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私は渡辺いっこう。フリープロデューサーである。 相変わらず続発する振り込め詐欺、いじめ・自殺、強盗殺人・・・殺伐とした事件や痛ましい事故が溢れている。 人間の性は悪なのか? 我が心も乾いてきている。 そんなところに、ホッとするニュースがあった。 しかし、死産かと思われる状態で出産、母トラは育児放棄、緊急に人間が蘇生させた。 むさぼるようにネコ用のミルクを飲むのを見て安心したのもつかの間、仔トラたちには四肢に障害があることが判明。 免疫に大切な初乳を含んだ形跡もなし。 このまま育ててよいのか?自然界では淘汰されるケースだ。 しかし、懸命に生きようとする仔トラたちを見て、障害のある動物を動物園で保育することを決断。 希少なアムールトラとはいえ、費用倒れするのでは−−そんな懸念も無理からぬところ。 ところが・・・ 「9月28日、北海道の釧路市動物園のゲート前に長蛇の列ができた。四肢に障害をもって生まれたアムールトラのオス『タイガ』とメス『ココア』の公開を事前に告知していたのだ。 職員は急遽『最後尾』と書いたプラカードを作り、列を誘導。公開は数十分間だったが、2510人が入園し、子供たちから『頑張って!』の声が園内に響いた。」 市が援助を決め、NPOや地場産業の方たちが支援の輪に加わる。 介助設備を備えた新飼育舎が来年3月オープンすることになったという。 人間の性は善なり! 慈しみの心は、誰にでもプリインストールされている(と信じたい)。 ああ、釧路に行きたしと思へども、釧路はあまりにも遠し・・・(って、おい日本だよ)。 今日も精進の日々である。 注:上の画像は京都動物園の、下は旭山動物園のアムールトラ。
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出来事/雑感
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私は渡辺いっこう。フリープロデューサーである。 今日は11月19日。 私にとって忘れがたいメモリアルな日だ。 「全日空よりご搭乗の皆様にお知らせいたします。北京空港大雪のため、現地の状況によっては成田に引き返す可能性がございます。予めご了承下さいますようお願い申し上げます」 すでに予定出発時刻をかなり経過してこのアナウンス。波乱の幕開けだ。 なんとか着陸したが、北京はシーズン初の大雪で冷凍庫状態。気温マイナス10度。寒かったー。 翌日朝、道はアイスバーンと化し、郊外の万里の長城はアプローチできず、ツアーは明の十三陵に行くことになった。 広大なエリアに、明の時代の13人の皇帝の陵墓が点在。神宗・萬暦帝の定陵等が一般公開されている。 歴史好きとしてはかねてから行きたかったスポット。勇んでバスを降り、足を踏み出した。 ところが、数歩してスッテンコロリン、ズデッ、ゴロリン。おいっ、ここはスケートリンクか! 地下宮殿に入り、皇帝・皇后の棺や副葬品を見る。帝国末期の萬暦帝でこのレベル。建国の世祖・永楽帝の長陵はいかばかりか。私が密かに注目している武宗・正徳帝の泰陵はどうなっているのか。興味は尽きず。 天壇公園から天安門広場、そして故宮・紫禁城へ。 ほとんど石畳、しかもセンターの皇帝の輿の専用のラインに大理石がはめ込まれているのだが、その上をわざわざ歩いたものだから、再々転びまくった。その数十数回。ツアーで一緒になった人たちから呆れられた。 「無様ですねー。ちょっと傍に寄らないでください。恥ずかしいなー、もうっ。運痴なんですね」 情け無用の聴き手はアシスタントの片桐くんだ。 「なんてこと言うんだ。これには理由があるんだよ。寒さ対策はしていたんだが、道の凍結には思い至らず、履いていたのは底がツルツルのファッションブーツだったんだよ」 「はは〜ん、見栄張ったのが裏目ったんですね」 「ううっ」 気温マイナス20度。大陸の冬将軍恐るべし。 アルコール度56%の白酒がスイスイ飲める。しかも酔いが表面化しない。 ううむ、その土地の風土と地酒は切り離せないものだと実感した。 