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最近は仕事が忙しく、夕食後と明け方に2〜3時間の仮眠をとる以外はずっと仕事という生活が続いている。
友人に言わせると、これも「睡眠障害」なのだそうだ。
睡眠障害で思い出したのが、最近テレビで見る「障がい」という表記。
以前から「障害」の「害」という文字については議論が持たれていた。
明らかに「害」という字はふさわしくなく、あたかも障害者が害を与えるかの様な歪んだ印象を与える。
そんな事から、テレビ業界では「障がい」と「害」をひらがな表記にしたのであろう。私は初めてそれを目にした時は、思わず拍手を送ったものだ。
だが待て。何かがおかしい。
試しにパソコンで「しょうがい」を変換してみると、「障碍」が候補に上がってくる。
この「障碍」とは何か。他でもない、戦前まで使われた、今で言う「障害」の元の字(もちろん旧字)。石ころ一つが障り(さわり)になる、という意味だ。
電気業界ではお馴染みの「碍子(がいし)」の「碍」。
戦後、漢字を簡略化すると同時に数も激減させ、専門用語に出てくるようなものは全て排除された。
日常的に一般人が使うものだけを「常用漢字」として残したのだ。この「碍」もその時に消えた一つである。
当時は、これからは英語の時代という事で、覚える日本語の負担を減らす目的があったであろうし、国民全員が読み書き出来るための第一歩でもあったのだろう。私もそれはそれで悪い考えではないと思う。
しかし、その後がいけない。
それまでの漢字が使えなくなったからと言って、無理やり別の常用漢字をあてる必要があったのだろうか。私にはその意味が全く分からないし、それ以上にこの漢字を選ぶセンスの悪さにあきれ返る。
以前「優生と優性」という記事を書いたが、それと似たような不快感を覚えてしまうのだ。
まあいずれにせよ、一度定着した文字を変えるのは現実的に無理があるのだろう。
そういう点から考えれば、「障がい」と「ひらがな」にしたのも散々考えた末での結論で、苦肉の策だったのかも知れない。
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言いたい事
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何故世間は天才・怪物を貶めるのだろう・・・ クラシック音楽でいうと、どうしても思い出すのが“ラ・カンパネラ”で有名な「リスト」。 あれほどピアノという楽器が秘めた可能性を追求した人はいません。 どうすれば最大限に効果的な音になるか。弾く事の困難さが、それを上回る魅力的な音となります。「無意味な難しさ」は、そこには存在しません。 楽聖・ベートーヴェンも「もっと強い音が欲しい」と、大きい音が出るようピアノを改良させ、「熱情」を発表。 それは「まるで騒音」とまで言われ、当時の大人達を辟易させました。20世紀で言えば、さしずめ「ロック」「パンク」の出始めのようなものでしょう。 リストも華麗な右手を客に見せるために右を客席に向けて座り、それに合わせてピアノの反響板も右側を持ち上げて客席に音が広がるようにしました。それは今も受け継がれています。 しかし、時に並はずれた才能、更に言えば「技巧」故に世間は揶揄します。 「並はずれた技巧?」 誰か思い出しませんか? そう、モントリオールオリンピックの「ナディア・コマネチ」です。 彼女の体操演技は完璧でした。減点する所が全く無く、10点満点の連発。 そこで世間が騒ぎ出したのです。 「機械のようだ」「芸術性が無い」 しかし、これは実におかしな話でした。そもそも「体操」は難易度の高い演技を披露し、減点をいかに少なくするかを競う競技です。 「着地がピタリと決まる」「空中での姿勢が乱れない」「難易度が高い」 この項目の一つが足りないだけでも9.0を出していた時代、まさかこれほどまでにパーフェクトな演技が出て来るとは、誰も予想していなかったのでしょう。まさに「想定外」だったのです。 コマネチ以降、採点方式が何度も変えられましたが、今でも「着地さえ決まれば」、とやっています。 構成点も満点、演技も満点。この何処に減点要素があったのでしょう。 確かに、当時のコマネチにはチャフラフスカの女性的な動きや、コルブトのような可憐さはありません。 しかし、それはコマネチがまだ少女だっただけのことであり、彼女たちも「色香」を演技に盛り込んではいなかったでしょう。 