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私は渡辺いっこう。フリープロデューサーである。 織田信長は、現代の日本人の最も好まれている歴史上の人物の一人だ。 乱れきった戦国の世をあともう一歩で統一できる寸前に頓挫した。 天正10年6月2日早暁、信長が滞在中の京都四条西洞院の本能寺が、明智日向守光秀の総勢1万3千の兵に取り囲まれた。 西洋暦、ユリウス暦だと1582年6月21日だが、グレゴリオ暦だと7月1日になる。 説明は後述するとして、グレゴリオ暦7月1日の日の出はだいたい午前4時30分くらい。 明智の軍勢は日の出と共に打ち掛けた。 当時は照明がないから、日の出前だと真っ暗で取り逃がすおそれがあるわけ。 寺には数十人しかいなかったから、戦闘はたぶん1時間もかからなかったのではないか。 まことにあっけない天下人の最期である。 この本能寺の変をめぐっては色々な意見が出されている。 実行犯=光秀、黒幕=X。 Xは誰か?朝廷説、近衛前久説、羽柴秀吉説、徳川家康説、イエズス会説…。 また、原因についても、光秀怨恨説、光秀天下とり説、朝廷擁護説、キリスト教勢力の政権交代企図説…などがある。 さかんにキリスト教、イエズス会がとり上げられているが、それは歴史学者の立花京子氏が発表しているものだ。 『信長と十字架』 立花京子著 集英社新書 \740(税別) 詳細は省くが、肥大した信長が自身を神格化し、神を裏切ったことで、首を挿げ替えられたというのだ。 それはともかく、同書の中で私が注目したのは暦なのである。 この天正10年の1月29日に、信長から朝廷に対して、尾張の暦では当年に閏12月を入れるべきというがどうかと申し入れがあった(入れろということ)。 京都の暦では翌年に閏1月が予定されていた。 朝廷は協議して拒否した。そもそも暦=時間は天皇の大権である。 信長は諦めたわけではなく、6月1日、本能寺の変の前日に再び暦改訂を申し入れている。 翌日返答を聞かずに自害しているが。 この暦だが、閏月の問題ではなく、実は太陽暦(グレゴリオ暦)への改暦要求だったのではないか(物的証拠はないけど)。 同書にこの記述があるのを読んで快哉を叫んだものだ。 前々回述べたが、趣味で歴史年表を作っていて、和暦-西洋暦の併載をしている。 ちょうど、この天正10年=1582年にローマ教会がグレゴリオ暦への切り替えを行なった。 1582年10月4日の翌日が10月15日とされ、カトリック国のイタリア・スペインなどで一斉に切り替わった。 信長の暦改訂要求・横死と、ヨーロッパにおけるグレゴリオ暦導入とがあまりにもシンクロしているように思えたのだ。 開国して、戦いがいくつも起こり血が流れ、幕藩体制が終わり、日本という国が始まり、そしてようやく太陽暦となった。 明治5年12月3日が突然1月1日とされた。一般国民は奇異の念に襲われたという。 信長の要求したのは、なんとその300年前!当時の人たちには天魔の所業と映ったにちがいない。 だいたい、安土城は変だ。 五層七重の天主なんて前例なし(三層程度の櫓はあったが)。その途中までが中空構造になっているなんて空前絶後。また、その上の階に信長が日常住んでいたらしいが、天守閣を居住空間にしたのは日本史上唯一無二である(本能寺の変がなくとも早晩落雷で・・・)。 これはヨーロッパの教会・城郭の構造だ。 空間も時間も南蛮に売り渡す−−こう理解されても不思議はなかろう。 太陽暦導入が本能寺の変の直接のトリガーだった(と信じる)。 ああ、サラッと書こうとしたのだがまたまた長文になってしまった。
今日も精進の日々である。 |
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私は渡辺いっこう。フリープロデューサーである。 土日はおもに本を読むのだが、このところWebを見ていることが多い。 歴史好きで、数年前からオリジナルの人物データベースを制作していて(Excelベースだが)、その中で中国の皇帝を調べるうちに、中国の正史にはまってしまった。 「正史」というのは歴代王朝についての正式な記録で、たとえば明(14世紀後半〜17世紀前半)については後代の清が国の事業として作成している。 全部で24史+2ある。 詳しくはコチラ。 発端は、データベース作っていて、中国の皇帝の生没年月日や即位日をインプットしようとしたが、市販されているどの人名辞典にも記載されていない(他の中国人も)ことだった。 ウィキペディアには、唐の玄宗とか(北)宋の徽宗とか有名な人物はあるが、他の多くはない。 