大谷派用

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東本願寺のHPには以下のように書かれていました。
http://www.tomo-net.or.jp/about/sermon/leaflet/08.html

浄土真宗の教えは、我は「煩悩具足(ぼんのうぐそく)の凡夫(ぼんぶ)」、我が世は「火宅無常(かたくむじょう)の世界」であると、どこまでも過去を背負い、未来をはらむ自分のこの「現在」をごまかさず問うものであります。
そのような自分の「現在」を問わないで「人は死んだらどうなるのか」と考えることは、私たちを出口のない路(みち)に迷わせ、神秘的な世界観に惑わすこととなるだけでしょう。
同朋大学教授 尾畑 文正


では「自分の『現在』を問うて、『人は死んだらどうなるのか』と考える」とどうなるのか

書いてないのが残念。


現在の自分が煩悩具足罪悪深重であることを知れば

「必ず無間地獄に堕ちる」という後生の一大事が知らされるはず。

尾畑氏は何で書けないのでしょうか。

御自分の現在を問うていないのは書いた方、御本人ではないのでしょうか。




この信心を獲得せずは極楽には往生せずして、無間地獄に堕在すべきものなり。(御文章)

悪業を植へば悪趣の苦果を感ぜずということなし。

もし、悪因善趣の果を招くならば、

ほかの種子も麦子を種へて豆を生ずべきなり。

たとえ善を種へて人間の果を受くとも

五欲の楽、また種々の悪業増長して永く三途に沈む業を結ぶ

故に人界に死して人界に生るものは爪の上の土の如く

人界に死して地獄に堕するものは大千世界の土の如くなり

餓鬼また然り

天上に死して天上に生るものは爪の上の土の如く

天上に死して三途に堕するものは大地の土の土のごとしと

広く雑阿含の中に説きたもう

「弥陀をたのめば」これは弥陀をたのみ奉る一念は則ち聞其名号の信心なり。

ゆえに名号の謂を心得わけた心が即ちたのむのなり、信ずるのなり。

たのむ心が即ち南無阿弥陀仏のこころじゃによりて、御文に

「信心とて六字の外にはあるべからざるものなり」とある。

然れば帰む一念の信心の起る同時に南無阿弥陀仏の名号が行者のむねの主と

御成りなされる。

南無とたのむばかりで阿弥陀仏と御助けぞと了解した思いは臨終の夕べまで

胸の中に相続する。これがとんとはや頼む一念の信心を得たものの胸の主は

南無阿弥陀仏に成りた所なり。それを今「弥陀をたのめば南無阿弥陀仏の主に

なるなり」と仰せられたるものなり。

「南無阿弥陀仏の主に成る」というは これ上の御言を見ては

弥陀を頼めば南無阿弥陀仏の主に成るなりとばかりありては

弥陀を頼む時に仏の方から名号を別に行者へ下さることのように思うまいものでも無い、

弥陀を助け給えとたのんだによりて、さあ名号をやるぞと仰せらるることのように

思うまいものでも無い、そこで今打ち返して仰せらるるなり。

南無阿弥陀仏の主に成るというは信心を得ることなり。

頼む一念の信心の外に南無阿弥陀仏をもらうことはない。

南無阿弥陀仏の主になるというが、たのむ一念の信心のあるということじゃ。

信心の外には名号を申し受けたことではない。行者の胸の中の信心はその体、

南無阿弥陀仏ゆえに一念の信心を得た所が即ち南無阿弥陀仏の主になったのなり。

また当流の真実の宝というは南無阿弥陀仏これは別して浄土論に真実功徳相と

あるが名号のこと。功徳大宝海とあるのも名号のこと。

これは一多証文等に祖師の御釈がありて名号のことなり。

功徳と申すは名号なり。大宝海はよろずの善根功徳満ち充るを海に譬えたもう。

この功徳を能く信ずる人の心の中に速かにとくみちたりぬとしらしめんとなり。

しかれば信心の人は知らざるに功徳の大宝その身に充ちみつるがゆえに大宝海と譬えるなり。

よって我祖の二門偈にはそれを一所にして真実功徳大宝海といえり。

しかればもう当流において真実の大宝というは南無阿弥陀仏なり、

これ一念の信心なりと云々。その南無阿弥陀仏というが別のことではない、

即ち一念の信心じゃと六字の謂れを聞き開くがたのむなり、信ずるなり。

一念の信心じゃからは一念の信心の外に南無阿弥陀仏もなく、

南無阿弥陀仏の外に一念の信心もない、ということなり。

この御言を篤と得ねば蓮師の御文の聞其名号信心歓喜の御釈を

つい取り損ふてならぬことなり。 (御一代記聞書講義)

殺生・十悪等の罪を制断したまひ、畢竟じて犯さず行ぜざるをば、

すなはち十善・十行にして六度の義に随順すと名づけたまふ。(観 経 疏)


十悪の罪を犯さず、十悪業を行ぜざるを、すなわち十善十行と名づく。

十善十行とは、2色に似たれども、やはり十善行のことなり。

所修の方からいえば十善、能修の方からいえば十行と名づく。

随順六度の義とは、不殺生等の十善業が六度の義に随順するなり。

乃至

十善業を束ねて六度の行になる。

不殺等の四は施の行なり。命を取るを取らぬはこれ命を施すなり。

不盗等もまたそれなり。

不両舌は戒波羅密なり。

不悪口は忍辱の行にあたる。

不綺語は精進の行なり。

無貪無瞋が禅定の行なり。

所縁の境において貪瞋を起こすゆえ心散乱す。

不邪見は邪見愚痴をつつしむゆえににすなわち般若波羅密の智恵にあたるなり。

善導もこの義でのたもうとみえたり。

しかれば十善業がすなわち六度の義に随順す。

若不生者の誓いゆえ

若不生者のちかひゆゑ  信楽まことにときいたり

一念慶喜するひとは 往生かならずさだまりぬ

                    (浄土和讃)

この讃は即得往生のこころなり。

初めに「若不生者の誓い」とは、第十八の願名にあらず。

これは誓約の言葉なり。

乃至

この「(若不生者の誓い)ゆえ」というは、何を成するやと言うに

近くは第二句に成し、正しくは第四句に成す。

先、近くは第二句に成すというは

「信楽まことにときいたり」と行者の方に疑いなく信ずる信心の起こりしは

佛の方に「衆生往生せずば我も正覚とらじ」と

誓いたもうがゆえなりと成するこころなり。(大谷派 吉谷覚寿)

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