塵ひとつのミスも無い完璧な演技。 だからこそ、人々はこぞって減点要素を強引に作りたかったのです。 日本に目をやると、思い出すのが「江川卓」です。先日実に不快な出来事がありましたが、その話はまた後日としましょう。 ひと頃、松坂が「怪物」と騒がれましたが、当時の江川の怪物さは松坂など足下にも及びませんでした。 投げれば「ノーヒット・ノーラン」、あるいは「完全試合」。 当時、比較する人間すら存在せず、「江川とハイセーコーではどっちの尻がデカイか!」と、競馬馬と比較されていたくらいです。 「誰にも打てない速球」 これは羨望と共にやっかみを生んでしまいます。 日本人にとっては「球は遅いが巧みな投球をする苦労人」の方を応援したいのでしょう。 巨人時代、その代表とも言える西本投手より全ての成績が上回っているにも関わらず、沢村賞は江川ではなく西本に与えられました。これはそれを端的に表すエピソードですよね。 今では考えられない事ですが、当時甲子園が終わってからも「見せ物試合」が沢山組まれ、江川は日本各地を廻って投げ続けました。江川を見るために人が大挙し、投げない事など許されなかったそうです。 結果、あまりに酷使された肩は故障し、プロに入っても高校時代の球を投げることはありませんでした。 3度もドラフトに翻弄され、巨人は「空白の一日」を使って強引に獲得。 おかげで江川は「天下の悪役」としてマスコミからもファンからも罵倒されましたが、あれは全て巨人が仕組んだもの。大学出たての若者に何が出来たと言うのでしょう。 しかし、本当はマスコミもファンもみんな知っているのです。 悪いのは江川では無い。しかし、江川を非難したくてしょうがない。 江川が言い訳一つせず今に至っているのは、恐らく「ずっとそうだったから」なのでしょう。 「出る杭は打たれる」 江川の人生そのものであったのだと思います。 「並はずれた技巧・才能」 人はそれに接すると「心が無い」と批判する傾向があるようです。 あまりに突出し過ぎると「驚異」を感じるのでしょうか。 どこかに「普通の人間である自分」を投影出来る部分があって欲しいのでしょうか。 完璧は「神」以外認めないのでしょうか。 案外、「才能」を貶める事で、自分の優位性を感じたい「人の持つ醜さ」に過ぎないのかもしれません。
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いつの間にか、このブログでは「常識ガチガチ」のイメージとなってしまった私ではありますが、仕事や私生活では常識嫌い、いやそれに反する人間であります。 常識の定義に関しては過去に少々書いておりますが、たとえば「給食費を払わない」「子供が世話になって礼を言わない」というようなもの、これは明らかに「非常識」。つまり「しなければならないことをしない」「無礼である」という意味合いが含まれています。 分かりやすく結婚披露宴で考えてみましょう。 もし自分が友人としてピアノ演奏を頼まれたとしたら、「葬送行進曲」を弾くことは「非常識」でしょうか? これは明らかに非常識ですよね。 例え新郎が好きな曲だとしても、二人を祝福しようと集まった人達の思いに水を差します。 では新郎自ら弾いた場合はどうでしょう。やはりこれも「非常識」だと思います。新婦側への配慮が感じられません。 ならば、思い切って長調の軽快な曲にアレンジした場合はどうでしょう。 聴いた途端に「あっ、葬式の曲だ」とほとんどの人が気付かないとしても、中には「これって『葬送』だよね?」と不快な思いをするする人がいるかもしれません。ですので、私なら例えアレンジしたとしても「葬送」は使わないでしょう。それが相手側への礼だと思うからです。 私は今まで何度もこれに近い事を見聞きしてきました。 会場までの送迎バスで「逃げた女房に未練は無いが〜」「別れた人に会った♪」とカラオケで歌われ、表面上は笑顔を作っていた新婦の父が陰で私に何を言ったか。 学生に毛が生えたような友人グループが、「暴露話」とばかりに仲間受けする「ふさわしくないエピソード」を笑いながら延々と話し、それを聞いていた大人達がその若者達をどう評していたか・・・。 結婚披露宴では、「たまたま」「まずまず」と繰り返す言葉や、「別れる」「切れる」などの忌み言葉を避けるのは常識ですが、うっかり使ってしまったり、或いは分脈上どうしても外せない時に使う場合は失礼にあたりません。 