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今年世界中でショパン生誕200周年が祝われましたが、
ついに終わりがやってきました(涙。。)
12月30日には、ポーランド北部の博物館で
Stolemowi Klawer と呼ばれる、世界一大きいピアノを使用した、
ショパンイヤー終了記念コンサートが行われたそうです。
このピアノは、ギネスブック入りを目指し、ポーランドで特別に制作されたコンサートピアノで
長さ6.04メートル、幅2.52メートル、高さ1.87メートル、重さは1.8トンあるそうです。
巨大ピアノの下 (写真の右下)に二つあるのが、ノーマルサイズのピアノです。
比較すると、どれだけ大きいかがよくわかります。
・・普通の家には絶対搬入できそうにないですね・・・
はたしてどんな弾き心地なのか、どんな巨大な音が出るのか、試してみたいものです〜
それにしても、あっと言う間に終わってしまった200周年・・・寂しいっ!!
次は300周年を祝いたいですが、さすがにそこまで長生きはできそうにありません。
とういうことで、弊ブログも200周年を勝手に祝うのを終了する時期がやってまいりました。
これまで立ち寄って記事を読んで下さったり、
示唆に富んだ楽しいコメントを書いて下さった皆さま、本当に感謝しています。
ありがとうございました☆
2011年からは、タイトルを変更して(未だに何にするか決めてないけど)
引き続きショパンや趣味のピアノ関連情報および語学関連の事でも書こうかと考えています。
!!それではみなさま、良い新年をお過ごしください!!
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200周年カウントダウン
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私は毎年自分でクリスマスケーキを作っています。
買うのと比べると全然安上がりだし、自分好みの味に調節できるし.
でも、甘いものをたらふく食べると、やっぱりというか、なんか虫歯がうずく今日この頃・・
そういえば、ショパンの伝記の中に、ショパンが虫歯で寝込んだエピソードが書かれています。
ちょうどお父様が亡くなった直後に、ショックで精神的にも肉体的にも弱っていったショパンは、
抵抗力が落ちたためでしょうか、若い頃からの虫歯が悪化、化膿して、
高熱を出し、なんと一週間も寝込んでしまったそうです。
ショパンもショコラが大好物でしたから、虫歯の一本や二本あっても当然?!
寝込んでいるとはいえ、実際は痛みで夜も眠ることができず、
ショパンは幻覚を見たそうです。
目の前に亡くなった父や、以前亡くなった親しい友人が現れたのだとか。
そんなショパンをサンドはつきっきりで看病したと言われています。
しかし、その後、何年も会っていなかった姉、ルドヴィカがパリへ来るという知らせを聞き、
ショパンの症状は劇的に回復し、虫歯の痛みもすっかりなくなったそうです。
病は気から、といいますが、虫歯も気から、なんですね〜
私も歯医者は嫌いなので、歯の痛みがすっかり消えるようなウキウキする出来事を探すぞぉ〜!!
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この夏ショパンの生誕の地であるジェラゾヴァ・・ヴォーラに行った際、
駐車場の脇にあった、 超あやしい露店で購入したショパンの顔の像(陶器)に
クリスマスパーティ用に購入したサンタ帽をあしらってみました。
ショパンサンタさん、
プレゼントは、今練習中のソナタ2番が上手に弾けるようになるように、
よろしくお願いします〜♪♪♪
☆無理なら、宝くじ当選でもいいです ← 実はこっちの方がよりほしかったりします☆
ちなみにショパンは生前、友人・知人や召使などに
よくプレゼントをあげる、とても気前のいい人だったとか。
・・・・これは期待が持てるかもしれません・・・・
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ベルリオーズは言いました。
「ショパンはピアノの即興演奏をしながら、
他の有名ピアニスト達の物まねをすることがよくあったね。
他のピアニスト達の演奏中の体の動きや顔の表情を、
パロディみたいに茶化して、面白おかしく真似するんだけど、
誰の物まねなのかが直ぐに判るほどよく似ていたよね。
物まねをしている時はショパン本人の個性は影をひそめ、
まるで本当に変身しているみたいだった。しかも、不細工で滑稽な人の物まねをしていても、
ショパン自身の持って生まれた上品さは保っていたし。彼は真の才能ある役者だったよ。」
リストも答えます。
「ショパン自身の演奏スタイルも独特だったよ。
常に揺れながら演奏するのだけれど、メロディーが前後にゆらぐような、
最高に素晴らしい効果をもたらすんだ。小舟が海上で波に揺れるような。
このショパン独特の演奏スタイルを言葉で表現したのが、
彼が楽譜中で指示として書いた「テンポ・ルバート」なんだ。
柔軟な動きにより、ゆらぎ、起伏、途切れ、を自在に生み出す。
不規則に息を吹きかけられた時の炎の動きみたいに、
はっとしたり、物悲しくなったり、ゆらゆらとためらうようなテンポを生み出していた。
ショパンは後期の作品になると「テンポ・ルバート」の指示を書くのをやめてしまっている。
演奏者が作品をちゃんと理解しさえすれば、指示を書かなくても
自ずとこの「不規則に演奏する」という規則を理解するだろう、と思ったからだ。」
・・すいません、リスト様、私はちゃんと指示書いてくれないと、
どう演奏したら良いのか、さっぱりわかりません。
(めちゃ大きい字で書いてあっても見落としが多いんだけど・・・)
テンポルバートを自動的に理解できない感の悪い演奏者は、
ショパン的には完全にスルーの対象だったのでしょうかね。。。
ということで、間違いなくショパンにスルーされている私ですが、!!めげません!!
