支那事変

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1938年11月13日、長沙市焼き払い(長沙大火Changsha fire)
1938年11月13日、長沙市焼き払い(長沙大火、Changsha fire)


平成30年(2018年)11月13日は、支那軍による「長沙市焼き払い」(長沙大火、Changsha fire)からちょうど80年になる。

80年前の1938年11月13日、支那の長沙市で、蒋介石の命令によって支那軍が長沙市に放火した!

支那軍が放った火は、2日間に亘って燃え続け、全市を焼き尽くし、夥しい数の支那人を焼き殺した!

なぜ、支那軍が支那の都市を焼き尽くして多数の支那人を焼き殺したのか?!

その理由(目的)は、放火を日本軍の仕業に転嫁して宣伝するためだった!




1938年11月13日、長沙市焼き払い(長沙大火Changsha fire)
1938年11月13日
■支那軍による長沙市焼き払い(長沙大火、Changsha fire)
【目的は、日本軍の仕業にして宣伝するためだった】

「お前たちはいったい何をしているんだ?」私は腹を決めて大声でたずねた。
「放火です、命令です」その連中は異口同音に答えた。
「敵は城内に入ったのか?」
「とっくに汨羅に迫って来ています」
火の手はますますふえる。
(略)
しかし火の手がどっと一斉にあがり、たちまちにして全市は大火に包まれた。駅に通ずる道路は両側から火に挟まれトンネルになった。
(略)
車に乗ったまま絶えず良心の呵責を感じていた。
沿道の情景はまったく目をおおうものだった。公路は避難人びとで埋まっている。子供たちを連れているもの、家財道具をかついでいるもの、泣くもの、叫ぶもの、罵るもの、ふとんをかぶったもの、老人を背負っているもの、傷ついたもの、身ごもっているもの、兵士、難民、みな入りまじってごったがえしている。警笛はひっきりなしに鳴り、車はたえまなくぶつかる。狼狽の情景はまさに形容のすべもなかった。
(略)
大火はまさに燃えさかっていた。長沙全域は火煙に包まれ、火煙の勢いは空を呑みつくさんばかりだった。
「どうやら、敵は長沙には入っていないらしいな」周恩来が感慨深げにいった、「もし敵が長沙に入っていたら、きっとぎりぎりまで追って来るだろう、まったく何の動きも見せないはずがない。・・・」

(中略)

長沙に火をつけたのは、国民党が蒋介石の指図でやった大仕事だった。彼らは一度派手な手柄をたてようと、クトゥーゾフがモスクワを焼き払ったのをまねて長沙焼き払いをしでかしたのだ。しかし、残念ながら日本軍はこれを道化役にしてしまい、ナポレオンを演じに登場してはくれなかった。全市に焼け棒杭の山を残し、百余万戸の家を焼き、そればかりいまだに総数もわからぬ傷病兵や年寄り、子供、病人などの市民を焼死させた責任は、いったい誰が負うのだろうか?
行政上の処分は――18日に警備指令艷悌、警備第二連隊長シュークン、公安局長文重孚の3人が銃殺された。
長沙の人びとは真相がわからなかったので、省主席の張文白(張治中)を怨んだ。
(略)
しかし、あだはかたきに、借金は貸し主にというもので、張文白を怨むのは見当ちがいである。張文白その他の連中は蒋介石の命令を執行しただけなのだから。私たちがのちに手に入れた確実な情報によれば、張文白は12日午前9時、長沙全域を焼き払えという、蒋介石の密電を受けとったのだ。したがって、長沙の大火に関する責任は蒋介石が負うべきもので、「3個の人頭」ですら本当のところは冤罪だった。

『抗日戦回想録』郭沫若自伝

抗日戦回想録―郭沫若自伝


周恩来が気づいたように、この時には幸いにも日本軍がまだ長沙には入っていなかったから、支那軍の嘘がばれ、日本軍は濡れ衣を着せられずに済んだ。

しかし、長沙市民にしてみれば、まったく無意味に家や街を焼き払われたことになる。

1938年11月13日に行われた長沙市焼き払い(長沙大火、Changsha fire)による 死者の数は、2万人以上という。



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▼清野作戦に関する記録▼

●清野作戦(焦土作戦)
支那軍は敗走時、日本軍が利用できる物を何も与えないようにするため、民衆から食糧などを奪い、民家などを焼き払う「清野作戦」(焦土戦術)を行った。

