主イエス・キリスト・御言葉の黙想

み言葉が開けると光を放って、無学な者に知恵を与えます。詩篇119:130

使徒信条

十字架と聖霊ハト画像使徒信条
わたしは、天地の造り主(つくりぬし)、全能の父なる神を信じます。
わたしは、そのひとり子、わたしたちの主、イエス・キリストを信じます。
主は聖霊によってやどり、処女(おとめ)マリアから 生まれ、ポンティオ・ピラトのもとで苦しみを受け、十字架につけられ、死んで葬られ、陰府(よみ)にくだり、三日目に死者のうちから復活し、天に昇って、全能の父なる神の右に座しておられます。
そこから来て、生きている者と死んでいる者とを審(さば)かれます。
わたしは、聖霊を信じます。聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、からだの復活、永遠(えいえん)のいのちを信じます。
アーメン



使徒信条(しとしんじょう)は、キリスト教西方教会、すなわちカトリック教会とプロテスタントのほとんどが重んじる基本信条のひとつ。


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いのちの御霊の原理

神を愛する人々、
すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、
神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、
私たちは知っています。                    ローマ8章29節
所感
なぜ、8章を語ったのだろうか。8月の講習会から、心に感じること、語られていることは、
それは、私の心がやはりひどく責められていて、自信を失いかけているなか、心を弱くしてはならないこと。
集会の奉仕が増えたことは、相当の霊的な準備の負担を増している。それは、サタンの攻撃もより一層激しくなることにもなる。
毎日の仕事と、子守と家事、育児で精一杯の上、御言葉の準備のために霊的な時間を備えていくことは、
牧師のように、すべての時間を祈りと御言葉に専心できるわけでもなく、かなりの負担がある。
牧師のメッセージから、御言葉を根拠として、私を責め立て、自信を信仰を失わせようとする、サタンの攻撃を退けていくために、私自身に身言葉の励ましの言葉がとても必要であること。
『ああ、私は枯れ木に過ぎない』と言ってはならない。とイザヤ書から宦官に向けた、主の言葉に励まされ、
御言葉によって、自分自身を支えることが必要であることを、いや必要としていること。それは、今も同じ。

そんな中で、ローマ書8章の聖句の聖句を幾度も心に刻み込みたいと励まされたいと思い、自分のために、この8章を語らせていただいた。
幸いなことに、賜物として御霊をいただいている私たちには、永遠の命だけでなく、御霊自らのとりなしの祈りを日々いただいている。死に打ち勝たれたイエス様のとりなしがあることを知っていることはなんと心強められることか。
しかし、私たちは、私たちを愛して下さった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者になるのです。8章37節
2018.9.9 茅ヶ崎

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教会の始まり

兄弟たち。私たちはどうしたらよいでしょうか。2章37節


ペテロの説教を聞き、待望していたメシヤを自分たちの手で十字架につけて殺してしまったことを知り、どんな神の裁きが自分たちの身に降りかかってくることかとユダヤ人たちの驚愕は大変なものでした。
以前から憎んでいなかった隣人を知らずに殺した殺人者が、そこへ、のがれることのできるためである。その者はこれらの町の一つにのがれて、生き延びることができる。申命記4:42

申命記4:42に、知らずに殺してしまった殺人について、生き延びることのできる逃れの町の存在が記されています。私たちは、旧約の律法には赦しがないように思いがちですが、ここに憐れみ深い神の律法の姿があります。
イエス様は十字架の上で、『自分が何をしているのか知らないのです』と祈りました。
自分を殺した相手を知らないでしたことだからと赦して下さるイエス様の愛はどれだけ深いのでしょうか。

ペンテコステは、教会の始まりです。
旧約の民もメシヤを待望する信仰により救われますが、新約の民はさらに聖霊の内住の恵みを受けました。
それゆえ天国の喜びを今、味わうことができます。この恵みの約束は、主が召して下さったものに与えられる特権であり、召された者たちは、教会、キリストの花嫁と呼ばれる地位を得ました。
教会の民となる資格と、歩みについて簡潔に記されています。
1:悔い改めること
2:イエスキリストの名によって洗礼を受けること
3:賜物として聖霊を受けること
4:生き方を変えること

