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私は渡辺いっこう。フリープロデューサーである。 5月12日に中国四川省で発生した大地震はマグニチュード(M)8.0、18日現在死者3万2,000人超、負傷者20万人以上という未曾有の大惨事となっている。 被災された方々に心よりお見舞い申し上げる。 チベット問題等でギクシャクしていた日中関係・国際関係が、救援隊の派遣やいち早い支援表明によって、一気にわだかまりが解けた状態が現出した。 甚大な災害ではあるが、ひょっとすると新たな時代の扉を押し開けたのかもしれない。 今回は以下に3つの大地震をご紹介する。 1.文治京都地震 元暦2年7月9日(=1185年8月6日)午の刻(正午頃)に京都を中心に起こった地震。M7.4。 白河あたりの被害がとくに大きく、法勝寺の八角九重の大塔が大破した。社寺・家屋の倒潰破壊多く死者多数。 この地震が起こる3〜4ヶ月前の3月24日に、長門の国壇ノ浦にて平氏一族が族滅している。当時の人々は、この地震を「平家の呪い」と恐れ慄いた。8月14日に「文治」と改元。 当時の最高権力者の後白河法皇は、戦災で焼けた東大寺の大仏の再建を最優先し、老体ながら自ら大筆で開眼供養を行った。 そして、武者の世になった。 2.慶長京都地震 文禄5年閏7月13日(=1596年9月5日)、子の刻(深夜零時〜2時頃)に京都畿内を襲ったM7.5の大地震である。 時の独裁者、豊臣秀吉が造営したばかりの伏見城の天守閣が崩壊し、奉公衆などおよそ1,500名が圧死。秀吉も命からがら逃げ出している。方広寺大仏殿も大破し、堺などでも数百名の死者が出ている。 この地震の1年前、文禄4年7月15日、秀吉は甥で後継者の豊臣秀次を高野山に追放のうえ切腹。また8月2日には、その愛妾・遺児30余名を三条河原で処刑している。 秀次は「殺生関白」などと言われているが、どうも後世の作り話、権威を失墜させるための悪質なデマで、しっかりと行政の長の役目を果たしていたらしい。 人生最後のときに授かった秀頼への盲目的な愛情により、強引に秀次を追い落としたというのが定説。悪役の石田三成はむしろ秀次をかばった形跡があることを付言しておく。 10月27日、「慶長」と改元。 大地震を秀次たちの祟りと恐れた秀吉は、朝鮮侵略の暴挙を行い、耄碌していく。 膨張の時代から、安定の時代へ。 3.元禄大地震 元禄16年11月23日(=1703年12月31日)の丑の刻(午前2時頃)に関東地方に起こった大地震。M7.9〜8.2。江戸の町の被害が大きく、死者およそ1万人、全半壊家屋24,000戸を数える。房総半島、小田原では津波被害で数千人の被害。 この年の2月4日には、赤穂浪士46名が切腹しており、その祟りと言われた。 生類憐みの令や激しいインフレ経済と相まって、庶民の将軍徳川綱吉に対する怨嗟の声は高まっていった。 翌年3月13日に「宝永」と改元。 経済の高度成長期は終焉に。 天災へのどうしようもないやるせなさ、怒りは時の為政者に向かいがちになる。 中国には、ネガティブではなく、是非良い方向に進んでいってほしいものである。 それには情報公開がかなり重要。 その点で、今回の中国政府はいままでのところかなりオープンではある。 情報の隠蔽は怒りの矛先を呼び込むことになりかねない。 もう一つは人の情だ。 被災者たちのストレスをどう和らげるか、不正な工事などの原因追求は必至だろう。 また、世界との紐帯というプラス材料をいかに維持していくか。 災い転じて福となしていってほしいものだ。 今日も精進の日々である。
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History