裏技の英語版に切り替えると西暦で表記されているケースがあるが、元号ではない。 即位した日付なんかはさらに不明。 う〜ん困った。じゃあ、正式な歴史書を見てみよう。 はい、コチラ。 ※閉じる時、ブラウザーが不安定になり強制シャットになることも。シリアスでなし。 「本紀第二十四 ○高宗一 高宗受命中興全功至徳聖神武文昭仁憲孝皇帝,諱構,字徳基,徽宗第九子,母曰顕仁皇后韋氏。大観元年五月乙巳生東京之大・・・・・・」 「高宗」とあるのは廟号(びょうごう)。没後に祀るときの表札みたいなもの。生前にはない。 その後の長〜い○○○○皇帝とあるのは諡号(しごう)。要するに戒名ですな。唐以降は、皇帝の諡号はえらく長くなる。 諱(いみな)とは名前のこと。 宋の皇帝の姓は「趙」だから、高宗の姓名は「趙構(ちょう・こう)」ということになる。 字(あざな)は徳基。ふつう諱は呼び合わない。口にすると失礼になる。 例えば、他人は「秀吉」とは生前は絶対に言わなかった。通称の「藤吉郎」、あるいは官位の「筑前守」と呼ばれたわけだ。 中国では日常は字をつかう。蒋介石もそう。介石は字で、諱は中正という。 かの有名な徽宗皇帝の第9皇子と。 生年月日が載っている。 「大観元年5月乙巳生」・・・・・・乙巳って何んじゃ? 即調べる。 十干十二支である。 十干=甲・乙・丙・丁・戊・己・庚・辛・壬・癸 十二支=子・丑・寅・卯・辰・巳・午・未・申・酉・戌・亥 この組み合わせで、甲子→乙丑→丙寅→丁卯→・・・壬戌→癸亥と60ある。61番目は再び甲子と。 そう、還暦とは、十干十二支が一回りしましたよということ。 順番はまあ分かった。でも実際は何日なのか分からん。たまたま1日(朔)が丙午とか記されていたら、己酉は丙午から3つ目だから4日と断定できるが。そんな僥倖はほとんどない。 ううむ、困った。なんとかならんのかとネットで調べたら便利なものがあった。 なんと中国暦を西洋暦に転換してくれるプログラム発見! はい、コレ。 まずは、国号で「宋」と、帝号は・・・大観だから「徽宗」と(後述)、年号は「大観」で1年の5月で、日はうわぁーたくさんあるけど「乙巳」と。執行をクリック。 おおっ、大観元年の、5月の20日、西暦はというと1107年6月12日と出た。 こんなふうに、即位日や没日などを調べていく。 ふと不安になった。日本の暦と中国の暦は同じなんだろうか?当然元号は異なるが、日にち自体はどうだろう? 調べてみた。すると、同じ太陽太陰暦(陰暦)だが、微妙にちがうのが分かった。 閏月の入る箇所が異なることがある。例えば、中国は「閏12月」なのに、日本では「翌年の閏1月」とか。 大の月・小の月もちがうこともある。例えば、中国のある年の3月が29日までなのに、日本は30日あるとか。翌月は反対になったりしてバランスはとれるのだが。 中国暦−西暦−和暦をちゃんとリンクさせたいなあ。 またネットで検索してみた。 おおっ、和暦と西暦との変換プログラムがあるぞ! ほい、コレ。 たしか1582年10月までは「ユリウス暦」だから、ユリウス暦の欄に「1107年6月12日」と書き入れて「変換」をクリック。 「嘉承2年5月20日」とあり。なるほど〜。 今回は一致しているな。 こちらのプログラムは、歴史年表(こちらも制作している)にも役立つ。 例の本能寺の変は「天正10年6月2日」だが、西暦に変換すると「ユリウス暦1582年6月21日」と分かる。 前段階で、中国の歴史の概略の理解、年号の把握(『東方年表』が便利)が必要だ。 いまでは、中国歴代皇帝のリストはほぼ完成した。 それにしても、この正史は実に面白い! 丹念に漢字の羅列を追いかけていると、人間の生々しい生と死が見えてくる。 三国志(三国志演義にあらず)の魏書なんか、曹操の活躍や司馬氏との血で血を洗う闘争が繰り広げられている。 宋史では、漢民族国家・宋と北方民族の金や元との激しいバトル、あるいは内部抗争が活写されている。 何人もの作家が、この正史を題材に魅力的な作品を創造している。 料理人の腕が良いのももちろんあるが、素材がなんともスゴイ! でも、目が疲れる・・・ブ、ブルーベリーを。 サラッと書くつもりだったが、また長文になってしまった。 今日も精進の日々である。
