池月映のブログ

合気の発見者 武田惣角 消えた真実の研究

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武田惣角の手裏剣流派

 武田惣角の手裏剣の流派はという質問がありました。隣の藩士御供番佐藤金右衛門から教えられたことは確かです。御供番は武芸十八般ですが、流派は秘密にされていたようで子孫の伝記にも記述はありません。
 金右衛門の剣術は神道精武流の可能性が高い。惣角に教えられた門人山本角義がいることから、教えられるのは金右衛門しかいない。
 手裏剣の名人は日新館師範黒河内伝五郎で、白井流手棒手裏剣とあります。金右衛門と伝五郎は親戚です。日新館と御供番の職場は道路向いの隣です。御供番は伝五郎から手裏剣を習っていたと思われます。
 ですから、惣角の手裏剣は白井流と思われます。

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武田惣角の紙芝居

 紙芝居「会津の小天狗」は一部修正中で、コストも低価なDVDを計画しております。今年中完成の予定でしたが、イラストの修正が遅れております。できるだけ早く完成させるよう努力いたしますので、しばらくお待ちください。

 2018年の抱負は、武田惣角の人物紹介は故郷会津坂下町で訂正されました。多くの人物事典も、会津藩御式内を教えた隣の会津藩士佐藤金右衛門、合気を教えた天才易者中川万之丞に訂正されるような活動を行います。

 最も関心があるのは、津本陽氏の佐川幸義伝「深淵の色は」です。ネットで4回目発表で最終は10回ぐらいかもしれませんが、武田惣角の新事実に注目しています。
 残された課題は「合気」「気合術(気合・合気)」が国語辞典に説明がない。広辞苑は1月12日に発売、おそらく掲載はないでしょう。合気道だけでは説明が不十分です。次の発売が10年後、それまで待てない。ほかの辞典に掲載されるよう活動します。イラストは娘子隊の中野竹子(会津坂下町で有名な人物)に剣術を教わる惣角。
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保科近悳の晩年の写真

 これまで、保科近悳(元会津藩家老西郷頼母)の写真は、座った写真しか紹介されませんでした。保科の立った写真は身長140センチ程度で、合気柔術、武術の達人ではありません。明治以降は宮司、学者として活躍しました。56歳の時、日光東照宮で外国人が撮ったものが、西郷四郎資料館にあります。テレビドラマで演じた俳優は、古い順から173、180、174、167センチです。そんなわけで、写真を出しづらくなったのかもしれません。
 晩年の武田惣角、佐川幸義宗範の体を鍛えた表情、顔つきの写真と較べて見れば一目でわかりますね。今後、間違った記述をしないよう紹介しました。
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武田時宗宗家の合気

 2010年、武田時宗遺稿集に、「合気とは相手が攻撃してきた時の護身、後の先である。逆にこちらから相手を倒しに掛かっていくのが気合である。押したら引く、引いたら押してやるという気に合わせる緩急の精神である」と語った。

 昭和34年の大東流合気武道2号に、合気と気合の解説がある。方法は違っても、合気も気合も相手を自由自在に取り扱うことができるとある。すなわち、合気と気合は、まったく逆とか、別ではなく、相対的、一体的なものと思われる。

 遺稿集全文に、合気は無構、無声、無念無想、静的状態など。気合は構、発声、迅速、動的状態などの詳しい説明がある。
 この内容と、国会図書館が公開した「活殺自在気合術」(熊代彦太郎・明治44年)の「広義的には気合も合気も差はない。気合は有心気合、動的方向、顕熱。合気は無心気合、静的方向、潜熱」は合致している。本来の合気の由来・意味は、気合術の気合・合気を引用したものである。
 会津藩御式内は護身術の柔術であり、合気柔術ではない。藩士、小姓が、修験道の静座呼吸法、気合法の厳しい気合術を修行するわけがない。

 気合術の達人で、修験の子孫浜口熊嶽、江間俊一は、気合で無痛の虫歯抜き、リュウマチの痛み抜き、座骨神経痛を治した。
 武田惣角に教えた易者中川万之丞は、惣角の怪我後遺症を治した。共通点は修験道の九字護身法と気合術(気合・合気)です。

