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P2169(八四オ)
見セラル。又入道ノ末子ニテ三川守知度ト申、此三人ヲ大将
軍トシテ、侍ニハ上総守忠清以下、伊藤、斉藤、官アルモ官
ナキモ数百人、其勢三万余騎ヲ向ラル。彼惟盛ハ、貞盛ヨリ九
代、正盛ヨリハ五代、入道相国ノ嫡孫、小松内大臣重盛ノ嫡男也。
平家嫡々ノ正統也。今凶徒乱ヲナスニヨリテ、大将軍ノ撰ニ
当ル、ユヽシカリシ事也。
廿一〔頼朝可追討之由被下官符事〕 
十一日、頼朝追討スベキヨシ宣下セラル。其官符宣云、
「左弁官下 東海東山道諸国
   可(三)早追(二)討伊豆国流人源頼朝并与力輩(一)事
               2
右大納言兼左近衛大将藤原実定( )宣(レ)奉(レ)勅。伊豆国流人
1「見セラル」、長門本(明和六年本)「具せらるゝ」。
2 底本一字分空白。
〇八四オ5 大将軍ノ撰 「撰」字の旁部分に斜線あり。未詳。
〇八四オ7 官府 「府」 は 「符」 と識別し難い字体で書かれることが多いが、ここでは 「府」。
P2170(八四ウ)

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P2168(八三ウ)
一文押タリケリ。中/\珍クゾ見ヘケル。是ヲ聞テ、武蔵相模ノ
住人等、一人モ不漏一、皆馳参ル。大庭三郎此次第ヲ聞テ、叶ワジト
思テ、平家ノ迎ニ上リケルガ、足柄ヲ越テ、藍沢宿ニ付タリケ
ルガ、前ニハ甲斐源氏二万余騎ニテ駿河国ヘ越ニケリ。兵衛
佐ノ勢、雲霞ニテ責集ト聞ヘケレバ、中ニ取籠ラレテハ叶ワジト
     1草摺ィ
テ、鎧ノ一ノ板、切落シテ、二所権現ニ献リテ、相模国ヘ引帰テ、
ヲクノ山ヘ逃籠ニケリ。平家ハカヤウニ内儀スルヲモ知ラズ。イ
カサマニモ、兵衛佐ニ勢ノ付ヌサキニ、撃手ヲ下スベシトテ、大政
入道ノ孫、小松内大臣ノ嫡子、惟盛ト申シ少将、并ニ入道ノ舎弟
薩摩守忠度トテ、熊野ヨリ生立テ、心猛キ仁ト聞ユルヲ、撰
1「板」底本では「坂」。
〇八三ウ6 一ノ坂 草摺ィ 「坂」の右に「草摺ィ」と傍書。
P2169(八四オ)

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P2167(八三オ)
源氏ノ御為、旁重代相伝ノ御悦也。仍其名ヲ吉例ト
申候。君ノ今日本国ヲ打取セ御シ候御時、吉例ノ御旗指
テ参リテ候。此上ハ御計」トゾ陳申ケル。兵衛佐、千葉、土
肥ナムドニ、「イカヾ有ベキ」ト問レケレバ、「畠山ナ御勘当候ソ。畠山
ダニモ打セ給ヌル物ナラバ、武蔵相模ノ者共、奴々々御方ヘ参
マジ。彼等ハ畠山ヲコソ守候ラメ」ト一同ニ申ケレバ、誠ニ理ナリ
ト被思ケレバ、畠山ニ宣ケルハ、「誠陳申所条々、無ニ謂一アラズ。
サラバ我日本国ヲ討平ゲムホドハ、一向先陣ヲ勤ベシ。但頼朝
ガ旗ニ只同キガ、マガウ事ノ有ニ、汝ガ旗ニハ此革ヲスべシ」トテ、
藍革一文ヲゾ被下ケル。ソレヨリ畠山ガ旗ニハ、小文ノ藍革ヲ
〇八三オ4 畠山ナ 「山ナ」 は擦り消しの上に書く。抹消された字は不明。
P2168(八三ウ)

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P2166(八二ウ)
叔父有重、当時平家ニ仕。就中一、小坪ニテ我ヲ射タリシ上、
頼朝ガ旗ニ只同様ナル旗ヲ指セタリ。定存旨有カ」ト宣
ケレバ、重忠申ケルハ、「先小坪ノ軍ノ事ハ、存知之旨、三浦ノ
人々ニ再三申置候ヌ。其次第定テ披露候歟。全ク私ノ
意趣ニ候ワズ。君ノ御事ヲ忽緒スル事ヲモ存ゼズ。次ニ旗ノ
事ハ、御前祖八幡殿、武衡家衡ヲ追討セサセ給候シ時、重
忠ガ四代ノ祖父、秩父十郎武綱初参シテ、此旗ヲ指テ
御共仕テ、先陣ヲカケテ、即彼武衡ヲ追討セラレニキ。近ハ
御舎兄悪源太殿、多胡先生殿ヲ大倉ノ館ニテ政ラレ
シ時ノ軍ニ、重忠ガ父、此旗ヲ指テ、即時ニ討落シ候ニキ。
        ル
〇八二ウ5 忽緒ス事 「ル」 は書き落として自ら補入したか。
P2167(八三オ)

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P2165(八二オ)
「当時ノ世間ノ有様、イカヤウナルベシトモ覚ヘズ。父庄司、叔父
小山田ノ別当、六波羅ニ祗候ノ上ハ、余所ニ思ベキニアラネバ、三
浦人々ト一軍シテキ。且ハ定子細、三浦人々ニ云置ヌ。今兵衛
佐殿ノ放光、繁昌、直事トモ覚ヘズ。平ニ推参セバヤト
思ハイカニ」ト云ケレバ、成清申ケルハ、「其事ニ候。此旨ヲ只今申
合奉ラムト存ツル也。弓矢ヲ取習、父子両方ニ分ル事ハ常
事也。且ハ又平家ハ今ノ主、佐殿ハ四代相伝ノ君也。トカクノ
儀ニ及マジ。トク<御推参有ベシ。遅々セバ、一定追討使遣サ
レヌ」ト申ケレバ、五百余騎ニテ、白旗、白弓袋ヲ指テ参テ、
見参ニ可入之由ヲゾ申ケル。兵衛佐宣ケルハ、「汝ガ父重能、
〇八二オ10 可入 「可」 は擦り消しの上に書くか。抹消された字は不明。
P2166(八二ウ)

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