事件−」、『歴史読本 九月号』第44巻第11号、新人物往来社、1999年9月1日、 156 - 163頁より。 http://blog-imgs-110.fc2.com/d/e/l/deliciousicecoffee/Massacred_corpse_of_a_Japanese_victim_of_the_Tungchow_Massacre.jpg 犠牲者の虐殺体。被害者の氏名が判明しており、プライバシー保護のために目にマスク処理をしている http://blog-imgs-110.fc2.com/d/e/l/deliciousicecoffee/Massacred_corpses_of_Japanese_victims_of_the_Tungchow_Massacre_1.jpg 日本人居留民の遺体 http://blog-imgs-110.fc2.com/d/e/l/deliciousicecoffee/Massacred_corpses_of_Japanese_victims_of_the_Tungchow_Massacre_2.jpg 日本人居留民の遺体 以上、北博昭「日中戦争の未公開写真−写真資料が語る通州事件−」、『歴史読本 九月号』第44巻第11号、新人物往来社、1999年9月1日、 156 - 163頁より。 以下、下の動画より。 http://blog-imgs-44.fc2.com/d/e/l/deliciousicecoffee/20120728142840b2a.gif http://blog-imgs-44.fc2.com/d/e/l/deliciousicecoffee/2012072814300422f.gif http://blog-imgs-44.fc2.com/d/e/l/deliciousicecoffee/20120728143049b97.gif http://blog-imgs-44.fc2.com/d/e/l/deliciousicecoffee/20120728143219057.gif ■動画 通州事件の記録写真と南京大虐殺の捏造.mpg http://www.youtube.com/watch?v=JZl9wUDt5U4 実はユネスコへの登録については、平成28年から計画が持ち上がっており、申請する資料は東京裁判に提出された証言や外務省の抗議声明などの公的文書のほか、当時の新聞の号外なども予定されているという。(関連記事) 次の画像が、当時の「朝日新聞」と「東京日日新聞」(毎日新聞)の記事の画像だ。 http://blog-imgs-34.fc2.com/d/e/l/deliciousicecoffee/12580226574afbe701bf775.jpg 「東京朝日新聞」通州事件の記事 http://blog-imgs-88.fc2.com/d/e/l/deliciousicecoffee/8a503f0e-s.jpg 「東京日日新聞」(毎日新聞)の記事 所謂「南京大虐殺」は事実無根であり、日本軍が無辜の南京市民を虐殺した事実は1件も確認されていない。 したがって、当時は支那政府も日本政府も、全く「南京虐殺」については声明を発していなかった。 一方、「通州事件」については、当時の日本の外務省が公式声明を発していた。 つまり、日本人居留民約260人が大虐殺された「通州事件」ほどの事件が起これば当たり前のことだが、当時、内外において事件が認知されていた。 また、「通州事件」については、すぐに犠牲者名簿も作成された。 ところが、所謂「南京大虐殺」の場合、当時、支那政府も日本政府もその他誰も事件の認識がなく、よって当然犠牲者名簿などもなかった。 要するに、「南京事件」とか「南京虐殺」などというものは、当時は加害者側も被害者側も誰も全く認識していなかった不思議な不思議な事件なのだ。 このように「通州事件」と「南京事件」の差異を冷静に分析するだけでも、「南京大虐殺」「南京事件」が嘘っぱちのでっち上げであることが明白となる。 ◆虐殺事件の証拠(資料)一覧◆ ●済南事件 1.日本人犠牲者の名簿 ○あり 2.命令書 ×なし 3.当時の政府の認識 ○あり (田中外相宛西田領事報告など○) ●通州事件 1.日本人犠牲者の名簿 ○あり http://homepage1.nifty.com/SENSHI/data/tuusyuu00.htm http://homepage1.nifty.com/SENSHI/data/tuusyuu20.htm 2.命令書 ×なし 3.当時の政府の認識 ○あり (外務省の公式声明など○) ●南京大虐殺事件 1.犠牲者の名簿 ×なし (日本も×、蒋介石政府も×、汪兆銘政府も×、南京安全区国際委員会も×、南京市民も×、誰も作成せず) 2.命令書その他公式文書 ×なし 3.当時の政府の認識 ×なし (当時、日本にも×、何応欽にも×、蒋介石にも×、毛沢東にも×、国際連盟にも×、事件の認識×なし) ●カチンの森事件 1.ポーランド人犠牲者の名簿 ○あり 2.命令書その他公式文書 ○あり (スターリンが命令し、内務人民委員部長官ラヴレンティ・ベリヤが命令書に署名○) 3.当時の政府の認識 ○あり 加害者のソ連 ○あり 被害者のポーランド ○あり 濡れ衣を着せられたドイツ ○あり (事件3年後、収容所にいた元ポーランド軍将校、公務員、警察協力者、情報部員、憲兵隊員、獄吏等の遺骸を発見○) ●ホロコースト 1.犠牲者の名簿 ○あり (犠牲者や強制労働者ら1750万人の名簿○) 2.命令書その他公式文書 ○あり (ナチスの強制収容所などの実態が記述された約5千万件の公文書○) 3.当時の政府の認識 ○あり ●原爆投下 1.犠牲者の名簿 ○あり 2.命令書 ○あり (7月25日、トルーマンの決定を受けてグローブスが作成した「原爆投下命令書」がワシントンの陸軍戦略航空軍司令官カール・スパーツに手渡され、ポツダムにいる陸軍長官スティムソン、陸軍参謀総長マーシャルが承認し、陸軍参謀総長代理トーマス・T・ハンディがサインした公文書○) その他、膨大な文書○や記録フィルムなどの資料 ○あり 3.当時の政府の認識 ○あり (日本にも○、アメリカにも○、世界中の政府にも○、認識あり) ●ソ連による日本人拉致・シベリア強制連行・殺害事件 1.犠牲者の名簿 ○あり (死亡年月日、死因、埋葬地など全員○。犠牲者は50万人超で、ゴルバチョフ来日の際、名簿の一部のみ渡された) 2.命令書その他公式文書 ○あり (マリク駐日大使がモロトフ外相に宛てた文書で、「1946年12月時点で、まだ生存している抑留日本人が105万人以上居る」と記載○) 3.当時の政府の認識 被害者の日本 ○あり 加害者のソ連 ○あり 第3国の米国 ○あり ▼【慰安婦(戦地売春婦)強制】に係る証拠(資料)▼ 1.被害者の名簿 ×なし (戦地売春婦である慰安婦は実在したが、日本によって強制された被害者は皆無「0人」) 2.命令書その他公式文書 ×なし 3.当時の政府の認識 ×なし (当時、日本にも×、朝鮮総督府にも×、アメリカ政府にも×、強制の認識なし。1965年の日韓基本条約締結時の韓国政府にも×、全く強制の認識なし) ●関連記事 通州事件!7月29日で75年 支那保安隊が南京政府のデマ放送に騙され支那軍に寝返るために日本人居留民約260人を大虐殺 嘘っぱちの「南京事件」を教科書から削除し、忘れてならない事実「通州事件」を教科書に記述しろ http://deliciousicecoffee.blog28.fc2.com/blog-entry-4737.html ユネスコ記憶遺産に「通州事件」と「慰安婦と日本軍規律に関する文書」を登録申請!複数国の民間団体 http://deliciousicecoffee.blog28.fc2.com/blog-entry-6245.html この記事は、FC2ブログ「正しい歴史認識、国益重視の外交、核武装の実現」の約1日遅れのコピーです。
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