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私は渡辺いっこう。フリープロデューサーである。 今日、4月3日は陰暦の2月16日、望月である。 昨年、閏(ウルウ)7月があったので、まだ2月(如月 キサラギ)なのだ。 閏月とは、「暦が実際の季節とずれるのを防ぐために挿入される月のこと」(ウィキペディア)。 如月の満月の日に亡くなったのが西行法師。 文治6年(1190年)2月16日のことである。享年73歳。 願はくは花の下にて春死なむ その如月の望月の頃 西行 西行の歌の中でもっとも有名なものであろう、また当時も人口に膾炙した。 よく誤解されるが(ウィキペディアも誤記している)、これは臨終に際した辞世ではなく、その数年も前に詠まれたもの。 「御裳濯河歌合」という自作の歌合集が初出で、これは文治3年に編まれ、したがって本歌が詠まれたのはそのさらに前だろう。 死の前年の文治5年にはやはり閏4月があった(閏4月30日に源義経が奥州平泉で討たれている)。 そう、涅槃会の翌日、満月しかも桜が満開の日に、西行は自ら望んだシチュエーションのもとで死んだのである。予言が実現したかのように。執念である。 当時の人々の間でもアンビリーバボーとかなり驚愕をもって受け取られたようだ。何人かの貴族の日記に記されている。 西行伝説の始まりである。 帝王・後鳥羽上皇に、新古今和歌集中最多の94首撰入、「西行は生得の歌詠み」と激賞させ、世阿弥をして能の名作「西行桜」をつくらしめた。宗祇や芭蕉は西行にあこがれた。 現代でも西行は「歌聖」とされているが、本当は「フリープロデューサー」だったのではないかと私は思っている。 平清盛と同年の生まれで(元永元年=1118年)、時の最高権力者である鳥羽法皇の北面の武士、スタイル抜群にして武芸に秀でたスタープレーヤーという経歴をもつ。 その後、崇徳上皇とその母待賢門院に仕えていたが、たぶん政治的危険を感じ取り、23歳のときに突然出家し、仏道と詠歌に励む。 出家することは身分制度の枠外、アウトサイダーあるいは自由人を意味した。 以後50年にわたり、歌人として方々の貴族のサロンに出入し、諸国をめぐり、また焼失した大仏復興の勧進を命じられて実力者の源頼朝や奥州の藤原秀衡を訪れ、寄付に成功したりしている。 まさにプロデューサーの業にほかならない。 吉野山こぞ(去年)のしをりの道かへて まだ見ぬかたの花をたづねん 西行 プロデューサーの道は遠く険しい。 今日も精進の日々である。
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私は渡辺いっこう。フリープロデューサーである。 東京では春の日差しが勢いを増している。来週末は花が満開だろう。 明日は3月24日。この季節に東京に大雪が降ったことがある。 1860年3月24日=安政7年3月3日。 そう、時の大老・井伊直弼が暗殺された桜田門外の変があった日だ。 警戒情報があり、伴には腕利きをそろえていただろうが、あいにくの季節外れの大雪で刀に柄袋をかけていて迎撃が遅れたという。襲撃側で鉄砲が使われたともいう(ただ合図だけだったとも)。 乱戦の中ついに薩摩脱藩浪人の有村次左衛門に大老の首を討ち取られた。戦闘そのものはトータルでおよそ15分くらい、井伊が討たれるまではせいぜい5分程度だったらしい。 cf. お奨め: 吉村昭『桜田門外ノ変』上・下 新潮文庫 この事件は、明治維新後からの視点で違勅の井伊が悪者になっているが、阿部政弘政権(水戸斉昭、島津斉彬、松平慶永、堀田正睦ら)とそれに反発した譜代大名派(その筆頭が井伊直弼)の政権闘争の末に起ったと見るのが本筋だろう。 とくに島津斉彬に注目するべきだろう。 斉彬の曽祖父の重豪は、11代将軍家斉の正室・近衛寔子の実父だから将軍の舅だ。薩摩藩は外様だが、将軍との姻戚関係で「身内」扱いされた。これが幕末の出発点。 斉彬はその重豪の膝下で育てられ、英明をうたわれた。 大名の正室・嫡子は江戸邸に住む。斉彬も江戸で生まれ育った。父の斉興にうとまれて、40歳過ぎまでずっと世継ぎのままで(将軍へのお目見えは文政7年11月。満15歳)、それまで一度も領国薩摩には行っていない。江戸の人だったわけだ。 斉彬の盟友となったのは若くして老中首座となった阿部正弘だ。幕命として、父の斉興の隠居と斉彬の藩主襲封を実現させた。 国難に挙国一致であたろうとの開明政策を推し進めた阿部正弘は、安政4年6月17日(1857年8月6日)、内臓疾患で死去。満37歳!ストレスだな。 その後、佐倉藩主の堀田正睦が政権を引き継ぐが、真のリード役は島津斉彬だったろう。 開国の勅許問題で大ゆれの中、なかばクーデターで大老に就任したのが彦根藩主・井伊直弼(安政5年4月23日/1858年6月4日)。 断固として将軍後嗣を紀州藩の幼主・徳川慶富(のちの家茂)に定めて水戸斉昭息・一橋慶喜を退け、朝廷の勅許を俟たず独断でアメリカと通商条約締結した。 