|
私は渡辺いっこう。フリープロデューサーである。 東京に桜の開花宣言。あと1週間〜10日ほどで満開になる。 日本の春の代表的な風景。 花と言えば桜。 はるか古より日本人は桜をこよなく愛してきた。 数え切れない多くの人が歌に詠んできた。 西行もいい、定家もいいが、崇徳天皇の雅な歌に心ひかれる。 朝夕に花待つころは思ひ寝の 夢のうちにぞ咲きはじめける 崇徳院 崇徳天皇は御諱は顕仁、鳥羽天皇の第1皇子、母は待賢門院・藤原璋子である。 わずか5歳で帝位に就き、英才教育を受けつつ、院政下にあっても積極的に天皇としての務めを果たした。 和歌は歴代天皇のうちでトップを争うほどの才能である。天才といっていい。 瀬をはやみ岩にせかるる滝川の われてもすゑに逢はむとぞ思ふ 惜しむとてこよひかきをく言の葉や あやなく春のかたみなるべき うたた寝は荻吹く風におどろけど 長き夢路ぞさむる時なき 永治2(1142)年12月7日、父上皇の強い意思により異母弟の体仁親王(近衛天皇)に譲位。時に24歳。 体仁親王は生まれてすぐ崇徳天皇の養子とされ、後の院政含みで促されたのに、当日になって「皇太弟に」と宣命にあり、天皇は色をなして怒ったという。 これでは傍流となり、院政は行えない。 崇徳天皇は、系図上曽祖父にあたる白河法皇の実子と噂され、父の鳥羽法皇からは「叔父子」と言われたらしい。 「待賢門院璋子の生涯」の著者の角田文衛氏は、当時の日記等の一級資料の研究から、崇徳天皇は当時の専制君主であった白河法皇と璋子との間に出来た子と断定している。 当時の観点からすると、これは「不義」にはあたらない。立派な天皇家の血筋なのである。 鳥羽法皇からすると皇統の競争者であり、これが忌避の理由。 久寿2(1155)年7月23日、愛子、近衛天皇が17歳で夭折すると、法皇は熟慮の末、自身の第4皇子の雅仁(後白河天皇)を帝位に就ける。 崇徳上皇は、嫡流であるはずの自分の復位、または子の重仁親王の登極が当然と考えていたところ、愚か者で評判の弟とは!あり得ない。 激怒とそこまで嫌われていたかとの悲嘆とが交錯。 政局の流れと相まって、悲しみの保元の乱へと突き進んでいく。 近くの公園のソメイヨシノは一つ二つ花が開いてはいるが、まだだなあ。 私もまずは夢に見ることにしよう。 今日も精進の日々である。
|
全体表示
[ リスト ]





「素晴らしい」の一言!西行が崇徳天皇が流された讃岐まで行って、菩提を弔った理由がよく分かりました。彼がその死を惜しむはずです。
2008/3/23(日) 午後 10:23 [ kas*iw*gi*hi*ai ]
再びのコメント、どうもありがとうございます。言霊を信じて疑わなかった時代、和歌は自分のすべてを投入した作品。崇徳天皇の一際高い帝王の品格がうかがえるかと。そういう人だから、弟の後白河が、世の人が怨霊と恐れたのでしょうね。
2008/3/23(日) 午後 10:51 [ いっこうさん ]