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この日乗った便は結構空いていました。
中央4列ごっそり空いています。国際線だったら、この4列占領してフルフラットシートにもできるでしょうか。
ちょこっとですが、飛行機関連のアルバイトをしたことがあります。
一定時間を飛んで格納庫に入った機内の清掃。
これが結構重労働。
シートカバーの交換とか。
テーブルの腕の部分などを磨いたり。
私が指を添えている場所、この部分でよく指先を切ってしまったりしましたorz
通路に面している座席の下に、吊り輪みたいなのが見えますでしょうか。
カーペットを張り替えた直後などは、ここに足をひっかけて
吊輪(?)から吊輪へ移動したものです。
機内は何事もなく平和な時間が流れておりました。
そういえば、この手のタイプの手荷物収納スペースは、
収納部分が下に下りてくるので清掃しやすかったです。
到着地はコチラ。
到着地は非常に蒸し暑かったです。
とりあえず無事に到着したのでめでたしめでたし。 |
飛行機想い出話
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♪あの時き〜みは〜 若かった〜 ・・・今より、まだ6歳ぐらい若かった頃。 当時お付き合いしていた相手が参画していた山梨県のプロジェクトが収束し、 今度は熊本県のプロジェクトに移動した彼(即ち、今の旦那)。 東京⇔山梨の甲府までは特急「スーパーあずさ」か長距離バス。 しかし、東京⇔熊本ともなると…まぁ、ブルートレインはまだ 当時走っていたが時間的には飛行機か。 私は喜んで飛行機に乗ったろうが、「鉄ちゃん」な彼は ブルートレインの方が嬉しかったろうに。 まぁ、東京⇔大阪あたりなら飛行機でも新幹線でもいいだろう。 羽田までの移動&伊丹からの移動を考えると、 飛行機だろうが新幹線だろうがあまり大差ない気がする。 だが、会社から支給されるのは新幹線代・・だろうな(多分)。 出張で熊本に行ってくることになった彼。 国内線の飛行機も私より乗っている感じだったし、 入社2年目の社員旅行でハワイまで行っているし、 周りに飛行機に乗って全国飛び回っている人もいたので 何の心配もしていなかった。出発日も帰京日も決まっていた。 ところが・・それが甘かった。 はてさて、出張を翌々日ぐらいに控えた夜、いつものように電話が来た。 「出張、明後日だよね。何時の便とか決まってるの?」と聞くと・・・ 「飛行機って・・・どこで乗るの?」と。 東京といったら、だいたい羽田でしょうに。一部、成田発とか調布発というのもあるが。 『それ、ドリフのコント?』なんて思いながら突っ込もうとしたら、突っ込む前に 「航空券ってどこで買うんだっけ・・・」って。 ・・・え?( ̄▽ ̄;; それ・・・本当の本当に正気ですか? 一瞬、目の前が暗くなりましたorz 先月、会社の用事で羽田から伊丹に飛んできたばかりではないかと聞くと 「あ〜、会社の人がとっておいてくれた」とのこと。 本人はぼけーっとしている間に、羽田空港から伊丹空港に空輸されていたらしい。 後に、熊本出張の往路は羽田空港で飛行機に乗り込むやすぐにシートベルトをしめて爆睡。 そして気がついたら、ゴツンッという着陸時の衝撃音と共に「寝たまま熊本に空輸される」という 「特攻野郎Aチーム」のモヒカンの人か?と突っ込みたくなるような。 その後、航空券の予約&取り方を知っている限り教え、 飛行機はどこから乗るのかも教え・・・翌々日、どうにか熊本に着いたとのことでした。 当時、ちょっと私も乗ったことのないSNAを勧めてみました。 私も3度〜4度ほど熊本に行きましたが
どれもこれもまぁ・・・「ドリフのコントか!」というような 思い出深い単独フライトとなるのでした。 |
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http://www.tokyovalley.com/yahoo_blog/article/article.php これは、あー・・・いつだ? 2002年だか2003年にお付き合いしていた彼氏と 北海道に行ったとき。 「じゃらん」とか旅雑誌がありますね〜。 やめた会社の人が「じゃらん、あれいいっすよ〜」なんて行っていたけど、 「じゃらん」って旅の他にいろいろと扱ってました。 当時、「じゃまーる」とかいう雑誌もありましたね。 不用品の出品やら出会い系やら。 不用品の出品も、出会い系も全てネットに変わられて廃刊に至ったのか? 不況といわれつつ、まだ今よりマシだった…そんな感じ。 当時、「失業真っ只中」だった私は失業給付を受けながら… また、当時の失業給付対象に引っかからないようにバイトしていた私。 今の基準ってどうなんでしょうね。 …って、私のことはさておき、3度目のフライト。 これが、「単独ではないフライト」の最後になると思います。 次は2004年での単独フライトですから。 このときに行ったのは北海道。 安い料金を選んだので2泊3日ともいえど「ほんとに2泊3日か?」と。 まぁ、ぎりぎり2泊3日だろうな。 往復ともANA。往路は昼過ぎで、復路は正午前後だった気がする。 やっぱり、離陸の瞬間がたまらない…。 往復とも羽田⇔新千歳だったが、新千歳は国際線も乗り入れているし、 北海道エアシステム(JAS系)やエアー北海道(ANA系)なる路線の尾翼があったりして これまた「あれ?JASやANAと同じカラーリングなのにロゴが違う」と。 数年前に鹿児島で見た「JEX」とはまた違う感覚がありました。 そこから…次に自分が飛行機に乗るのは2004年。 羽田から新千歳までのフライトは、とくにこれといった印象もなく、 新千歳に着陸したときはただただ「針葉樹」と呼ばれる類の植物が目に入っていた。 「あ〜、さすが亜寒帯。針葉樹が目立つわけね〜」とそれだけ。 当時、今の私が新千歳に行ったら? そりゃ、札幌・小樽といったのだから 札幌の丘珠空港でボンQシリーズを見にいったでしょうね。 あとは足を伸ばして函館まで行き、ツインオッターを見に行ったかと。 えーと、この北海道旅行での収穫。