 修験道は江戸時代まで文字を残さない掟がありましたが、明治に修験廃止になり、掟も緩和されて文献が出た。国会図書館も公開しても良いだろうと思ったのでしょう。 
 忍者も修験道ですから「即席活用忍術気合術」(大正6年)もあり、千年の昔から修験者と忍者が修行してきました。惣角は気合術を修行、柔術に気を導入して合気柔術を創始した。
 以上の説明で、合気と気合はご理解いただけたでしょうか。合気の意味は国語辞典にありませんが、載せてほしいですね。そうなれば、ウィキペディア辞典に書いても消されることはないでしょう。

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会津藩御式内

武田惣角の合気柔術は会津藩御式内という説、今も定説と思われていますが、故郷の会津では信憑性が低い。私の調査結果が正しいと評価され、概要を発表します。
御式内は若い小姓が学ぶ柔術で、気を鍛錬する合気柔術ではない。

会津藩秘奥御式内の検証結果について
 
昭和52年(1977)、大東流宗家武田時宗が会津武家屋敷に寄稿した内容を、郷土史料、子孫関係者の取材により判明した結果です。
 
① 大東流宗家武田時宗とあるが、36代宗家と書いていない。
② 甲斐から来た武田国次は、他家の先祖を借用した(墓誌の証拠あり)。父惣角は武田国継と書いた。国会図書館の調査で該当者はいないと、質問者に回答した。(ネットにあり)。
③ 芦名盛氏に地頭として仕えた。芦名盛氏家臣団名簿にない。三年後に来た小笠原長時は軍師とある。郷土史料の地頭は生江家だけしかない。
④ 御伊勢の宮は、江戸時代後期に建てられた屋敷神。村社の場合は明治に神明神社になった。幕末は竹田姓、明治戸籍は農民、神職の証拠はない。 
⑤ 兄惣勝は頸骨痛で戸籍の死亡月日は明治9年10月4日、三女サンが残り、妻と4女は実家の板橋家に帰った。神職の証拠はない。
⑥ 都々古別神社の神職見習はありえない。 
⑦ 西郷隆盛応援はありえない。隣の士族佐藤忠孝は2年前から政府の二等巡査、西南戦争に参戦、近村の小学校教師になった。祖父金右衛門は藩士御供番(武芸に秀でた者が選ばれる、藩主護衛役、小姓と同じ職場)100石、武芸十八般の達人、御式内の柔術を教えた。妹コンは惣角の初婚の妻、佐藤家は一家をあげて惣角を支援、史実に語られなかった。
⑧ 明治13年秋日光東照宮副宮司保科近悳を訪ねた。社務所の調査で、当時の日誌、記録に惣角の名前はないと、質問者に回答している。
⑨ 霊山神社で武道秘奥、法力、超能力合気極意を体得したとある。惣角は借金返済で苦しみ、相談された保科は大東流の名前、史実、和歌を与えた。
  2010年の武田時宗遺稿集に、惣角は真言密教・修験道・九字護身法・
 気合術(気合・合気)・足止め術(超能力)・医療技術・易学を会得したとある。保科の経歴、会津藩士、小姓にこのような技術はまったくない。保科は漢学者、都々古別神社で「縁起備考」、日光東照宮で「晃山叢書」(11巻)編さん事業の功績がある。福島の学校で講義したこともあるが、武術を教えたことはない。身長140センチの立った写真が判明、佐川幸義宗範、頼母研究家牧野登氏も、保科説を否定している。
⑩ 惣角の青年時代14年間は消息不明。福島で負傷後、自宅に戻り隣の佐藤コンと結婚。怪我の後遺症に苦しみ、隣村の修験道易者中川万之丞の治療を受けた。気合をかけて治療した名人に、修験の浜口熊嶽、江間俊一が知られる。(日本霊能者列伝にあり、合気道開祖植芝盛平、出口王仁三郎も掲載)
⑪ 易師万之丞と惣角の修行は完全一致。本名の惣三郎は時宗の幼名と同じ。
⑫ 合気の由来・意味は修験道の気合術(気合・合気)から引用したもの。国会図書館が公開した気合術4文献、「活殺自在気合術」に気合は有心気合、
 合気は無心気合とあり、武田時宗遺稿集と合致。修験道は口伝の掟があり、  
 文字に残さない。明治に修験禁止、掟も緩和され文献が出て判明した。
「忍術気合術」もあり、千年の昔から修験者・忍者が修行していました。
  
 2017.11.14
                   武田惣角研究15年  池月映

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