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「昨日雷がすごかったですよお。2日続けて花火かよ、なんて。私、雷は苦手なんです」 アシスタントの片桐くんだ。 ふむ、彼女は火雷天神の恐ろしさを知っているとみえる。 火雷天神とは菅原道真である。 トップクラスの怨霊だ。 私は渡辺いっこう。フリープロデューサーである。 今日7月28日は、陰暦の水無月26日。 延長8年6月26日(=西暦930年7月24日)の午三刻(午後1時頃)、京の都の中枢部・天皇の居ます内裏・清涼殿を惨事が襲った。 北方の空よりムクムクと広がった黒雲が陽を遮り、夜さながらの闇を雷が清涼殿の坤(西南)の第1柱に落ちた。 このとき清涼殿では、天皇主宰の公卿会議が開かれていた。 大納言藤原清貫と右中辨の平希世が即死。すぐ近くの紫宸殿でも2名が死傷した。 清涼殿は天皇が日常過ごす御殿、紫宸殿は重要儀式が催される正殿で、ともに聖なるエリア。 そこが神仏の加護もむなしくアタックされた・・・ 時の醍醐天皇は恐れ慄き、精神に異常をきたし、およそ3ヵ月後の9月22日に第11皇子の寛明に譲位、9月29日崩御とあいなった。宝算46。 世の人々は火雷天神・菅原道真の祟りと評した。 前段があった。 醍醐天皇は即位間もなく、同世代の藤原氏棟梁・左大臣の時平と意を通じ、うっとうしい父の寵臣・道真を右大臣から太宰員外帥に左遷した。 道真は、義憤と望郷の念を強く抱いたまま1年余り後の延喜3年2月25日(903年3月26日)に九州太宰府にて死去。 その後天候不順が続き、延喜9年4月4日(909年4月26)政権トップの藤原時平が39歳で病死。 すわっ、道真の怨霊! 延喜22年(923年)4月20日、朝廷は故道真を右大臣に復し、正二位を贈った。 高い官位・尊号を奉ってなだめるのが常套手段である。 しかし、醍醐天皇と時平の妹と間に出来た皇太子・保明親王が、翌延喜23年3月21日(923年4月9日)に21歳で薨去。 すぐに親王の遺児・慶頼王(母は藤原時平の娘・仁善子)を立太子させるも、延長3年6月19日(925年7月12日)、わずか5歳で夭折。 これは時平の血筋を天皇家に入れさせないという呪いか!? そして清涼殿に落雷直撃。 朝廷は全面降伏し、故道真に正一位の神階と太政大臣の極官とを贈り、また京都北野の地に社を建てて天満宮の神号を賜った。 太宰府の道真の墓の上にも社を建てた(太宰府天満宮)。 ようやくにして怨霊は鎮まった。 「うわあ〜、天神様って恐いんですね。でも、いまでは学問の神様ですよね。私もお世話になりました。霊験あらたかです」 霊験あらたか、ねえ。 「いま教員不正採用とか教頭・校長昇進にも恣意が働いていたとか言われてるよね。そんな連中に火雷天神がお怒りになるんじゃないかなあ。一天にわかにかき曇り〜」 「それはないでしょうね」 正義感の強い彼女としては意外な返事。 「ふうん、なんでかな?」 「だって、大分県、いえ、全国至るところが丸焼けになっちゃいますよ、きっと」 ・・・・・・ 今日も精進の日々である。
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