・「村上カレー店 ぷるぷる」のカレーが美味しかった。 辛さは0から100。当時、辛いものフリークじゃなかった私は 1番あたりを頼んでいたが、地元の常連さんは100とか。 100のメニューをみたら…カレーが真っ赤。 スープカレーの食べ方に、どうも迷いがあった私でした。 |
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http://www.tokyovalley.com/yahoo_blog/article/article.php 人生2度目の飛行機は、修学旅行以来ブランクがあり…21歳。 OL2年目の9月、社員旅行で鹿児島へ。 しかも1泊2日の強行軍。朝イチの飛行機に乗って行った記憶があります。 集合場所に行くと、会社の面々がそろってる。 その中に「昨日、徹夜したの?」とも言いたくなるスーツ姿でいた同期が一人。 「あれ?N村君、それ制服??」とみんなでからかいながら(ごめん…)。 彼は今回の幹事&家が遠かったため、自社に一泊していたらしい。 面々が集合して早々と問題勃発! 航空券を持っている社長がまだ来ない。 社長は当時、品川区八潮に住んでいた。 メンバーの中で一番羽田に近い人物である(この人物がこれまた厄介)。 何せ、会社が加盟していた健保組合のパックツアー(結構安い)なもんで どの便に割り当てられるか知らされていないし、飛行機なんて縁のない 生活だったので時刻表も頭に入っていないどころか、便名も頭にない。 「げっ、航空券が来ない…」という焦りの色の幹事。当時、私は搭乗手続きや 保安検査場、出発口の時間など到底知らない。いつしか「社長=航空券」になっていた。 このあと、どうにかして目的地の鹿児島空港に着く。 その時に乗ったのは、最後の鶴丸塗装だったのは覚えているが機材までは覚えていない。 やはり、着陸よりも離陸の瞬間が好きだということを再確認。 鹿児島に着陸して駐機場に向かう途中、目に入ったのは大韓航空と「JEX」と 書かれた機材。「JEX?なにそれ??」と思い、JAL EXPRESSと書かれているのを どうにか発見。「JAL関連なのかな?」というかすかな知識だけを残し到着口へ。 1泊2日の鹿児島強行軍はどうにか幕を閉じたのだった。 …が、予算的に足が出たらしく一人暮らしには手痛い出費が待っていた。 |
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http://www.tokyovalley.com/yahoo_blog/article/article.php 私が「飛行機」なる乗り物に初めて乗ったのは16歳。 高校2年の3月に行われた修学旅行でのことだった。 本来なら修学旅行で飛行機に乗るなんてことはないのだが、 その年に「阪神淡路大震災」があったため新幹線などが 寸断されたしまったのだ。 土曜日の塾が楽しかった私。 なのに、私のクラスは日程が土曜日もまたぐ日程に割り当てられていた グループだったので楽しい塾はお預け…。 「自由行動」っていっても、結局はクラス内で名前の順に割り当てられた 班でこうどうしなければならない。いっそ、「中止にならんかな?」なんて 思ったりもしたけれど、とある先生のつてで新幹線&寝台車の 移動が「飛行機」に摩り替わってしまった。 これは、私たちの代から後も続く(今は修学旅行先が沖縄orz)。 初めてのデビューはJASの羽田⇔福岡。 正直言うと、機材なんてそんなの分からない。 多分、A300シリーズだったろうと思う。 その時の往路だけ初めて「モノレール」というものに乗る。 当時の記憶…その頃、年に1度は東京に行っていたので 何となく知ってはいたが「空港」なんてのは未知のもの。 言ったといえば、高1の時にアメリカのどっかに行った爺を成田に 迎えに行ったぐらい。 成田は色んな国の飛行機がいた覚えがある。ユナイテッド航空が まだグレーのカラーリングが最新だったような。 はい当然…JAL、ANA、JASのカラーリングしか知りません!!! それから見たら、羽田は鶴丸、トリトンブルー、レンボーカラーの3社。 その頃の私はそれぐらいの知識しかなかった。 戦闘機なんていったら…ゼロ戦、紫電改、メッサー・シュミットぐらいしか 聞いたことがない。 そんなところから、今の自分に至るまでその後2度ほど飛行機に乗る。 これは「苦手」か「この瞬間がたまらない」の二手に分かれるかも知れませんが この時に私は「離陸の瞬間」のたまらない感覚を覚えました。 かすかな記憶ですが、上がりはちょっと急だったと思います。 私たち団体は比較的後ろのブロックに割り当てられます。 「飛行機なんぞ乗ったことはない」そんな女子高生が思い思いに「ひゃーっ」とか 思うだけで終わる人、言葉の通り声に出す人…いろんな人がいます。 近くの座席の方、あの節はご迷惑をおかけいたしましたm(_ _)m 当時の運行はどうだったのか…たどっていきいと思います。 B滑走路…あったのかな。離陸はAだった記憶があります。 だって、その頃、C滑走路なんてないはずですからね〜。 卒業アルバムを見ると機内の様子がありました。 座席のシートデザイン、客室乗務員さんの制服に制帽&手袋… 時代を感じます。平成ですが、平成一桁の年代でした。 16歳で羽田を飛び立ち、17歳になって再び羽田に帰着したのでした。
あの頃、夢も希望もたくさんあった清き(?)女子高生はいずこへ…。 |
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