話題満載 池ちゃんの 『破常識』で行こう!

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哲学

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「理想」。
この言葉を考える上で、どうしても切り離せないのが、二千年以上前に活躍した古代ギリシャの哲学者、“プラトン”の著書に出て来る「イデア」です。
何故なら、そもそもこの“イデア”を翻訳するために“理想”という言葉は作られました(明治時代)。
 
理想の“理”は「真理」の“理”。物事の本質であり、そのものズバリを指し示す。それが“イデア”。
例えば、何かの理想を考えたとき、必ず相反する意見が出て来ます。
「理想の家」とは何だろう。
機能性があって温かみがあって、でも便利なだけじゃ駄目だ。
子供部屋も欲しいし、広い方が良い。でも歳を取ったら階段はキツイし、掃除も大変だ。
建てる時は理想と思えたものの、家族構成が変わり、ライフスタイルが変わると理想も変わって来ます。
 
しかし、イデアとは“理想そのもの”であり、不足するものなど無い、全てを備えたもの。
人にはその姿が見えないから、必死に追い求めるものの辿り着けない。
視点を変えると、ある種“芸術”に似ているとも思えます。
人生を賭けて最高・最終地を求め、やっとたどり着けたと思った瞬間に、そのまた上が見えてしまう。辿り着けたと思ったものの、それは道半ばであった事を知る。
しかし、人々は言います。「神に一番近づけた人」と・・・。
つまり、イデアの形は神にしか見えないものなのでしょう。
 
大事なのはここです。
到達地点が見えないからこそ、その地を目指す。
初めからそれを放棄するのは“逃げ”、もしくは“誤ったイデアの認識”でしかない。
 
人類と地球の共存というイデアを追えば、少なくとも原発を増やそうという思考にはなりません。
人類への貢献というイデアを追えば、論文の書き方ではなく“某細胞の一刻も早い実現と普及”に心血を注ぐでしょう。
世界平和というイデアを追えば、「改正」ではなく“日本国憲法を世界に広げる”事に目を向けるでしょう。
 
一つ一つが苦難の道であろうと、最終的にはイデアにベクトルが向いている。それこそが真理であるはず。
「理想ばかり語っていないで、少しは現実に目を向けたらどうだ?」
そんな輩には、「現実とは、理想に向かう途上のことである」。
そう言ってやりたいものです。
皆さんは「理想」と聞いて何を思い浮かべるでしょう。
「理想の家」「理想的なプロポーション」、あるいは「理想と現実」「理想論」。
 
「理想の○○」や「理想的な○○」と来れば、それは目標の到達地点であり、憧れや最上級の表現となるのですが、「理想論・理想主義者」と聞くと、「机上の空論」「現実を知らない使えない人」というニュアンスに変わります。
理想など追わぬ人ほど物事を良く知っている識者、「大人」である。あまり良い意味ではないこの認識が一般的ですよね。
 
しかし、私はここに大きな違和感を抱くのです。
人は、この世の全てに対して理想を追うべきではないのか。
結果がどうあろうと、掲げる目標はあくまでも理想であり、そこへ向かわなければならないのではないか。
 
では、何故“理想”という言葉が「絵に書いた餅・綺麗な絵空事」というニュアンスで捉えられてしまうのでしょう。
大きな原因に“対義語・反対語”の存在が考えられます。複数の言葉の対義語が混同され、本来の意味が歪められたのではないか。
 
まず「理想」の対義語を見ると「現実」と出てきます。その「現実」の対義語は「理想・空想」。
また、「夢」の対義語は「現(うつつ)・現実」ですから、“理想”の同義語が「空想・夢」という構図が頭の中に出来てしまっても不思議ではありません。
更に「空想」の意味は“現実にはあり得ないような事柄を想像すること”とあり、類義語として並ぶのは「想像・夢想・妄想・幻覚」。
ここまで来ると、もはや理想とは妄想に似た絵空事、堅実な人間が追うものではない、そう思えてしまいます。
 