リストさんがおっしゃっていたようなショパンの演奏スタイルに少しでも
近づけるようにするために、
今日から早速、ロウソクの炎に息を吹きかけて
その動きを観察して、その極意を会得するぞ〜☆
海の小舟観察でもいいかな・・・
・・・・といろいろ考えているうちに、今日もピアノの練習をろくにしないで
一日が終わろうとしているのでした・・・・
ピアノは駄目でも、生活スタイルは完全にテンポ・ルバートかも〜。。。
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リストがショパンの伝記を書くのに四苦八苦して、
友人のベルリオーズに助けを求めたお話の続き・・・
・・・の前に、そもそもこの二人とショパンはどういう関係だったのか、
考察してみたいと思います
パリに来てリストと知り合って以来、
ショパンとリストは良き友人として付き合っていましたが、
その後、ショパンの方から一方的にリストを避けるようになったと言われています。
原因はショパンのアパートでリストが逢引したため、という説が有力ですが、
ショパンがリストの力みなぎる演奏に嫉妬していたのも理由のひとつである、
と考える人もいらっしゃるようです。
二人の関係は絶縁状態から、1842年くらいには、
一緒に食事したりするところまで修復していたそうです。
リストはその翌年1843年4月に
ポーランドへコンサートツアーに行きました。
ワルシャワではわざわざショパンの実家を訪問して、ショパンの父にも挨拶し、
ショパン家の人たちへ自分のコンサートのチケットをプレゼントしたそうです。
また、コンサートではショパンの作曲したエチュードやマズルカを演奏して、
現地の新聞で「リストは我々ポーランドの言葉と心で語りかけてくれた」
と絶賛されました。
リストは、この時、ある人にショパンを紹介してほしい、
と頼まれてショパンに紹介状を送っているのですが、その紹介状の中に、こう綴っています。
「この場を拝借して、再度言わせてほしい。
たとえ君が僕のことをつまらない人間だと思っていたとしても、
僕の君への友情と尊敬は決して変わることはない。
だから、どんな状況であれ、もし僕らが友人でなくなるとしたら、
それは君が僕を捨てる時だけだ。」
なんか、いい人ですね、リストって。。。。
このお手紙に対して、ショパンが返事を書いたのかどうか、
書いたとしたら何を書いたのか、非常に知りたいところですが、
残念ながら残っていないようです。
一方、リストに頼まれてショパンがどんな人物だったかを
一生懸命思いだしてくれたベルリオーズですが・・・・
生前ショパンがノアンの館でドラクロアと芸術談義に花を咲かせていた際、
「トロンボーンとフルートを競わせるなんて、ベルリオーズのレクイエムは能がない」
というベルリオーズのレクイエム批判で意見を一致させていた、とのことでした。
ショパンもドラクロアも、芸術においては、
わざとらしい、安易な表現方法を非常に嫌っていて、
そういう話になると盛り上がった模様です。
さて、そんな事知ってか知らずか? ベルリオーズは
生前のショパンをひたすら褒め称えるのでありました・・・
<次回へ続く>
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