3日目。気温が少し上がって、氷が解け始め、転ぶ回数も減った。土産物を買ったり、写真を撮ったりと、北京を楽しむ余裕もできた。 明朝最後の皇帝、崇禎帝が自殺した景山からの眺めは印象的。頤和園は雄大でよかった。 西太后さん、ありがとう! 必殺技・地獄車の特訓かと思わせるほど転んだが、まあ、終わり良ければすべて好し−−なんて安堵したが、クライマックスは最後に待っていた! 北京空港で、現地のツアコン(東京からのツアコンは当初からいない)からチケットを渡され、搭乗手続きをする。 到着便が強風で遅れているとのアナウンス。そのためかゲート番号は書かれていない。 出国手続きを済ますと、一緒のツアーの人たちは免税店に。昔ながらの品揃えにうんざりして一人別行動に。 この時の北京空港は旧い時のもの(1999年に日本のODAを受けて大改造が行われた)。真ん中にエスカレーターが2本。両サイドに通路があった。エスカレーター手前の右手に「JAL/ANA」と表示されているゲートがあり、ここかなと思ったが「First Class」とも書かれており、小銃抱えた兵士の存在もイヤだし、時間もあったので中心部へと行ってみた。 ウォークマン聴きつつ本を読んでいたら、スーツ着た男性が大声あげて走ってくる。 「日本航空○○便、成田行きのお客様はいませんか〜」 ドキッとしたが、こっちは全日空だもんね、搭乗手続き・出国手続きを済ませているから機内の人数が合わなければ飛ばないよねえ、最後の最後はああいうチェックがあるんだあ、と。 時折アナウンスに注意したがまだみたい、暗くなってきたなあ、段々と人が少なくなっていくなあ、と気弱になっていたその時だ。 窓の外を機影がかすめていった。あれっ、まさかANAと書かれていなかったよねえ。そ、そんなはずない、うん、まさかそんなはずは・・・。 インフォメーションの中国人の女性に確認してみる。 「(チケットを示して)Is this flight not ready ?」 「−−Already gone.」 「Oh my God !(とは出てきませんでした。はい) Already gone !?」 そうよ、うるさいわね、シッシッと。 「ええーっ、そんなことあるんですかあ!? へぇー。そこからどうやって生還したんですか?」 「うん、ツアコンの名刺を持っていたので、そこにHelpを求めようと。電話だ。財布をみたら1万円札しかない。電話用のコインを求めて両替してもらったら人民元がどっさりと返ってきた。当時は観光客は使用できなくて紙クズ同然なんだけど、背に腹は変えられない」 「ふんふん」 「電話をかける。"Is there someone(いけね、疑問形はanyoneじゃ)who can speak Japanese ?"」 「ははは、必死ですね。よく関係代名詞使えましたねえ」 やっと日本語話せる中国人が電話に出た。 「ワタナベさん、カウンターで待っててください。今晩のホテルを取りましょう。AとBとどちらがいいですか?」 「は、はい。ではB飯店を。と、ところで、ここからどうやって出たらいいんですか?」 「? いったいアナタどこにいるんですか? エッ、そんな奥にいるの!? そこに中国人の空港スタッフいるでしょ。電話代わって下さい」 通りがかりの女性スタッフに"Help me !"と。怪訝な表情の彼女の電話を切った後の蔑んだような顔。中国女性はキライじゃあー。 「渡辺さ〜ん! 渡辺さんはどちらですかあ〜」 カウンターに戻ってくると、全日空・北京空港事務所の人がすっ飛んできた。 事情を説明すると、「普通は離陸しないんだけどなあ。探しにも来なかった?すみませんでした。明日の便に振り替えます」と。 「宿泊費は自己負担ですか?」 「うん」 「所長らしくない。『おんどれらのせいじゃい。ホテル代持たんかい、このボケ!』とかスゴめばいけたのでは?」 「なぜ関西弁になる?まあ、分からんでもないが」 明くる日。空港に行くと、全日空のカウンターが異様な雰囲気。 <成田行き△△便のお客様、ゲートは○番です。どうぞお間違えなさいませんように!> スタッフみんなが大きな声出して案内している。基本に忠実。昨日の人もいたが、私と目を合わせようとしない・・・。 こうして23日に無事帰国できたが、亡父の七回忌は欠席となってしまった。 百里を行く者は九十里をもって半ばとす−−かあ。 私はAlready goneを生涯忘れないだろう。 今日も精進の日々である。
