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先日、とある質問を頂きました。
長くなるのでこちらで返信させていただくとともに、丁度良い機会ですので、別の話を交え、私なりの考えを書かせていただきます。
「実はある方が、意味がわからないとおっしゃるので悩んでいるのですが、難しいですか? 普通に理解できるとおもうのですが」
まず、その文章はこれ。サルトルの「聖ジュネ」に書かれている有名な一節です。
「わたしはさらにわたしの有罪性によって智への権利を獲得したのだ。
わたしはよく思ったものだ、思惟する権利を持たずに思惟する人々があまりにも多いと。
彼らはこの権利を思惟することが自己の救済のために不可欠である、という底(てい)の事業によって、購ったのではないのだ」
※購(あがな)う:何かを代償に手に入れること
※思惟する:一般的に「考える」事を意味しますが、こと哲学の世界においては、「感覚を概念化して判断・推理すること」を意味し、広い意味では「人間の知的精神作用」を言います
そして、これが理解できるか否か、という質問。
さて、この質問に答えるには幾つか不明な点があります。
この「意味が解らない」という方はどのような人物なのでしょう。
1.哲学に覚えがあり、サルトルも「実存主義」も知っている。
2.哲学に馴染みが無いが、この本の最初から最後まで読んでいる。
3.哲学に覚えはあるが、この部分の前後を知らない。
4.哲学も知らないし、この部分だけを読んだだけ。
また、「意味が解らない」という言葉そのものの意味がどういうものなのか。
1.サルトルがこれを書く意図が分からない
2.文章として意味を読み解けない
3.何を言わんとしているか分からない
4.内容は理解できるが心情的に全く共感出来ない
これらの条件によって「分からない」の意味が全く変わってきますね。
もし哲学に馴染みのない人で、前後を読んでいない人であるならば、率直に言って「理解できない」のが普通でしょう。
それは言葉の難しさや読解力の問題ではありません。
まず、この文章を紐解こうとすると、「聖ジュネ」自体読んでいなければ、「さらに」が前文から掛かってくる「更に」であるのかどうなのかも分からないし、知り得ない。
また、「有罪性」とは「犯罪」なのか、「生まれながらに持つ宗教的な罪」なのかも分からない。
「権利」とは何者から与えられるもの・奪うものなのか、単なる自己規制なのか。
「智」の定義は何か・・・。
「思惟する権利」とは、「文化人」と呼ばれる高飛車な鼻つまみ者が、あたかも己の様に優れている者でなければ「思惟する権利など無い」と言う傲慢なのか、それとも自らを律するものなのか、宗教的な規制なのか。
これが「哲学マニア」であったり、サルトルを読んでいたりすれば分かるでしょう。
しかし、この文章だけを頼りに紐解こうとすれば破綻が生じます。
それは二重にも三重にも言葉が掛かっており、言葉遊びでしか無くなるからです。また、これは明らかにわざと分かりにくく書かれています。
つまり、この文だけ読んで「分かった」と言うのであれば、それは自己解釈に過ぎず、サルトルが言わんとしていることであるかどうかは分からない。
「自分だけの道筋を作った」と言わざるを得ません。
それは簡単です。
その目的が「考えること」にあり、その意味を読み解こうと思考を巡らせ、答えを見つける事に意味があるからです。だから分かりにくく書いてある。
もし「分かりにくくなど無い」と言うのであれば、それは「慣れ」に過ぎません。
「哲学」のパターンを熟知していればこそ、すぐに「ピーン」と来るのです。
例えば私の場合、ショートショートや推理モノ、マジックなどはすぐに仕掛けが見える。
でもそれは「慣れ」であり、優秀であるとかそういう事ではないのです。
私なら、分かりやすく簡潔にまとめるでしょう。でも、「それは哲学ではない」と蔑まれることは必至。
行き場を失い、しかしそれに抗い私は理想を求める。
そして行き着く道は、「格言」。そんな気がします。
「精神分裂病患者はもはや生活をもたぬというかぎりにおいて、生存の倫理的意味を持たないのである」
この文章も仕掛けられています。
予備知識の無い私が普通に読めば、「精神病患者は『通常の生活を送れない』という事においては、生きる事に人としてあるべき道など関係ないのだ」と読めます。
しかし、読みようによってはまだ二つ三つ違う解釈も出来る。
「生存の倫理的意味」の観点を、「自分」から「社会・第三者」にお置き換えただけで、全く違う意味になります。
時代による背景も関係してきますね。
「生活を持たぬ」は、「営む能力」の問題なのか、当時「精神病」と言うと病院の個室に隔離されましたから「その環境にない」という意味なのか、「限りにおいて」を使っている所も曲者です。
でも、どうなのでしょう。
私が読んでいるこの文は「翻訳されたもの」でしかありません。そこまで細かい言い回しを精査する事が、原文の意図を反映しているのかどうかも分からないのです。
まずもって本の全体像を把握していない。
時代も文化も違う異国の、しかも哲学という分野の翻訳。この翻訳者の思考が翻訳の傾向・癖として入り込んでもいるでしょう。
原書を読み、その言語の言い回しを理解できる社会的・時代的背景を知った上でなければ、安易に「分かった」とは言えません。
頓珍漢なこじつけならお得意ですが・・・。
正直に言うと、私はよく分かりません。読んでもいません。
サルトルの実存主義に詳しいようなので割愛しますが、「生きることが出来ない人間」に関することが多い、私には相容れない世界です。
哲学とは、もともと形のないものを分析し、言葉で意味をこじつけて行く、そういうものだと思っています。だからこそ好き勝手に言える。
己を肯定出来る者にとっては楽しい世界でしょう。分析を重ね、悦に入るには最高の肴だと思います。
しかし、自己否定の強い者にとってはどうでしょう。最後には自分を見失い、存在そのものを否定してしまう危険すらあります。
そんなものに翻弄されるほど不幸なことはありません。
「解放される」とは、幸せになること。
理屈に縛られることなく、一歩踏み出すための手助け。
私はそう思うのです。
他人のことを、さも本人より深く理解しているとでも言いたげに、
「僕の分析によると君の場合は・・・」
と上から物を言う人間。
嫌いですね。私もそうならないように気を付けましょう。
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