池月映のブログ

合気の発見者 武田惣角 消えた真実の研究

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武田惣角の格言

 武田惣角の格言は、「図解コーチ合気道」(鶴山晃端・1971)の冒頭に書かれているそうです。

①「油断あれば、どんな達人でも素人に敗れる」これは、若い時に、落馬、槍の試合、工事人との格闘で3回も大怪我した経験。

②「音無きに聞き、姿無きに見る」これは、映画「武蔵」の修験者佐々木小次郎が妻に言った「聞こえない声を聞き取り、見えないものを見る修業をした」と同じです。修験道の意味。

③「一見して相手を制し」これは、読心術・人身透視術で先手を取る。

④「戦わず勝を得ることが合気の極意なりき」は、気合術の気合(函館博徒親分を倒す)、合気(山形県警柔道師範の力を抜く)を意味します。

修験道・読心術・人身透視術・気合術(気合・合気)は易者万之丞に教えられたものですが、武田惣角はヒントを残していた。

 ちなみに、明治31年、保科近悳が霊山寺修験道場で合気柔術を教えた史実があります。しかし、修験道場は南北朝時代、670年前に焼失していますので、明治時代に修験、道場は存在していません。
雑誌「歴史街道」に、映画「武蔵」が紹介されている。佐々木小次郎は佐々木一族のリーダー、50代の修験者です。

 曹洞宗、天台宗僧侶のコメントは、29歳の武蔵は禅の修行から悟り、小次郎は邪念を払いきれなかったとある。
小次郎は30年以上の禅の修業があり、修験の神通力2,3つぐらいは会得したからリーダーになったと思われる。

ですから、高齢の小次郎が悟り、若い武蔵に邪念があったとみるのが普通です。真言宗の僧侶なら同じ意見になる気がします。僧侶は神通力修業をしないといわれる。
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真言宗僧侶、修験の池口恵観氏は中学生の時、枝に止まった20羽のスズメに気合を掛け、地面に3羽落ちた。母親に注意され、頭が痛くなってやめたそうです。
剣道の高段者は同じことができても不思議はないと思います。
自慢すれば、動物愛護団体から抗議されるかもしれません。

 江戸時代の剣術家は気合術を会得するのが勝つ秘訣と言われた。気合術の原点は修験道だと思います。

したがって、歴史街道の僧侶は、修験道の実技’、たとえば武田惣角、易者万之丞(気合術の気合・合気、不動金縛り術、隠行術、易学、民間療法、人身透視、足止め術、身の軽重法)を十分理解されていないと思われる。
小次郎が天台宗系修験者だとしたら、武蔵の試合で勝った可能性が高い。武蔵はこれ以降試合で相手を殺していない。武蔵は小次郎との試合を語っていない、記録もしていない。

映画は、小次郎が邪魔になる存在として、立ち会った藩士に切り殺される結末になっている。

 電車に乗って福島の映画館で、「武蔵」を見ました。佐々木小次郎は50代の修験者です。師の富田勢源は小太刀の名手、梅津某に気合術も使って勝った。忍者の隠行術(目の前から消えて相手の後ろにまわる)もある。

 この映画の小次郎は、武田惣角と同じ九字の呪文、音無きに聞き姿無きに見るのセリフがある。ところが、気合術(気合・合気)、医療技術、易学、呪術の実技が出てこない。

 国会図書館は気合術、合気術の63文献を公開しましたが、著者の多くは解説だけで、実技は会得していない。解説と実技の両方あるのは武田惣角一代記です。ですから、映画に気合術の実技は出てこない。
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 小次郎が気合術をかければ、武蔵の力を抜き、隠行術で後ろに回り、29歳の武蔵をみね打ちにして勝てたのです。
 映画は武蔵、小次郎が同時に打ち合い、ともに倒れた。武蔵が早く目が覚めて去り、小次郎は遅れて目が覚め、どちらも怪我しなかった。(ちょっとわかりにくい)
 
 映画は史実に忠実に描いたとあり、娯楽的な要素はない。武蔵は修験道を修業していない。見事な作品であるが、武田惣角の合気剣術、合気柔術の方が強いと感じました。
イメージ 1
 明治31年、霊山神社宮司保科近悳が武田惣角に与えた和歌「しるや人 川の流れを打てばとて 水にあとある物ならなくに」は、剣の時代は去った。これからは合気柔術を広めよという意味とされてきた。いまいち意味がわからない。

保科は2年前、自叙伝「栖雲記」で、「方丈記」(鴨長明)の「ゆく川の流れ絶えずして しかももとの水にあらず…」を引用した。幸せも悲しみも、時とともに過ぎていくという無常観を語り、意味が似ている。

和歌の意味は、人生も武術も川の流れと同じで、留まることなく、水の如く柔軟に生きよ、と教えた。
「合気は水の如し」の極意、老子の「上善は水の如し」にも、同じような意味があります。


 会津人群像38(歴史春秋社)で、私は保科近悳(西郷頼母)が武術の達人ではないと発表しました。
 さっそく反響があり、保科が亡くなる7か月前、3か月間の日誌(コピー)を入手しました。貧乏長屋で毎日の天気、多くの来客、出かけた先、生活に窮してお金をいただいたことなどが書かれています。
 もし、合気の達人なら、心身鍛錬して「気」を練り上げる稽古をします。柔術の一手を教えた、占い、気合術(合気)で治療して、お金を稼いだなどの記述がなければおかしい。貧乏長屋に入る必要はなっかったでしょう。
 でも、こうした記述がないということは、武術の達人ではなかった。保科の生涯日誌に武道の武の字もないということは、これまで確認した武術家、研究家の牧野登氏も発表しています。保科(140センチ)の立った写真でも明らかです。保科は武田惣角に火災による借金返済の悩みを相談され、大東流の名称、甲斐武田家の史実を創作、道歌を与えました。惣角は地方の名士に、格式ある伝書目録を売って、借金を完済しました。
 大東流の中には、未だに保科近悳説から脱却できない事情があるようです。

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