理想。
それは一体何であるのか。
次回はその元となった言葉「イデア」と共に話を進めたいと思います。
先日、とある質問を頂きました。
長くなるのでこちらで返信させていただくとともに、丁度良い機会ですので、別の話を交え、私なりの考えを書かせていただきます。

「実はある方が、意味がわからないとおっしゃるので悩んでいるのですが、難しいですか? 普通に理解できるとおもうのですが」
まず、その文章はこれ。サルトルの「聖ジュネ」に書かれている有名な一節です。

「わたしはさらにわたしの有罪性によって智への権利を獲得したのだ。
わたしはよく思ったものだ、思惟する権利を持たずに思惟する人々があまりにも多いと。
彼らはこの権利を思惟することが自己の救済のために不可欠である、という底(てい)の事業によって、購ったのではないのだ」

※購(あがな)う:何かを代償に手に入れること
※思惟する:一般的に「考える」事を意味しますが、こと哲学の世界においては、「感覚を概念化して判断・推理すること」を意味し、広い意味では「人間の知的精神作用」を言います

そして、これが理解できるか否か、という質問。
さて、この質問に答えるには幾つか不明な点があります。
この「意味が解らない」という方はどのような人物なのでしょう。

1.哲学に覚えがあり、サルトルも「実存主義」も知っている。
2.哲学に馴染みが無いが、この本の最初から最後まで読んでいる。
3.哲学に覚えはあるが、この部分の前後を知らない。
4.哲学も知らないし、この部分だけを読んだだけ。

また、「意味が解らない」という言葉そのものの意味がどういうものなのか。
1.サルトルがこれを書く意図が分からない
2.文章として意味を読み解けない
3.何を言わんとしているか分からない
4.内容は理解できるが心情的に全く共感出来ない

これらの条件によって「分からない」の意味が全く変わってきますね。
もし哲学に馴染みのない人で、前後を読んでいない人であるならば、率直に言って「理解できない」のが普通でしょう。
それは言葉の難しさや読解力の問題ではありません。

まず、この文章を紐解こうとすると、「聖ジュネ」自体読んでいなければ、「さらに」が前文から掛かってくる「更に」であるのかどうなのかも分からないし、知り得ない。
また、「有罪性」とは「犯罪」なのか、「生まれながらに持つ宗教的な罪」なのかも分からない。

「権利」とは何者から与えられるもの・奪うものなのか、単なる自己規制なのか。
「智」の定義は何か・・・。
「思惟する権利」とは、「文化人」と呼ばれる高飛車な鼻つまみ者が、あたかも己の様に優れている者でなければ「思惟する権利など無い」と言う傲慢なのか、それとも自らを律するものなのか、宗教的な規制なのか。

これが「哲学マニア」であったり、サルトルを読んでいたりすれば分かるでしょう。
しかし、この文章だけを頼りに紐解こうとすれば破綻が生じます。
それは二重にも三重にも言葉が掛かっており、言葉遊びでしか無くなるからです。また、これは明らかにわざと分かりにくく書かれています。
つまり、この文だけ読んで「分かった」と言うのであれば、それは自己解釈に過ぎず、サルトルが言わんとしていることであるかどうかは分からない。
「自分だけの道筋を作った」と言わざるを得ません。


何故「哲学」は難しく書いてあるのか

それは簡単です。
その目的が「考えること」にあり、その意味を読み解こうと思考を巡らせ、答えを見つける事に意味があるからです。だから分かりにくく書いてある。

もし「分かりにくくなど無い」と言うのであれば、それは「慣れ」に過ぎません。
「哲学」のパターンを熟知していればこそ、すぐに「ピーン」と来るのです。
例えば私の場合、ショートショートや推理モノ、マジックなどはすぐに仕掛けが見える。
でもそれは「慣れ」であり、優秀であるとかそういう事ではないのです。

