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私は渡辺いっこう。フリープロデューサーである。 「5月12日って、織田信長の誕生日なんですよ。所長、知ってました?」 いきなりのクエスチョンはアシスタントの片桐くんだ。 最近なんか歴史好きな女性が多いんだってね。 「歴女」とかいうらしい。 たしかに、天文3年5月12日(1534年6月23日)の生まれだ。 小説、TV、映画等々で語り尽くされてきたので、いまさらここで説明はしない。 鳴かぬなら殺してしまえホトトギス これは江戸時代に見られるもので、信長の時代のものではないが、なかなか巧みな寸評かと思う。 大軍を率いて入京し、古の木曽義仲のような野蛮な略奪があるのではと恐れられる中、連歌師の里村紹巴が二本の扇を信長に差し出し、「二本(日本)手に入る今日のよろこび」と述べたところ、「舞い遊ぶ千世万代の扇にて」と返し、民衆に教養のある人物だと感嘆されたいう。 これはヤラセくさい。 人間五十年 下天のうちをくらぶれば 夢幻の如くなり ひとたび生を享け 滅せぬもののあるべきか 幸若舞「敦盛」の一節。 本能寺に襲われ、最期の瞬間、やはりこれを口ずさんだのだろうか。 生き急いだんだね。 「人間五十年。所長は少し生き急がないといけないんじゃないですか」 グサッ。 「そうそう、この間、神田小川町の『時代屋』さんで所長を見かけましたよ。ミニスカの女性たちを見つめていたような。イヤらしいです」 ち、ちが〜う。 て、敵は本能にあり!? 今日も精進の日々である。 注:掲図は、狩野永徳作「織田信長像」(大徳寺蔵)
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History
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私は渡辺いっこう。フリープロデューサーである。 政治が迷走している。 昨秋来の米国発世界不況が押し寄せ、好調といわれた我が国経済のもろさ・矛盾を露呈させることになった。 資本主義の行き過ぎだな。 過剰流動性がバブル景気を招き、社会にダイナミズムを与えるものの、バブルの破綻が実態経済をも弱体化させ、社会矛盾が表面化する。 改革vs現状維持の闘争が生じ、暴力が結びつけば革命や戦争と相成る。 ソフトランディングは古来困難である。 歴史は繰り返す。 以前より中国の北宋の時代に注目してきた。 強力な経済力を有すれども、軍事的には劣り、平和を金で購っていた。 侮蔑しているのではない。 武よりも文を優先したこの国に共感するのである。 戦後の日本と似ているね。 経済が頂点に達したのは4代皇帝・仁宗の頃だ。 南方の農業生産が向上し、商品流通が全国に拡大、鋳造する貨幣の量は莫大で国外に流出するほどだが足りず、為替等の金融が誕生した。 ところが、数十年の後、社会が動揺し出した。 貧富の差が大きくなり、国家財政が行き詰まってきたのだ。 対策を講じようにも、既得権益者のバリアー強し。 ここに登場したのが、王安石である。 王安石(おう・あんせき) 天禧5年11月12日(1021年12月18日)生まれ、元祐元年4月6日(1086年5月21日)没、享年66歳。 6代皇帝・神宗の熈寧2年(1069年)2月3日に、副首相に当たる参知政事に抜擢され、エネルギッシュに改革に取り組む。 健全な中産階級の存在が国力アップには不可欠との行政改革・税制改革(新法)は、猛烈な体制側の反発を受けながらも進められた。 王安石は、科挙に合格したエリート官僚でありながら地方行政のキャリアを重ねてきており、人々の疲弊・生活苦をまざまざと認識していた。 熈寧9年(1076年)10月23日、精魂尽き果てた王安石は後輩に後を譲って引退。 情熱を燃やす皇帝が崩御し、旧体制派が巻き返して、改革は頓挫。 そのうちに北方民族の侵入に遭い、国は滅んだ。 王安石の愛した梅を詠んだ詩。 梅花 牆角数枝梅 牆角(しょうかく)数枝の梅 凌寒独自開 寒を凌ぎて独自に開く 遥知不是雪 遥かに知る是れ雪ならざるを 為有暗香来 暗香の有りて来たるが為なり 制度疲労に悩む日本。 プライマリーバランスの極端な悪化、行過ぎた資本主義、肥大した行政機構… 小手先の「改革」では無理、いや中途半端な改革はかえって弊害をもたらす。 税の徴収と分配という国の形を抜本的に改めなければならないタイミング。 どうです、北宋と同じでしょう? 敢然と濁流に立つ王安石のような政治家が出てこないものか。 メシアをただ待つのではなく、私たち国民、生活者が覚醒しないといけないな。 ーーこんなことを考えた年頭である。 今日も精進の日々である。
