池月映のブログ

合気の発見者 武田惣角 消えた真実の研究

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武田時宗宗家の合気

 2010年、武田時宗遺稿集に、「合気とは相手が攻撃してきた時の護身、後の先である。逆にこちらから相手を倒しに掛かっていくのが気合である。押したら引く、引いたら押してやるという気に合わせる緩急の精神である」と語った。

 昭和34年の大東流合気武道2号に、合気と気合の解説がある。方法は違っても、合気も気合も相手を自由自在に取り扱うことができるとある。すなわち、合気と気合は、まったく逆とか、別ではなく、相対的、一体的なものと思われる。

 遺稿集全文に、合気は無構、無声、無念無想、静的状態など。気合は構、発声、迅速、動的状態などの詳しい説明がある。
 この内容と、国会図書館が公開した「活殺自在気合術」(熊代彦太郎・明治44年)の「広義的には気合も合気も差はない。気合は有心気合、動的方向、顕熱。合気は無心気合、静的方向、潜熱」は合致している。本来の合気の由来・意味は、気合術の気合・合気を引用したものである。
 会津藩御式内は護身術の柔術であり、合気柔術ではない。藩士、小姓が、修験道の静座呼吸法、気合法の厳しい気合術を修行するわけがない。

 気合術の達人で、修験の子孫浜口熊嶽、江間俊一は、気合で無痛の虫歯抜き、リュウマチの痛み抜き、座骨神経痛を治した。
 武田惣角に教えた易者中川万之丞は、惣角の怪我後遺症を治した。共通点は修験道の九字護身法と気合術(気合・合気)です。

 修験道は江戸時代まで文字を残さない掟がありましたが、明治に修験廃止になり、掟も緩和されて文献が出た。国会図書館も公開しても良いだろうと思ったのでしょう。 
 忍者も修験道ですから「即席活用忍術気合術」(大正6年)もあり、千年の昔から修験者と忍者が修行してきました。惣角は気合術を修行、柔術に気を導入して合気柔術を創始した。
 以上の説明で、合気と気合はご理解いただけたでしょうか。合気の意味は国語辞典にありませんが、載せてほしいですね。そうなれば、ウィキペディア辞典に書いても消されることはないでしょう。

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会津藩御式内

武田惣角の合気柔術は会津藩御式内という説、今も定説と思われていますが、故郷の会津では信憑性が低い。私の調査結果が正しいと評価され、概要を発表します。
御式内は若い小姓が学ぶ柔術で、気を鍛錬する合気柔術ではない。

会津藩秘奥御式内の検証結果について
 
昭和52年(1977)、大東流宗家武田時宗が会津武家屋敷に寄稿した内容を、郷土史料、子孫関係者の取材により判明した結果です。
 
① 大東流宗家武田時宗とあるが、36代宗家と書いていない。
② 甲斐から来た武田国次は、他家の先祖を借用した(墓誌の証拠あり)。父惣角は武田国継と書いた。国会図書館の調査で該当者はいないと、質問者に回答した。(ネットにあり)。
③ 芦名盛氏に地頭として仕えた。芦名盛氏家臣団名簿にない。三年後に来た小笠原長時は軍師とある。郷土史料の地頭は生江家だけしかない。
④ 御伊勢の宮は、江戸時代後期に建てられた屋敷神。村社の場合は明治に神明神社になった。幕末は竹田姓、明治戸籍は農民、神職の証拠はない。 
⑤ 兄惣勝は頸骨痛で戸籍の死亡月日は明治9年10月4日、三女サンが残り、妻と4女は実家の板橋家に帰った。神職の証拠はない。
⑥ 都々古別神社の神職見習はありえない。 
⑦ 西郷隆盛応援はありえない。隣の士族佐藤忠孝は2年前から政府の二等巡査、西南戦争に参戦、近村の小学校教師になった。祖父金右衛門は藩士御供番(武芸に秀でた者が選ばれる、藩主護衛役、小姓と同じ職場)100石、武芸十八般の達人、御式内の柔術を教えた。妹コンは惣角の初婚の妻、佐藤家は一家をあげて惣角を支援、史実に語られなかった。
⑧ 明治13年秋日光東照宮副宮司保科近悳を訪ねた。社務所の調査で、当時の日誌、記録に惣角の名前はないと、質問者に回答している。
⑨ 霊山神社で武道秘奥、法力、超能力合気極意を体得したとある。惣角は借金返済で苦しみ、相談された保科は大東流の名前、史実、和歌を与えた。
  2010年の武田時宗遺稿集に、惣角は真言密教・修験道・九字護身法・
 気合術(気合・合気)・足止め術(超能力)・医療技術・易学を会得したとある。保科の経歴、会津藩士、小姓にこのような技術はまったくない。保科は漢学者、都々古別神社で「縁起備考」、日光東照宮で「晃山叢書」(11巻)編さん事業の功績がある。福島の学校で講義したこともあるが、武術を教えたことはない。身長140センチの立った写真が判明、佐川幸義宗範、頼母研究家牧野登氏も、保科説を否定している。
⑩ 惣角の青年時代14年間は消息不明。福島で負傷後、自宅に戻り隣の佐藤コンと結婚。怪我の後遺症に苦しみ、隣村の修験道易者中川万之丞の治療を受けた。気合をかけて治療した名人に、修験の浜口熊嶽、江間俊一が知られる。(日本霊能者列伝にあり、合気道開祖植芝盛平、出口王仁三郎も掲載)
⑪ 易師万之丞と惣角の修行は完全一致。本名の惣三郎は時宗の幼名と同じ。
⑫ 合気の由来・意味は修験道の気合術(気合・合気)から引用したもの。国会図書館が公開した気合術4文献、「活殺自在気合術」に気合は有心気合、
 合気は無心気合とあり、武田時宗遺稿集と合致。修験道は口伝の掟があり、  
 文字に残さない。明治に修験禁止、掟も緩和され文献が出て判明した。
「忍術気合術」もあり、千年の昔から修験者・忍者が修行していました。
  
 2017.11.14
                   武田惣角研究15年  池月映

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 明治維新150年ー先人の智慧と気概「悲劇の会津藩家老と伝説の合気柔術家」が、別冊正論編集部発の発表。史実として今では古くなった「鬼の冠」「武田惣角と大東流合気柔術」の内容になっている。
 私の調査研究、会津坂下町郷土学習副読本、佐川幸義宗範の証言、武田時宗遺稿集などは反映されておりません。出版社には情報提供しておきました。回答があったら報告いたします。

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ウキペディア辞典の修正は消されましたが、「武田惣角は宮相撲の大関」で検索すると、訂正後の内容が2番目で見ることができます。

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 辞典の修正をしましたが、抗議はなく、誰かに消されてしまいました。予想はできましたが、再度試みてみたいです。
 合気は千年以上も前から修験や忍者が気合術(気合・合気)を修行して受け継がれてきたことは、惣角翁の遺言、武田時宗遺稿集、国会図書館の文献「活殺自在気合術」で明らかです。
 明治になって修験が廃止、口伝の掟が緩和され、武田惣角が合気柔術の形で再生したことになります。日本が誇る伝統文化として認めていくべきでしょう。でも、創作した史実を知りながらも、立場上認めたくない方もおられるようです。時代は惣角翁、教授代理を経て、真実を語る第三世代へと変わり、新たな発展が期待される。
  消された方は、故郷会津に合気・大東流の顕彰碑が建ってほしくないのでしょうか。

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