上海〜南京、また、南京城壁の周囲1〜2キロにある居住区全域と南京城から半径16キロ以内にある道路沿いの村落と民家を強制的に焼き払った。

南京戦の前後も、支那軍や盗賊による強奪に伴い殺害も発生した。



1937年に行われた支那軍による主な「清野作戦」(焦土戦術)▼
――――
ラーベ
1937年11月16日、蘇州では、舞い戻ってきた中国の敗残兵によって、ひどい略奪が行われたという。済南の手前にある鉄橋が中国人の手によって爆破されたという。日本人の進攻を防ぐため。


――――
孫元良
やがて我々は崑山から蘇州に後退し、ここで一休みできる筈だったが、蘇州は既に秩序が乱れ収拾不能な都市になっており、我々に休む間を与えなかった。

――――
第九師団・第36連隊長・脇坂次郎氏
上海から南京に進軍中、我が部隊は常に先頭に立ったが、沿道の部落の家屋が焼却され、毀損され、また家屋内が略奪されていたのが相当認められた。
これは支那軍が退却に際し、方か、破壊した、支那軍民の常習たる戦時の略奪によるものであると、支那人民から聞いた。


――――
第九師団・山砲第九連隊・第七中隊長大内義秀氏
わが部隊は、蘇州へ向けて進撃すべく命をうけ、第一線部隊として進み、蘇州到着までは、ほとんど敵の抵抗を受けなかったが、蘇州に至る間の部落は酷く焼かれ、屋根のある家は少なく、住民もいなかった。
このような破壊は、支那軍が退却に際して行ったものと認める

――――

第三師団・野砲兵第五連隊・第一大隊観測班長大杉浩氏
上海から南京へ行く途中のある部落で、稲の堆積されたものが、焼き棄ててあるのを見た。
部落民にその理由を尋ねたところ、それは支那軍が退却の際、日本軍に渡さない為、焼却したと説明を受けた。


――――
ミニー・ヴォートリン
1937年12月6日
UP特派員のマクダニエルがきょう話してくれたところでは、きのう句容へ行ってみたが、人が住んでいる村はただの一つもなかったそうだ。中国軍は村びとを一人残らず連れ出し、そのあと村を焼き払っているのだ。まったくの「焦土作戦」だ。
1937年12月8日
中国軍に自宅から即時立ち退きを命じられ、これに従わなければ、反逆者とみなされて銃殺される。軍の計画を妨害すれば、家が焼き払われる場合もあるそうだ。

――――




1938年に行われた支那軍による「清野作戦」(焦土戦術)▼

英国の通信社「ルーター」(ロイター)も、蒋介石が焦土戦術を命令していたことを報じていた。
昭和13年7月12日 東京朝日
【漢口発特電十一日発(ルーター特約)】
 蒋政権当局は支那軍に対し九江退却に先立ち、 日本軍の軍事行動に便宜を与えるごとき財産或いは建造物は、 何物たるを問わずこれを破壊し去るよう命令を発した。
 九江に権益を有する外国商社のうち亜細亜石油公司及び怡和・太古の両汽船会社(いずれも英国人経営) は、その所有財産が右破壊令の対象となることを恐れ、 蒋介石に対し右破壊令の施行範囲を最小限に留むるか、または、特殊の物件に限り適用するよう、今や躍起となって申し入れを行っている。
 しかし、支那側は、もしこれら各社の施設が日本軍の手に渡れば、必ず日本軍の軍事行動を助けることは必定であるから、支那側は、退却に先立ちその欲するところにより、これらの施設を破壊する完全なる権利を有するとの見解をとっていることは明らかである。
 商社側は依然申し入れを行っている。なお近く南昌、信陽、岳州等の諸都市に対しても、おそらく同様の命令が発せられるものと見られている。



1938年10月19日
支那軍は広東東方約50キロの増江の橋を爆破し増城城内を焼いて退却した。




1938年10月21日
日本軍は広東に突入したが、支那軍は街に火を放って退却した。
國史図書刊行会篇の『支那事変』の254頁には、市街はもうもうと上がる黒煙と炎で包まれ、これを、珠江の対岸から見ている日本兵の姿が写っている。
また、255頁には、逃げ遅れた老婆を背負って避難地まで運んでいる日本兵の姿も写っている。