私なら、分かりやすく簡潔にまとめるでしょう。でも、「それは哲学ではない」と蔑まれることは必至。
行き場を失い、しかしそれに抗い私は理想を求める。
そして行き着く道は、「格言」。そんな気がします。

「精神分裂病患者はもはや生活をもたぬというかぎりにおいて、生存の倫理的意味を持たないのである」

この文章も仕掛けられています。
予備知識の無い私が普通に読めば、「精神病患者は『通常の生活を送れない』という事においては、生きる事に人としてあるべき道など関係ないのだ」と読めます。
しかし、読みようによってはまだ二つ三つ違う解釈も出来る。
「生存の倫理的意味」の観点を、「自分」から「社会・第三者」にお置き換えただけで、全く違う意味になります。
時代による背景も関係してきますね。
「生活を持たぬ」は、「営む能力」の問題なのか、当時「精神病」と言うと病院の個室に隔離されましたから「その環境にない」という意味なのか、「限りにおいて」を使っている所も曲者です。

でも、どうなのでしょう。
私が読んでいるこの文は「翻訳されたもの」でしかありません。そこまで細かい言い回しを精査する事が、原文の意図を反映しているのかどうかも分からないのです。
まずもって本の全体像を把握していない。
時代も文化も違う異国の、しかも哲学という分野の翻訳。この翻訳者の思考が翻訳の傾向・癖として入り込んでもいるでしょう。
原書を読み、その言語の言い回しを理解できる社会的・時代的背景を知った上でなければ、安易に「分かった」とは言えません。
頓珍漢なこじつけならお得意ですが・・・。

正直に言うと、私はよく分かりません。読んでもいません。
サルトルの実存主義に詳しいようなので割愛しますが、「生きることが出来ない人間」に関することが多い、私には相容れない世界です。
哲学とは、もともと形のないものを分析し、言葉で意味をこじつけて行く、そういうものだと思っています。だからこそ好き勝手に言える。

己を肯定出来る者にとっては楽しい世界でしょう。分析を重ね、悦に入るには最高の肴だと思います。
しかし、自己否定の強い者にとってはどうでしょう。最後には自分を見失い、存在そのものを否定してしまう危険すらあります。
そんなものに翻弄されるほど不幸なことはありません。
「解放される」とは、幸せになること。
理屈に縛られることなく、一歩踏み出すための手助け。
私はそう思うのです。

他人のことを、さも本人より深く理解しているとでも言いたげに、
「僕の分析によると君の場合は・・・」
と上から物を言う人間。
嫌いですね。私もそうならないように気を付けましょう。

我思う、ゆえに我在り


“ちょっとストリーム『俳句を詠む』”にも出てきましたが、これは私がとても好きな言葉。
勿論、近代哲学の始まりと言われる「デカルト」の有名な言葉ですが、特に10代の頃はこの様なことを真面目に考えるのが好きでした。

直訳すると「私は考えている。つまり、私が存在しているということだ」となりますが、これはあくまでも直訳であり、本質はもっと深いところにありますよね。
今日は「我思う、ゆえに我在り」、デカルトのこの言葉について考えてみましょう。

デカルトは、まずこう考えました。

この世で、最も「確かなもの」「確かなこと」とは一体何だろう?
この世で、「全く疑う余地のないもの、ないこと」とは一体何だろう?

しかし、考えれば考えるほど答えは遠のきます。
目の前にある世界、このリアルな世界は本物だろうか? 幻、夢ではないのか?
夢の中では夢だと気づかないのだから、見えているこの世界が夢・幻ではないと何故言えよう。それを証明できるのか? 出来っこない!