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私は渡辺いっこう。フリープロデューサーである。 11/11(火)19:56〜21:48、去る7日に死去したジャーナリスト筑紫哲也さんの追悼番組がオンエアされた。 「筑紫哲也氏追悼番組 ガンとの闘い500日…筑紫さんが遺したもの」 友人で、勉強会メンバーであるTBSテレビの池田裕行さん(パリ支局長)がメールをくれて、「10日に正式決定、NEWS23のスタッフを中心に寝ずの作業で取材・編集、収録の準備をしていることだと思います。みなさん、是非ご覧になってください!」と。 編成も宣伝部もスポンサー関連の調整をされたことだろう。 私も色々といわくもある。仲間内にアナウンスした。 番組を見て、たくさんの人のインタビューを撮っているなあと驚いた。全部を前日の10日に取材したようだ。 編集も大変、フル回転だ。Vが間に合わなかったら一大事である。 スタッフ一同一丸となって作業をし遂げたね。立派だ。パチパチパチ。 筑紫さんをキャスターに抜擢した「NEWS23」は、1989年10月2日スタート。平成元年から今日まで19年間放送を続けてきたわけだ。 エポックメイキングなニュースを採り上げ、その時々の筑紫さんをクローズアップして振り返る。 スタッフの思いは分かるんだけど、正直言ってやや覚めていた。 一視聴者からすると、筑紫哲也という人物を英雄視してはいない。one of them。筑紫さんにはお会いしたことがないし。 彼というよりも、彼が作ってきた番組には大いに思いがある。 座ってじっと見ていた私に、当時のキャスターだった浜尾朱美さんがオンエア直前に近寄ってきてドキッ!「くしゃみだけはしないで下さいね」と(笑)。 旧いスタジオの時、迷路のような通路をスポーツキャスターだった小林繁さんが飛ぶように駆けてきたっけ。 新築された社屋の2Fの報道フロアを見させてもらい、「こんなにスッキリしたレイアウトでは、クーデターが起こったときに問題だ。迷路みたいなのがよかったのでは?」なんて言っている傍をクスクス笑いながら通り過ぎていったのが報道局長だった。 番組プロデューサーだった辻村國弘さん(後に「世界遺産」プロデューサー)と親しくお付き合いさせていただいていたから出来たことだ。 辻村さんからは、番組のこと、キャスターのこと、筑紫さんのことなど色々と伺った。 デスクだった小島英人さん、初代キャスターだった池田裕行さんとも知り合った。 2001年9月11日のアメリカ同時多発テロが起こった夜、私は、「世界遺産」のプロデューサーになっていた辻村さん他と、新宿歌舞伎町の怪しげだが非常に安くて美味い上海料理屋でワイワイやっていた。 翌日プレゼンがあり、二次会は失礼して急いでタクシーに。すると、運転手さんから「ニューヨークで大事件が起こったようですよ」と知らされた。帰宅してすぐさま「ニュース23」を見る。衝撃の映像が飛び込んできた。 田原さん、立花さん等の仲間の出演もまあいいけど(膳場さん、キレイでした)、視聴者の自分史と重ね合わせた「NEWS23」、筑紫哲也という視点が欲しかったな。要は視聴者の声。 制作に時間的制約があったことは重々承知しているんだけど(すみません、言いたい放題で)。 また、テレ朝の「ニュースステーション」、久米宏さんの存在も忘れてはいけない視点。2つの番組が切磋琢磨して成長した。 久米さんは、茶の間の主婦に時事問題が理解できるように、単純化してビジュアル化して視聴者の言葉で話す。稀代の話術師。 筑紫さんはジャーナリスト。雑誌編集の考え方をTVに。権力・強者へのチェック機関であらねばならない。 TVというメディアの変遷の中で、この2つの番組、あるいは2人の人間がどう位置づけられるのだろうか。まだ時間が必要だね。 番組のエンディング、井上陽水さんのライブ、「最後のニュース」。 彼は筑紫さんの親友の1人。あのクールな曲を熱く歌っていた。息をのんで耳を傾けた。 「今、あなたにGood-Night/ただ あなたにGood-Bye」 一つの時代が過ぎ去っていったなあ。我が青春もかな。 今日も精進の日々である。