だからと言って「常識に囚われるなかれ」と意識的に使ったとすれば、それは「非常識」以外の何ものでもなく『破常識』では決してありません。 終わった後で「こんなに楽しい(面白い)披露宴は今まで見たことが無い」と喜んで貰えるものこそ『破常識』の名にふさわしいのです。 よく陥る間違いは「当人達が良いと思えば良い」と思ってしまうことです。 ひとつ問題を出しましょう。 新婦がドレスで登場したら、腕に「私は死ぬまで○○さんを愛し続けます」と大きなタトゥが入っていました。あなたはこれをどう思いますか? 賛否両論でしょうか。 タトゥでなくシールでも良いですし、文章ももっと感動的なものが良いでしょう。 ある人達はその強い意志と愛情に感動し、異を唱える人に「この思いが分からないの?」と食ってかかるかも知れません。 しかし、結婚披露宴とは家と家とのものであり、両家の親類縁者の為のものでもあるのです。たとえシールであったとしても、どれだけ愛を感じさせる文面であっても、年輩の方には「入れ墨」にしか見えないタトゥをどう感じるか、それは「推してしるべし」でしょう。 もしどうしても自分達の物差しでそれを押し通したいのならば、披露宴ではなく友人達だけで開く「パーティー」で行うべきなのです。 ここまで読んで「そんなのどうでもいいじゃないか」と思う人もいるでしょう。また「そうそう・・・」と頷く人もいるでしょう。 私はそのどちらも否定しません。色々な考えの方がいて当然だからです。 だからこそ、「つつがなく」披露宴を行うためには配慮と思いやりが必要だと思うのですよ。 「非常識」と「破常識」。
なかなか難しいものですよね。 |
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いよいよ今回でこの話題も終わり。 なかなか落としどころのないテーマなので結論づけるのが難しいのですが、発想をガラリと変えると意外なところに出口が見えてきます。 そもそも始まりは「家事を平等に」からでした。 そこから「では夫の仕事の分は?」となり、何を尺度とするかによって「平等」の定義が変化し、結果として均等・平等などあり得ない事が分かりました。 しかし、気持ちとしては「平等」を求めたい。「不公平感をぬぐい去りたい」のも分かります。 そこで、こういう考えはどうでしょうか。 つまり、同じ苦労を共有する「心の平等」。 例えば収入で考えると、どういう計算方法をとってみても「均等」にはなりませんが、「共に『稼ぐ苦労』を味わう」とすれば、公平感が増します。金額の問題ではありません。夫と妻の個々の比率は関係なく、総合的にバランスがとれていれば良いのです。 洗い物の場合はどうでしょう。 妻はテキパキとこなすので、夫との作業比率が7対3であった。もしそうだとしても共に協力し合えば「不公平だ」とは感じません。 食器をシンクまで運ぶ。洗濯物はかごに出す。赤ん坊を風呂に入れる、或いは体を拭いて服を着せる。その内容は夫婦それぞれでしょう。要は「共有」すること。 夫婦の不平や不満の多くは「この苦労を知らないクセに」という所から始まります。 でも、決して「均等に担え」と思っているわけではありません。少しでも共有して苦労を分かち合えば不平は出ませんし、相手の苦労も分かります。もし共有できないのであれば、その大変さに理解を示すこと。 「稼ぎが少ないクセに」「こんなもの仕事と言えるか」なんてセリフは、一緒に参加してから言うものです。 知らず知らずに「共同作業」が減り、「共有」されるものが無くなった時から心が離れ始めるのではないでしょうか。 性別も人格も性格も違う人間同士。得意な物、慣れている物が違う二人。互いに足りない所を補い合い、あとは「思いやり」を持つ。だからこそ夫婦の絆が深まり、人として成長するのでしょう。
もしかすると、「夫婦」には白黒付けられない「乗り越えるための障壁」を、敢えて設けられているのかもしれません。 そしてそれを乗り越えて来た笑顔こそ、本当に価値のあるものなのでしょう。 本当の「平等の尺度」とは『心の満足度』。そんな気がします。 |
