蓮如上人

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前々住上人へある人申され候ふ。開山の御時のこと申され候ふ。

これはいかやうの子細にて候ふと申されければ、仰せられ候ふ。われもしらぬことなり。

なにごともなにごともしらぬことをも、開山のめされ候ふやうに御沙汰候ふと仰せられ候ふ。

(蓮如上人御一代記聞書)



阿弥陀如来の御化身たる御開山聖人のあそばすことは

非理なことをあそばすはずはないによって

ありがたいことであろう、左様にあそばした、と思えよと仰せらるるなり。

それをば「雑行らしいことをされたではないか」の

「他宗らしいことをなされたではないか」のと思うたり言うたりするのは

開山聖人を尊信するものではない。

何の開山聖人のあそばすことに理に背いたことをあそばすはずはないによって

左様あそばしたと思えばよいと仰せられるのじゃ。

これが即ち御門徒の面々へ祖師聖人を尊信し奉る思いを

蓮如上人の御教化あそばすのなり。

大乗経の中に法皷経というがある。この法皷経につねによく出る。乃至。

その大乗経の中の法皷経上に「譬如士夫年甫二十有百歳子 若仏如是説者 我等亦当如是随信」

とあり。

これは「年二十の男に百歳の子になる子がある」というは、これないことなり。

無いことなれども仏の左様に御説なされたならば随いてそれを信ずべしと。

なるほど二十歳になるものの子に百歳になる子がありまするか、と仏説なれば信ぜよと。

これ仏の思いを尊信する思いを教えた教説なり。

今もその如く、祖師聖人は即ち阿弥陀如来なり。

弘通したもう所の教行おそらくは弥陀の直説と言いつべしとあるは

祖師聖人のあそばしたことは即ち仏のなされたことじゃ。

仏のなされたことなれば有難いことと尊信するがよい。

それに不審を打てば祖師聖人を疑い奉るになる。

乃至。

信心の行者の思うべく云うべきことではない、と仰せらるるなり。

(御一代記聞書講義  香月院)

「この信心を獲得せずは極楽には往生せずして、無間地獄に堕在すべきものなり」


上の段で信心をえねばならぬようにのたまえども、いまだ合点せまいと思し召して

今は裏からのたもうなり。

乃至。

今この「信心獲得せねば無間地獄に落る」とあるのは、ただおどしにのたもうのではない。

上の段の無善造悪の機は下三品の悪機、別しては下下品の五逆十悪の悪人。

それならばかならず無間に堕ちる。

すべて御文に末代の凡夫の機類を出したもうときは、いつでも十悪五逆の罪人とのたもう。

序文義の御釈で見れば、末世の凡夫は手を出して親は殺さねども、意業で親を殺さぬ者はない。

これらは委しく逆罪の名を付けてもよい。それならば無間の罪人なり。

歓喜鈔には尼乾子経の大乗の五逆が出してある。その中第五の罪なり。

これは信巻にも引いてある。

「謗無一切善悪業報 長夜常行十不善業 不畏後世 自作教人堅住不捨 是名第五根本重罪」とある。

仏法を信ぜぬ者は善業悪業の報いは無いこととと思うて、常に十悪業を造る。

その悪業を造りても後世を恐れず。

自らも悪を作り人にも悪を造らせて、それをよいと執じている。

これが五逆の中の一つなり。

末世の衆生の仏法を信ぜぬ者に、この逆罪を作らぬ者はない。

また地蔵十輪経に、殺父殺母等の五逆のことを無間根本罪と名づけてある。

さて重い殺生等の四重禁を造るを四近無間大罪悪業と名づく。

これらのうちの一種の罪業を造る者、定めて無間の中に堕在して苦を受けるとある。

この度、信心を得て浄土に参れば思いがけなく成仏する。

もしやこの信心を得ぬときは、決定して無間地獄へ堕ちるほどに

これを思うたならば何事を捨てても信心をえねばならぬと、

いまだ堕ちぬ未来の苦報をあげて信心を勧めたもう一段なり。









そもそも、開山聖人(親鸞)の御一流には、それ信心といふことをもつて先とせられたり。
その信心といふはなにの用ぞといふに、無善造悪のわれらがやうなるあさましき凡夫が、
たやすく弥陀の浄土へまゐりなんずるための出立なり。
この信心を獲得せずは極楽には往生せずして、無間地獄に堕在すべきものなり。(御文章二帖目二通)