写真は広東で支那軍による放火で「逃げ遅れた老婆を避難地まで背負う日本軍兵士」写真集『支那事変』国書刊行会P255
写真は広東で支那軍による放火で「逃げ遅れた老婆を避難地まで背負う日本軍兵士」
写真集『支那事変』国書刊行会P255




1938年10月25日
支那軍は武漢撤退の際、街を爆破する目的で全ての建物に爆弾をしかけたが、英国海兵隊員らが必死で爆弾を撤去し、支那軍がスィッチを入れた時、爆破されたのは日本人所有の家屋だけだった。




1938年11月13日
支那軍は日本軍が長沙に迫っているとの噂を信じ、長沙の街を略奪・放火した。
火は二日間燃え続けたが、日本軍が来なかったため、日本軍に犯罪を転嫁出来なかった。
仕方なく、蒋介石は警備や公安の責任者を銃殺刑に処した。

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1938年11月13日、長沙市焼き払い(長沙大火Changsha fire)
1938年11月13日、長沙市焼き払い(長沙大火、Changsha fire)

●関連記事
南京虐殺は嘘65・支那軍による虐殺5・清野作戦(焦土作戦)
http://deliciousicecoffee.jp/blog-entry-3154.html
南京虐殺は嘘70・支那軍による虐殺10・長沙市の焼き払い・目的は日本軍を悪者にするため
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激論「南京事件」秦郁彦と山田朗はマジキチ無知!民間人に混じった便衣兵を確実に選び出すことは可能
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パックン「平和憲法を五輪の時に放棄するのか?海外や隣国の皆さんが注目している」・小松靖が反論
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転載元転載元: 正しい歴史認識、国益重視の外交、核武装の実現

温故一九四二


 

「温故1942」と「蝗」を読む 「河南の会戦」における日本軍の中国飢餓難民救済の再評価のために

より
一部抜粋。

 積極的平和主義、平和維持活動、人道支援、さらには人道的介入という脈絡で、日本の動勢が新たな段階に進もうとする状況において、1943〜44年、中国・河南の大飢饉に対する日本軍の救援活動が中米のプロパガンダでかき消された歴史は教訓とすべきである。
1)
 劉震雲の中篇小説「温故一九四二」(劉燕子訳『温故一九四二』中国書店、二〇〇四年)では、河南の大飢饉(人災が引き起こした干害・蝗害の大災害)により、約三千万の人口の一割が餓死するという悲惨な状況と、その中を進駐した日本軍が難民に軍糧を供出し、救援することで大災害を終息させた歴史が生き生きと描かれている。言動や表情などは作家のイマジネーションが駆使されているが、基本は史実に基づいており、歴史を考える参考となる実録小説である。





前掲『1942飢餓中国』の第一章では、蒋介石率いる国民党軍の無差別破壊「焦土作戦」の一つ「黄河決壊(花園江決堤)事件」(火の対極の水だが同類)について述べられている(pp.16ff)。これは大飢饉の原因を捉えるために重要である。
 その五年前、一九三七年一二月、日本軍は南京に進駐し、その後も国民党軍を追撃した。これに対して、国民党軍は一九三八年六月、「黄河決壊事件」を実行した(中国でしばしば用いられる「焦土作戦」の一つ。火と水は正反対だが性質も結果も同様なので「焦土作戦」に含める)。現在では、国民党軍が日本軍に打撃を与えるべく意図的に黄河を氾濫させたことが明らかになっているが、当時、蒋介石政権(重慶)は、決壊は日本軍によるものだと宣伝した。
 この大規模な破壊(人災)の被害は甚大で、自然環境が荒廃し、四年を経て、一九四二〜四三年、河南省を中心に干害と蝗の虫害が複合した大災害が起きた。
 ところが、蒋介石政権は「焦土作戦」に止まらず、過大な課税、徴発、徴用を強引に押し進め、その結果、民衆はますます疲弊し、大飢饉が起きた。蒋介石政権は救援や復興など全く考慮されず、わずかに外国人の宣教師たちのボランティアの救援活動があるだけだった。
 このため、救援活動は焼け石に水の如く、この人災と天災の複合的大災害はいつ終息するか、全く展望の持てない絶望的な状況が続いていた。しかし、先述したように日本軍が軍糧を供出して飢餓難民を救援し、大災害を終息させた。
4)
  ところが、この時期、アメリカでは、『タイム』誌一九四三年三月一日号の表紙に宋美齢(蒋介石の妻)の肖像が掲載されるなど、蒋介石夫妻をヒーローに祭り上げて助勢するプロパガンダが展開されていた(前掲『1942飢餓中国』p.146にコピーが収録)。このジェノサイド的な無差別破壊作戦を黙認したどころか、プロパガンダで暴政を助勢したのである。この問題と道義的な責任は、歴史に明確に記録されなければならない。
 さらに、プロパガンダは日本軍の「侵略」を全面に押し出し、難民救済が正当に評価されないどころか、隠蔽され、その被害を転嫁された。
 しかも、民衆が歓迎したものの、「当時の敵の出方を簡単にいうと、蓋をあけてみたら赤くなっていた」という結果である(方面軍参謀長大城戸三治中将の回想)*1。順調に進駐から統治へ進んだと思っていたら「赤」=共産党が勢力を拡大していたというのである。これでは、侵略の非難を受け、漁夫の利はさらわれ、まさに骨折り損のくたびれもうけと言わざるを得ない。
 その上、現在もなお日本の戦争責任が問われ続ける(政治・外交の利用・悪用の傾向さえ強い)一方、この難民救済は歴史に埋もれたままであある。プロパガンダと史実の隠蔽が今もなお持続しているとさえ言える。
5)
 これから日本は積極的平和主義、集団的自衛権という政策に沿って、国際社会で新たな責務を担うようになると思われる。その際、「河南の会戦」は再考に値する。それは、天災と暴政による人災の人道的な危機に対する人道的介入、人道支援の側面(部分)もあるからである。その史実を再評価しつつ、プロパガンダによる攻撃と責任転嫁などをしっかりと教訓にしなければならない。