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「平等」と一口に言っても、人はその時々によって無意識に『絶対的平等』と『相対的平等』を使い分け、自分の都合で「平等」の概念を作り上げている。前回の話はそういう内容でした。 では、前回のおさらいを兼ねて、問題から行ってみましょう。 二人の子供にアイスを買わせます。平等にするために「一人100円ずつ」としましたが、選んだものは次の通りでした。 A:シャーベット90円 「安いけどこれが食べたい。自分の10円分はBにあげる」 B:バニラアイス110円 「二人で200円だから、Bの90円を見て、自分は110円のものにした」 さて、あなたは「平等」という観点から、どちらを選びますか? 答1.同じ金額、あるいは同じ物を選ばせるのが平等 答2.合わせて予算内であれば、金額がバラついても好きな物を選ぶのが 平等 さて、あなたはどちらでしたでしょう。 「教育的」「計算高い」「やりくり上手」「譲り合い」。様々な事が複合的に入り込み、純粋に「平等」を考えられなくなりはしませんでしたか? そうなのです。「平等」とは、他の要因によって変化しやすいものなのです。 ここで親が「二人とも『平等』に100円のアイスを選びなさい」と言ったとしたら、Aは渋々承諾するとしてもBは収まりません。 「どうして安いのを選んだのに食べたいものを選ばせてくれないの?」 こう言われるのがオチでしょうし、BがAに対して「100円より高いのを選ぶのはずるい」と言ったら、これはこれでまた違う問題が発生します。 本当に「平等」とは難しい・・・。 では、いよいよ今回のメイン「男女のお話」に入ります。 文句の付けようのない「絶対的平等」というより「均等」を考えるなら、非現実的ではありますが、これしかありません。 ・ 同じ時間を外で働き、お金は折半する。合算するなら同じ収入の場合のみ。 ・ 二人で半分ずつ妊娠し、出産する ・ 家事も育児も全て半分ずつ行う これなら全てがフィフティーフィフティと言えるでしょう。 しかし、それは土台無理な話。出産は女性にしか出来ませんし、殆どの場合は収入も仕事で家を空ける時間も違います。「参政権」「教育・医療」等の「男女平等」とは違うのです。 つまり、この類のものは根本的に男女間の「絶対的平等」などあり得ず、あるとすれば「相対的平等」だけ。「男女雇用機会均等法」なんて、機会だけ均等でも決して待遇その他も「均等」ではありませんよね。 話が逸れましたが、現実的に限りなく「絶対的平等」に近づけたければ、子供は作らず共稼ぎをし、財布は別にして全て折半。 まずそこを認識しなければ話が始まらないのです。 視点を変えて、もう一つ問題を出しましょう。 ABCの男三人で倉庫の片づけをしています。しかし、汗を流して荷物を運んでいるのはAの一人だけ。 Bは場所を指示し、Cは荷造りや細かい整理をしているだけ。三人に上下関係は無いようです。 そこで、Aに訊いてみました。 「途中で交代するのですか?」 「いいえ、最後までこのままです」 「あなただけに力仕事をさせるのは不公平。平等に仕事させるように言いましょうか?」 しかし、Aは笑ってこう言いました。 「いや、平等ですよ」 この男、一体何を考えているのでしょう。 答えは単純で、力仕事が得意なAとパズルが得意なB、そして細かい作業が得意なCのコンビだった、というわけです。 客観的に見ると不公平に見えますが、Aにとっては物を考えたり細かい作業をするより、物を運ぶだけの方が気楽。逆にBは、力は無いが順序立てて的確な指示を出すことは得意。Cはとにかく細々とした作業が性に合っている。 「絶対的平等」であれば同じ作業をさせるべきでしょう。しかし、彼らにとっては「得意な仕事が出来る」という意味で平等なのです。 Cを女性にすると、更に分かりやすくなります。 CにもAと同様に力仕事を要求するとしたら、果たしてそれを「平等」と言えるのかどうか。AにCの作業をさせるのも同じです。 つまり、「平等」と「均等」は同一ではないという事なのです。 さあ、これを家庭生活に置き換えてみましょう。 家事が均等なら仕事も均等です。当然ですよね。 しかし、妻が夫と同じ時間働いても半分程度の収入にしかならない場合、「均等」の定義をどう考えますか? 「勤務時間?」「収入?」「苦労の数?」 困りましたね、何かを基準にすると他が均等になりません。 家事の場合はもっと複雑です。 「経済性」「出来映え」「こなした数」。これらを複合的に並行してこなさなくてはならないのですが、問題はこれ。 「手を抜く事も出来るが、しっかりこなすと時間が足りない」 ここが仕事と大きく違う所です。 さあ、これをどういう風に考えるか。
次回は「夫婦のあり方」と「夫婦の平等」を更に追求します。 |