大阪建立の章

この年、4月の始めから御病気とならせられた後

9ヶ月の間に二十通近くも御文を御制作になられた蓮如上人。

御老體と御病気とから御往生の期、せまることをお考えになって

如何に御門徒の御信心を御心配あらせられたか、

その切々の情は実に涙ぐましいものがある。

そのうち、この大阪建立の章は報恩講に際して一般への御教化であるから

この以後二通の御作はあるが、一通は法敬、空善の二人へ宛てられ

一通は女人へ対せられたものであるから、一般的の御教化はこれが最後である。

翌年、御往生の年には年月のわかった御文は一通もない。

それでこの「大阪建立の章」は真に蓮如上人の御遺言であって

その時代の一般の者だけでなく、

今日の我々が等しく頂戴せねばならぬ思し召しである。




あはれ、あはれ、存命のうちにみなみな信心決定あれかしと、朝夕おもひはんべり。
まことに宿善まかせとはいひながら、述懐のこころしばらくもやむことなし。(大阪建立の御文)

阿弥陀如来の仰せられけるやうは、

「末代の凡夫罪業のわれらたらんもの、罪はいかほどふかくとも、

われを一心にたのまん衆生をば、かならずすくふべし」と仰せられたり。(御文章)



「罪業のわれらたらんもの、罪はいかほどふかくとも」と言われても

「罪」とは何か、「いかほどふかくとも」とはどれぐらい深いのか

因果の道理を知らないものにはさっぱりわからない。

言葉の意味自体がわからないものには、因果の道理を教えて

廃悪修善をさせて、実地に善悪の重さを分からせるしか

「阿弥陀仏の十八願」を聞かせるすべはない。

お釈迦様一代、45年間の説法、八万四千の法門は因果の道理を説かれたものである。

いかに「罪はいかほど深くとも」の一言の意味を教えることがいかに難しいかが

その事実だけでもわかるだろう。

阿弥陀仏の十九願は、その因果の道理を教えて、十八願に導くための教え。

一代の略経、定散二善を説かれた観無量寿経が要門(必ず聞かねばならない教え)と言われるのは

阿弥陀仏の十九願を開説された経だからである。






おほよそ八万四千の法門は、みなこれ浄土の方便の善なり。

これを要門といふ、これを仮門となづけたり。

この要門・仮門といふは、すなはち『無量寿仏観経』一部に説きたまへる

定善・散善、これなり。定善は十三観なり、散善は三福九品の諸善なり。

これみな浄土方便の要門なり、これを仮門ともいふ。

この要門・仮門より、もろもろの衆生をすすめこしらへて、

本願一乗円融無礙真実功徳大宝海にをしへすすめ入れたまふがゆゑに、

よろづの自力の善業をば方便の門と申すなり。(一念多念証文)

このうれしさのあまりには、師匠坊主の在所へもあゆみをはこび、

こころざしをもいたすべきものなり。(御文章)


報恩謝徳の懇志をはこび、称名念仏の本行を尽す。

まことにこれ専修専念決定往生の徳なり。(御文章)



門徒のかたよりものをとるをよき弟子といひ、これを信心のひとといへり。

これおほきなるあやまりなり。

また弟子は坊主にものをだにもおほくまゐらせば、わがちからかなはずとも、

坊主のちからにてたすかるべきやうにおもへり。これもあやまりなり。(御文章)


蓮如上人仰せられ候ふ。仏法にはまゐらせ心わろし。

これをして御心に叶はんと思ふ心なり。

仏法のうへはなにごとも報謝と存ずべきなりと云々。(蓮如上人御一代記聞書)



「こころざし」「懇志」とは真宗で財施のこと。

財施をすすめると「ものをだにもおほくまゐらせば」と「財施すれば助かるのか」と

思ってみたり、「財施しないと助からないのか」と思う者が出てくるから

「これもあやまりなり」「仏法にはまゐらせ心わろし」と正して

「仏法のうへはなにごとも報謝と存ずべきなり」と心得を教えて下されている。


信前信後仏法を聞かせていただいた報謝の心は忘れてはならない。

信心獲得しないと本当の仏恩は知られないから

「信心を決定せずば仏恩報尽と申すことはあるまじき」と言われているからといって

「信前に御恩報謝はない」というのは間違いです。

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