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私は渡辺いっこう。フリープロデューサーである。 東京に桜の開花宣言。あと1週間〜10日ほどで満開になる。 日本の春の代表的な風景。 花と言えば桜。 はるか古より日本人は桜をこよなく愛してきた。 数え切れない多くの人が歌に詠んできた。 西行もいい、定家もいいが、崇徳天皇の雅な歌に心ひかれる。 朝夕に花待つころは思ひ寝の 夢のうちにぞ咲きはじめける 崇徳院 崇徳天皇は御諱は顕仁、鳥羽天皇の第1皇子、母は待賢門院・藤原璋子である。 わずか5歳で帝位に就き、英才教育を受けつつ、院政下にあっても積極的に天皇としての務めを果たした。 和歌は歴代天皇のうちでトップを争うほどの才能である。天才といっていい。 瀬をはやみ岩にせかるる滝川の われてもすゑに逢はむとぞ思ふ 惜しむとてこよひかきをく言の葉や あやなく春のかたみなるべき うたた寝は荻吹く風におどろけど 長き夢路ぞさむる時なき 永治2(1142)年12月7日、父上皇の強い意思により異母弟の体仁親王(近衛天皇)に譲位。時に24歳。 体仁親王は生まれてすぐ崇徳天皇の養子とされ、後の院政含みで促されたのに、当日になって「皇太弟に」と宣命にあり、天皇は色をなして怒ったという。 これでは傍流となり、院政は行えない。 崇徳天皇は、系図上曽祖父にあたる白河法皇の実子と噂され、父の鳥羽法皇からは「叔父子」と言われたらしい。 「待賢門院璋子の生涯」の著者の角田文衛氏は、当時の日記等の一級資料の研究から、崇徳天皇は当時の専制君主であった白河法皇と璋子との間に出来た子と断定している。 当時の観点からすると、これは「不義」にはあたらない。立派な天皇家の血筋なのである。 鳥羽法皇からすると皇統の競争者であり、これが忌避の理由。 久寿2(1155)年7月23日、愛子、近衛天皇が17歳で夭折すると、法皇は熟慮の末、自身の第4皇子の雅仁(後白河天皇)を帝位に就ける。 崇徳上皇は、嫡流であるはずの自分の復位、または子の重仁親王の登極が当然と考えていたところ、愚か者で評判の弟とは!あり得ない。 激怒とそこまで嫌われていたかとの悲嘆とが交錯。 政局の流れと相まって、悲しみの保元の乱へと突き進んでいく。 近くの公園のソメイヨシノは一つ二つ花が開いてはいるが、まだだなあ。 私もまずは夢に見ることにしよう。 今日も精進の日々である。
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私は渡辺いっこう。フリープロデューサーである。 別稿で「スペイン・インフルエンザ」について述べた。⇒コチラ 「スペイン・インフルエンザ」とは、大正7(1918)年の3月から大正9(1920)年の3月頃まで流行した悪性インフルエンザ。 全世界でおよそ4,000万人、日本国内でも内地で45.3万人、外地(朝鮮・台湾・樺太等)で28.7万人が死亡したという。 著名な犠牲者は次のとおりである。 エゴン・シーレ 1918.10.30 島村抱月 大正7(1918).11.5 ギヨーム・アポリネール 1918.11.9 エドモン・ロスタン 1918.12.2 西郷寅太郎 大正8(1919).1.1 大山捨松 大正8(1919).2.18 村山槐多 大正8(1919).2.20 辰野金吾 大正8(1919).3.25 竹田宮恒久王 大正8(1919).4.23 明石元二郎 大正8(1919).10.26 芳川顕正 大正9(1920).1.10 マックス・ヴェーバー 1920.6.14 南無阿弥陀仏。アーメン。 煩悩捨てがたし。今日も精進の日々である。