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私は渡辺いっこう。フリープロデューサーである。 1908年11月14日、大清帝国皇帝・愛親覚羅載湉(光緒帝)が崩御した。 宝算38。 光緒帝は、1875年2月、数え歳で5歳にして中国皇帝に即位。 恭親王奕訢が摂政、前皇帝(同治帝)の母后・西太后が実権を掌握。 アヘン戦争の敗北以来、欧米列強の蚕食にあえぐ中国・清では、日本の明治維新にならって西洋化政策を進めようという機運が高まっていた。 18歳の若き光緒帝は、光緒24年4月23日(1898年6月11日)、「国是を定める詔」を宣言し、改革をスタートさせた。 戊戌の変法という。 理想にはしる改革は各方面で摩擦・軋みを生じ、既得権益に拠る者たちからの憎悪を胚胎させた。 改革開始からおよそ100日。8月6日(=9月21日)、西太后が袁世凱の軍事力を使ってクーデターを起こし、改革派を大弾圧、皇帝を病気と称し幽閉してしまった。 以後、西太后が国政を舵取りし、迷走を重ねつつ、帝国は終焉を迎える。 さて、光緒34年10月21日(1908年11月14日)、幽閉中の光緒帝が急死。翌10月22日(=11月15日)には西太后が亡くなる。これって変でしょう? つい最近、科学者チームが光緒帝の遺髪から大量の砒素を検出したと発表した。やはりね。 しかし、誰の犯行かは謎のままだという。古来、自らの死期を覚った西太后が、政敵である皇帝を毒殺したと言われている。しかし、西太后は巷間信じられているほど愚かではないらしい。真犯人は光緒帝の改革を潰した実行犯の袁世凱で、復権した皇帝からの報復を恐れて先制攻撃したとの説が有力になってきている。 この時代は、浅田次郎のベストセラー『蒼穹の昴』他で描かれているね。フィクションだけど。 日本人は悲劇のヒーローが好きだけど、中国人はちがうようだ。 北京を観光で訪れた時、現地のガイドさんに尋ねてみた。 「光緒帝は中国でどう評価されていますか?」 「暗君。弱い皇帝です」 へえー、そうなんだ。でも、考えてみると、数十万人の敵兵を殺戮しようが、体制批判の学者たちを生き埋めにしようが、中国人は始皇帝を高く評価している。文化大革命などという暴力で数千万人の無辜の民を殺傷し、財産を奪っても毛沢東を崇める。 つまり、強い皇帝が好きなんだね。 始皇帝の統一前、中国大陸は言語も生活習慣も異なるいくつもの国に分かれていた。元々この国は放っておくとバラバラになる性質があり、一つに束ねるには強大な皇帝権力が必要なのだ。弱い君主は悪なわけだね。 そういう観念が染みとおっている。 現在の中国をみるにあたって、この視点は重要だと思うな。 光緒帝・西太后死してちょうど100年。 往時已に空と成り、還た一夢の中の如し。 今日も精進の日々である。
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「昨日雷がすごかったですよお。2日続けて花火かよ、なんて。私、雷は苦手なんです」 アシスタントの片桐くんだ。 ふむ、彼女は火雷天神の恐ろしさを知っているとみえる。 火雷天神とは菅原道真である。 トップクラスの怨霊だ。 私は渡辺いっこう。フリープロデューサーである。 今日7月28日は、陰暦の水無月26日。 延長8年6月26日(=西暦930年7月24日)の午三刻(午後1時頃)、京の都の中枢部・天皇の居ます内裏・清涼殿を惨事が襲った。 北方の空よりムクムクと広がった黒雲が陽を遮り、夜さながらの闇を雷が清涼殿の坤(西南)の第1柱に落ちた。 このとき清涼殿では、天皇主宰の公卿会議が開かれていた。 大納言藤原清貫と右中辨の平希世が即死。すぐ近くの紫宸殿でも2名が死傷した。 清涼殿は天皇が日常過ごす御殿、紫宸殿は重要儀式が催される正殿で、ともに聖なるエリア。 そこが神仏の加護もむなしくアタックされた・・・ 時の醍醐天皇は恐れ慄き、精神に異常をきたし、およそ3ヵ月後の9月22日に第11皇子の寛明に譲位、9月29日崩御とあいなった。宝算46。 世の人々は火雷天神・菅原道真の祟りと評した。 前段があった。 醍醐天皇は即位間もなく、同世代の藤原氏棟梁・左大臣の時平と意を通じ、うっとうしい父の寵臣・道真を右大臣から太宰員外帥に左遷した。 道真は、義憤と望郷の念を強く抱いたまま1年余り後の延喜3年2月25日(903年3月26日)に九州太宰府にて死去。 その後天候不順が続き、延喜9年4月4日(909年4月26)政権トップの藤原時平が39歳で病死。 すわっ、道真の怨霊! 延喜22年(923年)4月20日、朝廷は故道真を右大臣に復し、正二位を贈った。 高い官位・尊号を奉ってなだめるのが常套手段である。 しかし、醍醐天皇と時平の妹と間に出来た皇太子・保明親王が、翌延喜23年3月21日(923年4月9日)に21歳で薨去。 すぐに親王の遺児・慶頼王(母は藤原時平の娘・仁善子)を立太子させるも、延長3年6月19日(925年7月12日)、わずか5歳で夭折。 