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「化土往生する人がいるのだから、信心決定しない人はみな地獄行きであるわけではない」
という邪義がある。
化土往生するには、死ぬまで至心に諸善をするか、一心不乱で念仏称えて
臨終に心を乱さず、来迎を待たねばならない。
これができるのは還相の菩薩だけだ。
妄念に沈む煩悩具足の衆生にはできない。
ではなぜ、化土往生を勧められるように読める御文があるのか。
因が無ければ、化土へ往くという結果は無い。
化土往生の因である諸善、自力の称名念仏を勧め
我々に二河白道を進ませ、選択の願海に出すための如来の御方便である。
歎異抄では
「辺地懈慢・疑城胎宮にも往生するのも名号不思議のちから」
「化土におほくすすめいれられ候ふ」
と言いながら
「辺地の生をうけんこと、もつともなげきおもひたまふべきことなり。」
「かなしきかなや、乃至、辺地に宿をとらんこと」と言って報土往生を勧める。
化土往生という結果の中に「善をしなさい、御念仏を称えなさい」という
「善の勧め」の因が説かれているのだ。
こういう教えの説き方を果中説因という。
自分の後生が問題にならない者や因果の道理を知らない者は
「信心決定しなくても化土へ往けるのか」といい加減に聴くが
善ができなければ、化土へは往けないし
自力の善根を積んでも、五逆謗法の罪はそんなものでは消えないから
地獄しか行き場がないのが凡夫なのである。
信ぜざれども、辺地懈慢・疑城胎宮にも往生して、
果遂の願のゆゑに、つひに報土に生ずるは、名号不思議のち
からなり。これすなはち、誓願不思議のゆゑなれば、ただひとつなるべし。(歎異抄十一章)
信心の行者すくなきゆゑに、化土におほくすすめいれられ候ふを、つひにむなしくなるべ
しと候ふなるこそ、如来に虚妄を申しつけまゐらせられ候ふなれ。(十七章)
願力を疑ひ、他力をたのみまゐらするこころかけて、辺地の生をうけんこと、
もつともなげきおもひたまふべきことなり。(十六章)
かなしきかなや、さいはひに念仏しながら、直に報土に生れずして、辺地に宿をとらんこと。(後序)
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