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私は渡辺いっこう。フリープロデューサーである。 しばしアポイントの時刻に間があったので、泉岳寺に詣でた。 曹洞宗萬松山泉岳寺。 実は初めての参詣である。 立派な山門だなあ。 まずは本堂にお参りだ(参観無料)。 泉岳寺といえば、赤穂浪士である。 一般の墓地は檀家関係者以外は立ち入り禁止になっているが、播州浅野家・赤穂浪士の墓は出入自由。 浅野内匠頭長矩の墓だ。 浅野長矩。寛文7年8月11日(1667年9月28日)〜元禄14年3月14日(1701年4月21日)。 勅使供応役を仰せつかった浅野が、元禄14年3月14日、江戸城の松之大廊下にて、高家肝煎・吉良上野介義央に切りかかった。 怨恨説、謀略説いろいろあるが、原因は吉良によるイジメではなく、浅野長矩のアブノーマルな精神状態にあるとの意見が主流になりつつある。 勅使・院使到着を間近に控えて、城内は緊張感がただよい、打ち合わせ・準備に慌しい状況だったにちがいない。 なにしろ、独裁将軍の綱吉に気合が入っていた。 生母の桂昌院に前例のない従一位という高い位を朝廷からもらおうとしていたところだ。 饗応の責任者、儀礼についてのベテラン指導員・吉良義央が、テキパキ、ズケズケと頭ごなしに指示を出していたのだろう。 それが浅野に極度のストレスを生ぜしめ、あるいは小さなプライドを傷つけたのだろうか。 突然、腰の小さ刀を引き抜いて喚きながら吉良に切りかかった(それ以降の詳細は、コチラを読まれたし)。 これはどうも、いわゆる「キレた」という症状に似ていないか。 取り押さえられた浅野は取調べに具体的な供述はしていないし、預けられた屋敷で食事をお代わりしている(普通ならとても喉を通るはずがない)。 なにか憑き物が落ちたような感じ。 口やかましい部長の業務上の指示に、「うるせえんだよ!」と激情を爆発させた若手社員−−こんな光景が浮かびあがらないだろうか。 本当のところはどうだったのですか?冷光院殿吹毛玄利大居士さま。 ただ秋の陽がさすばかりだ。 庇つきが大石内蔵助良雄と息の主悦(こちらは写真に入っていない)の2基。 やはり身分制度に厳格なんだな。 殿様がちょっとおかしかったのは知っていただろうに、なぜ討入りなど行ったのか。 何も思いつかぬまま、アポイント先に向かったのであった。 今日も精進の日々である。
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私は渡辺いっこう。フリープロデューサーである。 うかつにこの曲が好きだなんて言うと、軍国主義者に間違われてしまいかねない。それは、この曲が戦時中に「第二国歌」のように、ことに玉砕と関連して使用されたからである。 哀愁を帯びたメロディーは信時潔の一代の傑作と言っていいだろうが、黒い染みがつけられてしまっている。 戦後62年経つが、戦争に従事された方々、被害を受けた方々の悲しみは癒えない。そのダメージの大きさにもよるのであろうが、もう一つは戦争についての総括がなされなかったせいもあるだろう。 東京裁判は勝利国によるもの。「こんな戦争を引き起こした者」への国民の審判がなかった。何もソ連コミンテルンの手先ではない(なんて古いか)。A級戦犯は悪い、廣田弘毅以外の刑罰は妥当だろう。 しかし、これに漏れている者たちがいる。 続いて1931年9月18日の柳条湖事件からの満州事変。首謀者は、当時関東軍参謀の板垣征四郎と石原莞爾、奉天特務機関長土肥原賢二と甘粕正彦ら。 こんな連中は厳刑に処すべきだろう(板垣・土肥原は東京裁判で絞首刑、甘粕は自殺だが)。 その他、無謀なインパール作戦で7万人余の犠牲を出した牟田口廉也などは万死に値する。 そう、出発点は満州だったのだろうな。日露戦争で数万の日本人の血が満州の地に流された。無駄死にさせられないという思いが、ずっと底流になっていた。 でも結局のところ、国策を誤ったのだ。この歴史認識がないと、戦後をちゃんと把握できず、ましてや“戦後レジームの脱却”なぞできないだろう。 自身の眼でfactsを見つめ(その精査が大事だが)、思い知る。さすれば、国・組織と個人のあり方も考えられようし、「海ゆかば」も純粋に音楽作品として鑑賞できるようになるだろう。 今回はシリアスになってしまった。でもこのテーマではね。ブログ向きではなかったな。
今日も精進の日々である。 |