映画の本編がありました。日本語字幕なし。

黄河決壊の映画は世界でこれだけでしょう。

所信表明演説、安倍カラー払拭、対話重視

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20071001-00000916-san-pol


所信表明演説、安倍カラー払拭、対話重視だが新味なし
10月1日13時17分配信 産経新聞

(一部抜粋)


 小泉・安倍路線からの決別−。福田康夫首相は就任後初の所信表明演説で、前任の2政権の政治手法や方向性の「違い」を鮮明にした。
・・・・・
また、国会運営などで強力なリーダーシップを発揮しようとした小泉、安倍両氏とは一線を画し、野党との対話を重視するなど「協調路線」を前面に掲げた。それだけにインパクトや新鮮味に欠ける内容となったともいえる。
・・・・・

 また、憲法改正や集団的自衛権の行使をめぐる記述はないなど、「安倍カラー」は完全に打ち消されたともいえる。
演説で示した政策の多くは具体性に欠き、総花的な内容で埋められた。
 逆に目立ったのは、3日から本格論戦が始まる国会運営に配慮し、野党との協調姿勢を繰り返し表明したことだ。

 外交面でも、北朝鮮問題でその姿勢が反映されている。

安倍氏は「拉致問題の解決なくして国交正常化はない」と強硬姿勢を鮮明にしていた。これに対し、福田首相は「不幸な過去」の清算にも言及し、従来の圧力だけでなく対話も織り交ぜる考えをにじませた。
・・・・・
――――――






>また、憲法改正や集団的自衛権の行使をめぐる記述はないなど、「安倍カラー」は完全に打ち消されたともいえる。



福田は憲法改正を踏み止まらせたいのだろう。





>安倍氏は「拉致問題の解決なくして国交正常化はない」と強硬姿勢を鮮明にしていた。これに対し、福田首相は「不幸な過去」の清算にも言及し、従来の圧力だけでなく対話も織り交ぜる考えをにじませた。



不幸な過去の清算?

福田は何が、「不幸な過去」なのか具体的に説明してみろ!






――――――
●李氏朝鮮時代(日韓併合前)

併合前の朝鮮は地獄だったといってよい。
玄永燮




両班たちが国を潰した。
賎民は両班たちに鞭打たれて、殺される。
殺されても、殴られても、不平は言えない。
少しでも値打ちがあるものを持っていれば、両班が奪っていく。
妻が美しくて両班に奪われても、文句をいうのは禁物だ。
両班の前では、全く無力な賎民は、自分の財産、妻だけでなく、生命すらその気ままに委ねられている。
口一つ間違えればぶったたかれるか、遠い島へ流される。
両班の刃にかけられて、生命すら保つことができない。
『血の涙』李人稙(1862-1916)