反対派・過激派を追放、蟄居・謹慎、強制隠居、逮捕、斬首と思いっ切りやる。 領国に帰っていた島津斉彬は、洋式兵装を整えて軍事演習、西郷吉之助に朝廷・諸藩への工作を命じ、さあ軍艦で上京へ。いよいよ井伊直弼vs島津斉彬の興奮のステージというところで、突然、斉彬が病死。安政5年7月16日(1858年8月24日)。満48歳だった。 毒殺の疑いが非常に濃厚だ。司馬遼太郎さんは「間違いない」と力説していた。文久2年11月に贈従三位権中納言、文久3年5月には照国大明神と祭り上げられたが、これは祟りを怖れてのことか? 薩摩藩士が激昂するのは仕方ないところ。こうして、約1年半後に桜田門外の変へとつながったわけだ。 赤い血汐が回天のとびらを押し開けた。春の陽の中に雪が幻視できる。 「所長、なにボーッとしているんですか。また妄想していたんでしょう!?」 ううっ。 片桐くん、きみの叱声なかりせば春の心はのどけからまし。 今日も精進の日々である。
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私は渡辺いっこう。フリープロデューサーである。 歴史好きである。 今日は2月27日。「2月27日」に亡くなった人物として江戸幕府11代将軍・徳川家斉がいる。 1841年2月27日(天保12年閏1月7日)に満67歳にして薨去。 この家斉、すこぶる評判が悪い。 側室20数名、子供は55名(大半は夭折だが)の「絶倫将軍」、豪奢な生活を送った「浪費将軍」。 その前後の寛政の改革、天保の改革がもてはやされて、その対比として悪い時代と位置づけられているかのようだ。 しかし、これは固定観念にとらわれた見方なんじゃないのかなあ。 教科書に出てくる「江戸三大改革」で成功とみられるのは8代将軍吉宗の享保の改革だけなんじゃないかと思う。 この頃の経済は、幕府や藩の財政収支のみに関心があって(長崎では貿易収支が。でも金銀の流出に関してだが)、景気政策は二の次の観あり。 故木村尚三郎先生が言われていたが、江戸時代は享保の改革時に新田開発に尽力して米の収穫をアップさせたが、以後は森林伐採などによる災害の惹起が重なり開発ストップ、税率アップしたら農民一揆と重農政策は限界に達した、と。 重商政策への転換をはかった田沼意次は、賄賂政治家のレッテルを貼られて失脚。 しかし、新型官僚の登用は困難な状況に対処するための柔軟な政治手法だった、田沼意次は不運な政治家だとは、やはり亡くなられた大石慎三郎先生の主張されたことだ。 倹約・風紀の粛清という寛政・天保の改革は、保守・反動の政治のアクションだったと思う。 この改革の最中、人々はけっして幸せではなかった。 でも、日本人は「改革」と名がつけば疑うことを知らないからな。 さて、徳川家斉。 彼の治世下の文化・文政の時代は、まれにみる好景気で、庶民がリードするエンターテインメント文化は隆盛をきわめた。 現代人がイメージする江戸時代の多くはこのあたりのはず。 そう悪口言われなくてもいいんじゃないか。 ただ、彼の決定的な欠陥は、「今が大事(今さえよければ)」と先見性を持っていなかった点だろう。 その後、天保年間に歴史的な大飢饉が襲う。 この大飢饉は6〜7年も続き、地方財政・家計を破綻させ、消費地江戸に物価高騰を招いて庶民の生活は困窮した。 この天保の飢饉、そして黒船の襲来、安政大地震が幕府・江戸時代を終焉に導いたと考えている。 家斉はなすすべなしで引退した(その後も実権は手放さなかったようだが)。 現代だって、そう状況は変わらない。 「改革は痛みを共有するもの」とはもっともらしい言い分だが、そもそも、大きな改革をしなければならない局面に立ち至らないようにするのが良い政治ではないのか。 「失われた10年」などというが、少子高齢化、産業構造の変化など大きな潮流は予見していたこと。政治の不作為と言われても仕方ないだろう。 急速に迫り来るクライシスへの対応がなされず、従来の土建中心の財投、巨額な赤字国債発行、そのツケがいま来ているわけだ。日本全土が夕張市化!? しかし、当時の政権の責任を問う声なし。ジャーナリズムもほんと情けない。 ねえ片桐くん、君もそう思わないかい? 「所長は、確定申告の季節になるといつも憂国の士になりますよねー」 「・・・・・・」 今日も精進の日々である。 注)徳川家斉の没日は「閏1月30日」との表記もあるが、これは発喪の日であり、実際は閏1月7日に誰も気づかないうちに息をひきとったとのことである。
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