これは時平の血筋を天皇家に入れさせないという呪いか!? そして清涼殿に落雷直撃。 朝廷は全面降伏し、故道真に正一位の神階と太政大臣の極官とを贈り、また京都北野の地に社を建てて天満宮の神号を賜った。 太宰府の道真の墓の上にも社を建てた(太宰府天満宮)。 ようやくにして怨霊は鎮まった。 「うわあ〜、天神様って恐いんですね。でも、いまでは学問の神様ですよね。私もお世話になりました。霊験あらたかです」 霊験あらたか、ねえ。 「いま教員不正採用とか教頭・校長昇進にも恣意が働いていたとか言われてるよね。そんな連中に火雷天神がお怒りになるんじゃないかなあ。一天にわかにかき曇り〜」 「それはないでしょうね」 正義感の強い彼女としては意外な返事。 「ふうん、なんでかな?」 「だって、大分県、いえ、全国至るところが丸焼けになっちゃいますよ、きっと」 ・・・・・・ 今日も精進の日々である。
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私は渡辺いっこう。フリープロデューサーである。 こんな記事があった。 「ベルギーのワーテルロー(Waterloo)で21日、1815年6月18日に行われた『ワーテルローの戦い(Battle of Waterloo)』の記念イベントが開かれ、当時の兵士に扮した1,200人近くが欧州22か国から参加した」 そうか、ワーテルローの戦いか・・・。 ※記事そのものはコチラ 英雄ナポレオン(ナポレオン1世)は、魔術の如き戦術で連戦連勝、ヨーロッパ全土に君臨した。 対英貿易を禁じた大陸封鎖令に叛旗を掲げたロシアに対して65万もの軍勢(第一次大戦まで破られず)で遠征を行うものの、ロシアの焦土作戦と冬将軍に敗退。 1813年10月、一斉に蜂起したプロシア、オーストリア、ロシア他の連合軍とドイツ・ライプツィヒにおける壮絶な戦闘に敗れ、パリ防衛もならず退位、地中海のエルバ島に配流の身になった。 ヨーロッパの新体制を討議するウィーン会議がぐずぐずしている間に、ナポレオンはエルバ島を脱出、1815年3月1日にフランス本土に上陸、3月20日パリに無血入城した。 さあ、ワーテルローの大戦である。 まず、6月16日にリニーの戦いでプロシア軍を一蹴。ナポレオンの往年の強さを思わせた。 敗走するプロシア軍に対してグルーシー元帥に追撃を命じる。ああ、これが躓きの第一歩。 運命の6月18日。 ナポレオンは、雨でぬかるんでいるので大砲の移動が困難と考え、騎兵主体の攻撃を選択。これが第二の躓きだ。 フランス軍の前衛を指揮する第三軍のネイ元帥は、防備を固めるイギリス軍に騎兵隊1万で突撃を敢行。多大な犠牲を払いながらも突破のチャンスをつくった。 ここで総予備の近衛兵を繰り出せば勝利!しかし、ナポレオンは躊躇してしまう。 なんと側面にプロシア軍が猛進してくる。3万のグルーシー軍をまいて戦場に戻ってきたのだ。 ナポレオンは近衛兵を投入したが時すでに遅し。イギリス軍も逆襲し、プロシア軍と挟撃。さしものフランス軍も壊滅状態となった。 フランス近衛兵団を統率するカンブロンヌ将軍にイギリス軍が降伏を呼びかける。カンブロンヌ将軍の答えが有名だ。 「近衛兵団は死すとも降伏せず(La Garde meurt mais ne se rend pas)」と言ったとも、あるいは「糞ったれ!(Merde!)」と言ったとも。 たぶん後者だと思うな(笑)。 かくして、ナポレオンのフランス帝国の栄光は幕を閉じた。 ネイの突撃の前に砲撃するのがセオリーだよな。アウステルリッツの時のように敢然と近衛兵を投入できないとはナポレオン老いたり。いやいや、この頃はもう彼の体調は思わしくないんだよ。グルーシーの阿呆でなく別の将軍に任せたらニ正面に敵を受けてなかった。 −−ヨーロッパ人の大好きなテーマである。私も好きだが。 そうそう、かのロスチャイルドはこの戦いで大儲けして財閥化したんだっけ。 これも面白い話だが別の機会に。 「やっと長話が終わりましたか。ところで、<ワーテルロー>ってフランス語読みで、英語だと<ウォータールー>ですよね」 白けさせるのはアシスタントの片桐くんだ。 「おいおい、にっくきイギリスの味方する気なの?男のロマンが分かっていないなあ」 「戦闘ごっこなんてどうでもいいんです。なんといってもウォータールー橋ですよ」 「Waterloo Bridge・・・・・・ああ、映画『哀愁』か。ふふん、メロドラマやん」 「なに言ってるんですか名作ですよ、名作。所長だって、『風と共に去りぬ』に続いてヴィヴィアン・リーがなんとも神々しいって、机にブロマイドを貼ってるじゃないですか」 げげっ、見たなあ! 今日も精進の日々である。
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