朝鮮の両斑は、いたるところで、まるで支配者か暴君のごとくふるまっている。
大両斑は、金がなくなると、使者を送って商人や農民を捕らえさせる。
その者が手際よく、金を出せば釈放されるが、出さない場合は、両斑の家に連行されて投獄され、食物も与えられず、両斑が要求する額を払うまでムチ打たれる。
両斑の中で最も正直な人たちも多かれ少なかれ自発的な借用の形で自分の窃盗行為を偽装するが、それに欺かれる者はだれもいない。
なぜなら両斑たちが借用したものを返済したためしが、いまだかってないからである。
彼らが農民から田畑や家を買うときは、ほとんどの場合、支払いなしですませてしまう。
しかも、この強盗行為を阻止できる守令は一人もいない。
『朝鮮事情』マリ・ニコル・アントン・ダブリィ主教








●日韓併合(日本統治)時代

階級による身分差別を撤廃し、両班による搾取・虐待から農民を救い、移住の自由を認めさせ、残酷な拷問や刑罰や一族の罪人連座法などを廃止し、女性再婚の自由を保障し、人権尊重などの法治国家の基礎をつくり、学校教育制度を導入し、読み書きを教え、ハングル文字を復活・普及させ、台湾では運動が起きても1〜2%にしか許可しなかった改姓名だが、85%の朝鮮人には創氏改名を許可し、鉄道網、道路網を整備し、港の開設工事をし、水力発電所を建設し、重化学工業を興し、緑化政策によって山野を甦らせ、不毛の地を開拓し、河川大事業で洪水を減少させ、水田を倍増させ、世界中から世界一不潔と言われた町々を清潔にし、近代医療制度を導入し、平均寿命を24歳から45歳にのばし、人口を2倍にし、内地(日本)への渡航規制を犯して来る密航者にも寛容に対処した。
――――――







そして、福田が言う「清算」とは何を意味するのか?

過去の資産を清算すると、北朝鮮は日本に5〜6兆円支払わなければならなくなる。

アホの福田は分かって言っているのだろうか?!




――――――
日本資産 「北」に8兆円
財産請求権行使なら北朝鮮が6兆円不利

2002/09/13、産経新聞

 日本が1945年当時、朝鮮半島の北朝鮮地域に残した資産総額は、現在の価格に換算して約8兆7千8百億円に上ることが12日、分かった。

日朝双方がサンフランシスコ講和条約の財産請求権を行使した場合、日本が北朝鮮に支払う額より、北朝鮮が日本に支払う額の方が約5、6兆円超過し、北朝鮮側が大幅に不利になるとされる。

現体制維持のために不可欠な巨額資金が必要とされる北朝鮮が「補償」要求から一転して「経済協力方式」に応じる構えをみせ始めた最大の理由には、そうした不利を回避するねらいがあるとみられる。

 戦前に日本が朝鮮半島(北朝鮮と韓国)に残した総資産は、連合国軍総司令部(GHQ)や日本銀行、旧大蔵・外務両省がそれぞれ調査を実施している。

GHQの試算では1945年8月15日時点で1ドル=15円で総資産891億2000万円。総合卸売物価指数(190)をもとに現在の価格に換算すると、16兆9300億円に相当する。

 このうち、政府、個人資産と港湾など軍関連施設以外の資産は、鴨緑江の水豊ダムなど北朝鮮に残したものが当時の価格で445億7千万円。軍関連資産は16億5千万円となり、非軍事と軍事の両方で462億2千万円。総合卸売物価指数の190を掛けると現在価格で8兆7千8百億円相当となる。

 逆に北朝鮮の日本に対する財産請求額を推定する材料として、韓国政府が1949年3月に米国務省に提出した「対日賠償要求調書」がある。金や美術品など現物返還要求分を除き、要求総額は314億円(1ドル=15円)で、現在の価値に換算すると5兆9600億円。これは北朝鮮地域の財産も一部含めた額とみられる。

このため、サンフランシスコ講和条約に基づく北朝鮮の国際法上の請求額はこれをさらに下回り、「日本との差額は5兆−6兆円になると推定される」(政府関係者)。

 北朝鮮側は、91年に始まった日朝国交正常化交渉から、日本政府に対し、数千億円から約1兆円に上る「補償」を要求してきたとされる。

 だが、日本政府は講和条約という国際法上の権利と65年の韓国との国交正常化とのバランスを考慮。現実的な解決策として、メンツよりも実利を優先させた「経済協力方式」による資金提供には応じられるとの方針を伝えてきた。