全ての理論・学問もそうだ。
夢の中では不条理が不条理でなくなる。論理的におかしなことが起きても、おかしいとは感じない。
つまり、絶対的に正しいものなど何もないのだ。


デカルトは、全てを疑いました。
来る日も来る日も考え続け、ある日突然ひらめきます。

「私に見えているものは全て偽りの世界かもしれない。しかし、それを疑い続けている者・自分がいるという事だけは『真』なのだ」
もし、「疑い」に疑いを持ったとしても、やはり「何かを疑っている」ことに違いは無い。
たとえ、この世の全てが夢・虚像であるにしても、それを「疑っている自分」が存在することは、疑いようのない絶対的な真実なのだ。


これが「我思う、ゆえに我在り」の本質的な意味です。
近代哲学は、この言葉を「決して疑えない確かな真実」として哲学の第一原理に据えた所、つまりデカルトから始まったのです。

どうでしょう。
「我思う、ゆえに我在り」
たまには色々と考えてみるのも面白いものです。
人生トータルしてみると「正・負」「幸・不幸」のバランスは、プラス・マイナス・ゼロ。この「正負の法則」の考え方は理に適っていると思う。
試しに、この考えに則って自分の人生の「正負のバランスシート」をつけてみた。
ここまでの正負を見てみれば、これからの正負も見えてくる筈である。

思えば、我が物顔で好き勝手に生きた10代、20代。これを「正」とすれば、今払わされているのが「負」だ。
それにしても、次々に襲いかかってくる「負」。まだ返済しきれていない所を見ると、よっぽど私の好き勝手が大きかったということだろう。自業自得、笑うしか無い。

「苦あれば楽あり。楽あれば苦あり」
昔からこう言われるが、これこそ「正負の法則」を的確に表す言葉。
苦労という「幸せ貯金」を積み立てておくと、やがて払い戻される日が訪れる。しかし、先に幸せを受けてしまうと、残るは返済の日々。まるでローンの様なものだ。
「練習は裏切らない」「勉強は無駄にはならない」
こんな言葉も全ては同じ理の上に立ってのものだろう。つまり、人は自然に「正負の法則」を口にしているという事になる。

「子供が生まれたことが最大の幸せ」
こういう人が多い。かく言う私もそうであるが、であれば一番大きな「正」を授かったからには、それ相当の返済が待っている。子供で大変な思いをするのは当然のことなのだ。
それに気付けば「子供なんか苦労ばかり」などという言葉が誤りである事が分かる。
生まれた時の喜び、目の中に入れても痛くないほどの幼少時代。この数年間で、人生最大と言える程の「正」を貰ったのだ。だからこそ、それからコツコツと返済する「負」も大きい。全て「正負の法則」ではないか。

マイケル・ジャクソンもそうだが、世の成功者は大きな孤独に見舞われる。
成功を収め、大金を得るほど妬まれて、仲が良かった親兄弟とも仲違い。周りは気の置けない友人から金目当ての取り巻きに変わり、心を許せる人間がいなくなって疑心暗鬼。払う「負」はとてつもなく大きい。
普通の人間はそこまで大きな「正負」に振り回されることは無いが、それでも心に「幸・不幸」を抱えるものだ。
私の場合、大変な思いはしても、自分を不幸だとは思ったことは無い。
苦労と不幸は違うものだし、次々に「負」を背負わされても心は「正」、苦しくはあるが楽しいことも沢山ある。
時に、自分を「不幸だ」と嘆く人がいるが、端から見ると恵まれている環境の場合が多く、得てして本当に大変な人の方が、自分を不幸だとは感じていないものだ。
抱え込む「負」が少ない人は、逆に心に負を背負わされる。図らずも、こうして正負のバランスがとられているのだろう。

では「好き勝手に生きてやる」「他人を踏みつけてでも負から逃げてしまえば勝ち」、こういうふとどき者はどうだろう。
当人は笑いながら生きるだろうが、世間は後ろ指を指し、結局ろくな死に方をしない。最期に「負の一括返済」をさせられてしまうのだ。

せっせと払い続けている「幸せ貯金」、払い戻しが楽しみだ。
宝くじが当たらないかなぁ。いや、下手に億なんて金が当たったら、ろくな事はない。くわばらくわばら・・・。

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