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私は渡辺いっこう。フリープロデューサーである。 10月30日に、元アサヒビール会長の村井勉さんが亡くなられたとの報道を読んだ。 住友銀行(現三井住友銀行)で出身で、1976年に東洋工業(現マツダ)に出向し、経営の立て直しに成功。副頭取となったが、82年朝日麦酒(現アサヒビール)社長に転じる。経営危機に陥っていた同社を立ち直らせ、奇跡と言われる躍進の土壌をつくった。87年JR西日本の初代会長。 躍進の指揮をされた樋口廣太郎さんとは何度かお会いしたが、村井さんとはお目にかかることが出来なかったな。 村井さんこそ、アサヒビール再生の真の立役者なのだが。 1人は、元マーケティング部長(その後、常務、専務、アサヒ飲料専務、アサヒフードアンドヘルスケア社長、退社)の松井康雄さん。 彼が、「コクがあるのにキレがある」生ビール、そしてスーパードライを開発し、強力に市場に押し出した張本人である。 当時の同社マーケティング部は商品開発と宣伝との両方を担当していていた。 松井さんは、“干されていた時期”(本人談)に万巻のマーケティング書を読み漁り、かつ熱く会社の再生を語っていた人。並みいる広告代理店の浅薄な理屈を片っ端から論破し、非常に恐れられた。 その当人から色々と話が聞けたのは財産だ。 ○「コク・キレ」ビール(86年2月発売)のコピーの原案はオレが考えたんだよ。「コクがあるのにキレがある」。代理店の付加価値は「のに」。ゴルフの青木功とジャンボ尾崎を候補にあげたのも自分だ。 ○4社しかないのに(オリオンビールを除く)シェアが9.6%なのは、味が支持されていないということ。味を変えなくちゃダメ。 ○スーパードライ(87年3月発売)は生産本部長とオレが企画した。会議では「ビールに辛口なんかあるか!」とボロクソに叩かれた。それでも頑張ったら、樋口さんが「サンプルはあるのか。まず飲んでみようじゃないか」と。それで製品化に漕ぎ着けたんだよ。 ○樋口さんは“瞬間湯沸かし器”。すぐカッとなる。「おまえはクビやっ」と30回くらい怒鳴られたよ。前に向かって突進するには樋口さんのようなトップがよかった。マスコミも連日のように樋口さんを採り上げた。しかし、会社の基礎を立て直したのは村井さんだ。 ビールの大量広告宣伝は松井さんに端を発する。パワー・マーケティングだ。大成功を収めはしたが、宣伝費の増大はいまや経営を圧迫し、またミニ・ロットの市場開拓が疎かになるなどの弊も生んだ。しかし、業界として松井メソッドをいまだに超えられていない。 もう1人は、現同社常務取締役の泉谷直木さんだ。当時は、CI事務局長兼広報課長だった(85年10月CI導入宣言)。 CIに係るコンセンサスづくり、各メディアへのデータ提供と露出のチェック、取材への対応、社内へのフィードバック、経営トップまわりのサポートと八面六臂の大活躍をしていたなあ。 泉谷さんは、私が幹事を務める勉強会のメンバー。現時点で開催回数は142回だが、第100回記念に泉谷さんにプレゼンテーターをお願いした。そこでの印象的な話。 村井社長・会長の出張に度々随行した。村井さんは、そうした折にいつも本を手渡された。 (テストやな。このくそ忙しい時に参るなあ)と思ったが、本を見るとメモが挿入されている。(ここ読めばいいんだ)。新幹線の中で必死に読み、考えた。しかし、試問はない。 次の時、また本を渡された。今度はメモがない。ウーッと唸ってたら、所々傍線が引いてある。(ここだな)。でも問いはない。 さらに。この時はメモも傍線もない。(やれやれ)と思ったら、いくつかのページの角が折れている。(そうか!)。 いくつも啓発を受け、勉強もした。そして、本は真っ白になった。 つまりは、部下を育てていたということ。