 拉致問題やミサイル開発・輸出、核査察問題がクリアされることが条件となるが、日本政府としては、法的権利として日本も財産請求権を持つことをさきの局長級協議で通告。

首脳会談ではこうした実態を踏まえたうえで、「経済協力方式」による解決を北朝鮮側に促していく考えだ。




【財産請求権】
定めたサンフランシスコ講和条約(1952年発効)で、日本が整備した鉄道、港湾や預貯金、保険などの財産について、日本と韓国(北朝鮮)が互いに請求できる権利が認められた。
(以下略)
―――――――






日本が朝鮮半島に残した資産

戦前に日本が朝鮮半島(北朝鮮と韓国)に残した総資産は、16兆9000億円

更に、日本人が朝鮮半島に残してきた個人資産は4兆9000億円



―――――
■朝鮮半島に残した日本の資産■
(GHQ資料など/1ドル=15円)
昭和20年8月15日時点
 朝鮮半島全体          891.2億円
 北朝鮮               462.2億円
 韓国                429.0億円
―――――
現在価格
 朝鮮半島全体 891.2×190=16兆9300億円
 北朝鮮      462.2×190= 8兆7800億円
 韓国       429.0×190= 8兆1500億円
―――――

(注)「190」は国内外の企業間取引の価格を測るモノサシである総合卸売物価指数。
昭和9年から11年までの平均を「1」とした場合、平成13年は「666」。これを昭和20年の「3.5」で割った数値(日銀調べ)







つまり、日本が北朝鮮に請求できる財産は8兆7800億円で、北朝鮮が日本に請求できる財産は約3兆円程度のため、福田の言うとおりに日本と朝鮮が「不幸な過去」の清算をすると、日本が北朝鮮から5〜6兆円受け取ることになる。

しかし、厳密には、1965年の「日韓基本条約」によって日本は既に、北朝鮮の分まで請求権を放棄し、北朝鮮の分まで経済援助をし終えている。

福田は馬鹿なのだから余計なことを言わない方が良い。








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転載元転載元: 正しい歴史認識、国益重視の外交、核武装の実現

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20070623-00000065-jij-int


拷問される日本人妻見た=北朝鮮収容所で−脱北者証言
6月23日15時0分配信 時事通信

 【ロンドン23日時事】ロンドンを訪問中の脱北者、安明哲さん(38)は23日までに、時事通信とのインタビューに応じ、北朝鮮の政治犯収容所の警備隊員だった1993年ごろ、「拷問施設で日本人妻が棒で殴られているのを見た」などと生々しい証言を行った。

 安さんによると、女性は50歳ぐらいで、夫は朝鮮人。「『日本に帰りたい』と言ったために拷問を受けることになった」という。女性は後ろ手に縛られた上、両脚のひざ裏に角材を挟まれた形で前かがみに座らされ、看守が馬乗りになって棒でたたいていた。

 周辺の警備を行っていた安さんは、女性の悲鳴や反抗する声、棒でたたかれる音などを何度も聞き、「女性が自分の母親と同じぐらいの年齢だったので動揺した。恐らく女性はその夜に死んだと思う」と話した。


 この収容所は北朝鮮北部・咸鏡北道の会寧市にある。安さんは87年から勤務していたが、父親が体制批判を行って処刑されたのを機に脱出を決意、95年に中国経由で韓国入りした。
―――――――






まー、有りがちなニュースだが、この機会に朝鮮における拷問や監獄の変遷について紹介しよう。



●李氏朝鮮時代(日韓併合前)

併合前の朝鮮は地獄だったといってよい。
玄永燮


両班たちが国を潰した。
賎民は両班たちに鞭打たれて、殺される。
殺されても、殴られても、不平は言えない。
少しでも値打ちがあるものを持っていれば、両班が奪っていく。
妻が美しくて両班に奪われても、文句をいうのは禁物だ。
両班の前では、全く無力な賎民は、自分の財産、妻だけでなく、生命すらその気ままに委ねられている。
口一つ間違えればぶったたかれるか、遠い島へ流される。
両班の刃にかけられて、生命すら保つことができない。
『血の涙』李人稙(1862-1916)


朝鮮の両斑は、いたるところで、まるで支配者か暴君のごとくふるまっている。
大両斑は、金がなくなると、使者を送って商人や農民を捕らえさせる。
その者が手際よく、金を出せば釈放されるが、出さない場合は、両斑の家に連行されて投獄され、食物も与えられず、両斑が要求する額を払うまでムチ打たれる。
両斑の中で最も正直な人たちも多かれ少なかれ自発的な借用の形で自分の窃盗行為を偽装するが、それに欺かれる者はだれもいない。
なぜなら両斑たちが借用したものを返済したためしが、いまだかってないからである。
彼らが農民から田畑や家を買うときは、ほとんどの場合、支払いなしですませてしまう。
しかも、この強盗行為を阻止できる守令は一人もいない。
『朝鮮事情』マリ・ニコル・アントン・ダブリィ主教


李氏朝鮮の残酷な死刑や拷問に対して、
「こんな状況がまだこの地球の片隅に残されていることは、人間存在そのものへの挑戦である。とりわけ、私たちキリスト教徒がいっそう恥じるべきは、異教徒の日本人が朝鮮を手中にすれば真っ先にこのような拷問を廃止するだろうということだ」
『悲劇の朝鮮』スウェーデン人 アーソン・グレブスト







●日本の統監統治時代

李氏朝鮮時代の拷問は酷かったが、1905年に日本の保護国となり、統監統治が始まると朝鮮においても日本と同じようにすぐに拷問は廃止された。

朝鮮での拷問禁止は島村忠次郎(1907年、水原の京畿道地方裁判所の「法務補佐官」)が在職中に伊藤博文統監に申し入れて法令となった。
1908年の法令改正によって拷問した取調官は3年以下の懲役と定められた。
これにより、長年続いていた朝鮮での残虐な拷問は廃止となった。





●日韓併合(日本統治)時代

併合前は「1坪に15〜16人」詰め込んでいた監獄だったが、1910年の後半には「1坪当りの収監者数を5人以内」にし、1922年頃には「約2.9人」まで大改善された。
これによって囚人はいつでも横になって寝る事が可能になった。

階級による身分差別を撤廃し、両班による搾取・虐待から農民を救い、移住の自由を認めさせ、残酷な拷問や刑罰や一族の罪人連座法などを廃止し、女性再婚の自由を保障し、人権尊重などの法治国家の基礎をつくり、学校教育制度を導入し、読み書きを教え、ハングル文字を復活・普及させ、台湾では運動が起きても1〜2%にしか許可しなかった改姓名だが、85%の朝鮮人には創氏改名を許可し、鉄道網、道路網を整備し、港の開設工事をし、水力発電所を建設し、重化学工業を興し、緑化政策によって山野を甦らせ、不毛の地を開拓し、河川大事業で洪水を減少させ、水田を倍増させ、世界中から世界一不潔と言われた町々を清潔にし、近代医療制度を導入し、平均寿命を24歳から45歳にのばし、人口を2倍にし、内地(日本)への渡航規制を犯して来る密航者にも寛容に対処した。

(1928年頃から日本では特高警察による共産主義者の取調べが過酷となったが、共産主義者は殺人テロ集団だったので致し方ない。)






●現在

凍土の狂気が続く金正日強制収容所
「ネズミを焼いて食べ、シラミのわいた毛布で寝る、死ぬよりつらい」 
<木から線路に落ちた栗を拾おうとトロッコを止めた運転手(収容者)を、警備員が射殺した。撃たれた運転手は死んでもまだ栗をしっかり握りしめていました。ある時、男の収容者が空腹に耐えかね、雄牛のテール(尻尾)でつくった鞭を口に入れたら、たまたま警備員に見つかった。彼は叩かれたうえに、便所の腸内寄生虫を食べさせられ、2日後に息を引き取った。悲惨な話は山ほどあります。牛の糞の中に潰れていない豆があると、みんな我先に奪い合います。死人が出ると着ていた服を取り合い、生きている者が着る。人間の住むところではなかった>
(脱北者)