村井さんは実に懐が深かった。 ちなみに、樋口社長の場合はこんなことがあった。 廊下、エレベーターで顔をあわせる度に大きな声で「おい泉谷、なにか(要求・希望は)あるか?」と。「大丈夫です。ありません」と答えたら、「バカモン!問題意識なし」。 次の時にはアンサーを用意しておいたら、「バカモン!1つだけなのはオマエの単なる不満だ」と。 (なにくそーっ)と3つ用意しておいた。「バカモン!優先順位をつけんかい」(笑)。 1984年、アサヒビール(朝日麦酒)のシェアはわずかに9.6%。はっきり言って倒産寸前だ。 経営に対する不信、現状への不満でネガティブなエネルギーが充満していたことだろう。コンサルティング会社に依頼して、現状分析と改善方向については出ていたようだが、しかし、人間は感情の動物である。理屈通りにはいかない。 「私は悪くない。周りがダメなんだ」 そうしたバラバラの構成要素をすべて抱きかかえ、一つのベクトルに形づくる。至難のマネジメントである。 村井勉さんは、それに幾度も成功した包容力に富む優れた経営者だった。 ご冥福をお祈りいたします。 今日も精進の日々である。
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「所長、元気ないですね。夏休みボケですか?」 デリカシーがないのはアシスタントの片桐くんだ。 「う、うん。実は、昨日、自宅で唐突に悲劇が勃発したんだよ」 「えっ、『悲劇』ですか!?」 「20年も一緒にいたオカメインコのチビが行方不明になってしまったんだよ。ううう〜」 「はあ〜」 私は渡辺いっこう。フリープロデューサーである。 昭和62年の暮に父親が亡くなって、後を追うようにポメラニアンが死んでしまい、妹が母親が寂しくないようにと1匹のオカメインコのオスを買って来た。我が家ではインコの名前はいつも<チビ>で、3代目チビが誕生。 何年かして妹は結婚して家を出て行き、母親が面倒を見ることに。 このチビ、「ケージから出せ」と騒ぐは、「自分だけではサビシイ、こっちへ来い」と喚くは、寝っ転がってTVを見ていると「相手をしろ」と足をかむは、「ええい、ウルサイ!」と叱るとギャーギャー反抗するはと、まことに自分勝手で煩わしい。 妹に孫が産まれると、母はいそいそとそっちの世話をしに行き、私がチビの世話をすることが多くなった。(こいつ、いつまで生きるんだよ)なんて考えたりも。 でも、心細くなると私の肩に飛んできて、頭や嘴、顎をかいてくれと甘えてくるようになった。往々にして糞の爆弾を落すのだが・・・ まあ、小さくても生命なんだな。 8月18日(月)の朝、母がいつものようにチビのケージを2階の窓際で息を吹きかけて、溜まった羽毛を飛ばそうとした瞬間、手を滑らせてケージを下に落としてしまった! ケージは壊れて、投げ出されたチビはパニックに陥り、飛び立っていってしまったそうだ。 皆で慌てて探すが見つからない。声をかけても反応がない。ついに行方不明に。 やれやれ。母のケアが重要だな。「残念だけど事故だからね。きっと誰かに拾われているよ。大丈夫」と。 ところが、どうも落ち着かない。いったいどうしたことか。胸がスウスウする。ああっ、大きな穴が穿たれているぞ。 ケージから出してくれと片足を挙げ<オハヨー>をするチビ、自分から「チビチャン」と鳴くチビ、飲めもしないくせに硝子のコップの縁を嘴でコツコツ叩くチビ、ご飯が大好物だったチビ・・・・・・ごめんね。悲しいよ。 「チビちゃん、ほんとかわいそうですね。所長、これはペットロス症候群ですよ」 「・・・やっぱり?」 「立派なペットロス症候群です。ポッカリ空いた穴を埋めなくちゃいけません。お母様にはお孫さんがいるようですが、所長には何もないですからねえ」 「・・・・・・」 新たにペットを飼うのが有力だが、母が「もう生き物はこりごり」と言っているしなあ。人間に目を向けるかなあ。 「私はカレシがいますからね」 ええい、誰が小娘なんかに。 ああ、悲しくって悲しくて〜♪ 今日も精進の日々である。
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