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●支那軍による苛酷な徴発、略奪、徴兵

【支那軍と支那人民の殺し合い】




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私はうけ合ってもいい、抗戦八年のあいだにこうしてふみにじられた同胞、いわゆる壮丁から弱丁になり、弱丁から病丁になり、病丁から死丁になって行った同胞の数は、戦死したもの、日本軍に殺されたものにくらべて、最低百倍は超えているに違いない。
『抗日戦回想録』郭沫若自伝
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一般住民に対して、徴発と略奪があまりしばしば行われたので、農民は日本軍(1)よりも彼等自身の軍隊(2)をさらに一層憎んだ。穀物を略奪されまいとして抵抗する農民を飢えた中国兵が殺したり、日本軍の進撃を免れるために逃亡兵が村民を殺し、その衣類を自分が着こんで変装するということも起こった(3)。日本軍の進撃を鈍らせて鄭州の町を守るために、政府は1938年に黄河の堰を開いた。すると、黄河は1世紀近く前から打ち捨てられたままになっていた古い河道を再び流れた。「思い切った」決定であったが、このために、河南省東部の数十万の農民が命を失った。彼等は水に溺れ、或は飢えて死んだのである。

(1)日本軍は食べ物が良かったので、中国兵ほどには盗みをする必要がなかった。

(2)この表現が不適当であることはいうまでもない。彼等はこの軍隊を決して自分たちの軍隊とは考えなかった。日本軍の兵士も国民党の兵士も、外からやってきた同じ禍であるのに変わりはなかった。

(3)例えば、1941年の春に、河南省と山西省の省境の山岳地帯で起こった。



軍隊の行動や戦争のやり方からだけでも、農民がどのような反応を示したかは想像に難くない。彼等は自らを守って生き延びようと努力したのである。彼等は国府軍の徴発する米に砂を混ぜ、白痴や片輪者を徴募兵として送り出し(1)、敵軍がその必要とする軍用道路の工事に働く苦力に高い賃金を払うとなると、たちまち大挙して日本占領地帯に移住した。時には、彼等は隊を組んで国府軍の敗残兵を襲撃し、団結して徴募係の役人どもを虐殺した。河南省では、当局の無関心、無能力、穀物のトン積、さらには投機のために、1942年から43年にかけて起こった飢饉(2)が大いに悪化したので、日本人が1944年にこの省に再び(3)侵入した時、彼らにとっては事はことのほかに容易だった。彼らが前進してくるにつれて、農民は国民党の軍隊を襲撃し、武装解除し、時にはこれにリンチを加えたのである。

(1)長々と述べるよりは、農民層の徴兵に対する態度を一層よく説明するような挿話をもう1つ紹介しよう。これは外敵の侵略による農民ナショナリズムの誕生を分析しようとする場合に、無視できないような生の事実の1つである。河南省の鞏県に住む或る貧農の夫婦は炭鉱の坑夫をしている1人息子の賃銀のおかげで漸く暮らしていた。年の頃は40歳前後のこの夫婦に突然2人目の息子ができたときに、徴募係の役人どもがやって来て、長男は軍隊に入らなければならないと夫婦に告げた。法規によれば、1軒の家で息子1人だけが徴兵を免除されることになっているからというのである。妻はもしその息子がいなくなれば、自分たちは飢え死にすると説明して、嘆願した。だが土地の役人たちは耳を傾けようとしなかった。すると、彼女は家に帰って、赤ん坊を地べたに続けざまに打ちつけて死なせてしまった。

(2)未確認の数字であるが、この飢饉のために凡そ200万の死者を出したといわれる。

(3)戦争の初期に、彼等は1度ここを占領したことがある。

『中国革命の起源1915−1945』ルシアン・ビアンコ著
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関連記事
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農民の飢餓救った日本軍 邦訳本出版 中国で映画化
06/4/9産経
(一部抜粋)
一九四二年、大飢饉で河南省の農民を救ったのは、日本軍だった。そんな歴史の真実をとらえ、ロングセラーとなっている中国小説がこのほど日本で翻訳出版された。劉震雲さん著、劉燕子さん翻訳の「温故一九四二」だ。
同小説は日中戦争の最中の一九四二−四三年、河南省を襲った干魃による被災民三千万人、餓死者三百万人という大飢饉の状況を農民、蒋介石ら指導者、米国人記者、日本軍の立場から多面的に描き出した。
飢饉の原因は天災だけでなく、中国軍の容赦ない軍糧のとりたてのせいでもあった。その中で、日本軍は餓死寸前の農民に軍糧を放出した。
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1944年の河南中部の戦いでは、「農具や粗末な武器で武装した中国の農民たちは、湯恩伯の軍隊が日本軍の前から退却して来るのを襲って、約5万の兵隊の武器を奪い、うち何人かの殺害さえも行った」。
『太平洋戦争とは何だったのか』クリストファー・ソーン著
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