教会生活についても簡潔に記されています。
1:使徒たちの教えを学び、守ること
2:互いに交わりを持つこと。集会に参加する
3:イエス様の愛を覚えること
4:祈りをすること
ペテロの説教の内容はいたってシンプルで、イエス様の出来事を旧約聖書の預言に基づいて、淡々と語り明かすものでした。このシンプルな説教によって、多くの人々は心打たれ、救いと導かれました。
現代の教会の説教は、難しくなりすぎていたり、また自己啓発セミナーであるかのように、聴衆の自己満足を満たすためのような生活への適用が多く語られてしまう傾向はないでしょうか?十字架の言葉は、シンプル過ぎて、知恵のある人々には、愚かに聞こえてしまうのは、今の時代も同じなのでないでしょうか?
聖書は、『ペテロは、このほかにも多くのことばをもって、あかしをし、』とあり、ペテロの説教の豊かさにもまた。言及しています。それは、おそらく、イエス様の教えに関することではなかったと思います。聖霊が使徒たちに臨んだことにより、使徒たちに弟子の舌が与えられ、説教を通して教会が始まったことを知る時、説教の重要性についてあらためて心に深く留めたいと思います。


2018.8.26 茅ヶ崎集会メッセージ要約

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義と聖と贖い Ⅰコリント130
義とは忠実に神に従う生き方。
聖とは、この世の汚れに染まらない生き方。
贖いとは神に対する犠牲です。
この義と聖と贖いを全うされた方は、十字架につけられたイエス様しかいません。
しかし、人は自分の肉の中に、この義と聖と贖いがあると思い違いをし、己の中に善を行う力がまだ存在すると信じて努力を続けます。これこそ自分を誇る心であり、宗教という罪です。
自分の肉の中に罪がなくなるように努力するのではなく、イエスキリストの十字架の上にある義と聖と贖いだけで、必要・十分であることに満足する、つまり信じて受け入れる時、不思議とキリストの義と聖と贖いが自分に覆い被さります。
神様もまた天から十字架のキリストを見つめ、彼の義と聖と贖いに完全に満足を覚えられます。
自分を誇るのではなく、主イエス様の十字架の上で成し遂げられた義と聖と贖いを誇ることに心を集中するのです
2018,8,12 茅ヶ崎集会 メッセージ要旨

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老人は夢を見る 使徒217

この夢とは、寝ている時に見る夢のことではありません。
起きてみると消えてしまうはかない夢のことではなく、将来において、神の
言葉の約束に基づいて確かに実現する夢のことです。
これは、御国の完成の姿をいつも夢みるようになるということです。
 
ヨエル書の預言の中に、『老人は夢を見る』の一言が含まれていることは、何と年老いた者たちに生きる希望と喜びを与えて下さることだろうか。
私は、とても素晴らしい神様の憐れみ、老人に対する憐れみ深いプレゼントだと気がつきました。
神様が聖霊を注がれたのは、神様の温かな愛の配慮のみ手であることを教えられる。
 
伝道者の書121節に「あなたの若き日にあなたの造り主を覚えよ。悪しき日がきたり、年が寄って『わたしにはなんの楽しみがない』と言うようにならない前に」とあります。年をとってから、たのしみを見つけることは難しいことかも知れません。実際、体は弱り、自由に動けなくなり、病の心配があり、知り合いも少なくなり、交流も減ってきてしまいます。造り主を知らない者にとって、死をただ待つばかりの毎日ということは、現実のことです。私は、訪問看護の仕事をしながら、そのように生きている年寄りにたくさん接してきています。
これら人たちに、世の楽しみ以外に、神様が用意して下さる御国を待ち望む楽しみ、
すなわち、夢を持つことができたらどれだけ素晴らしいだろうかと思わざるを得ません。
 
年老いていく者に、夢を見ることができるという素晴らしい恵みを用意される主はなんと素晴らしい御方でしょうか。
 
どんな御国の完成の姿を夢見るのでしょうか。
    復活の夢
最後のラッパが鳴るとともに、たちまち一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は復活して朽ちない者とされ、私たちは変えられます。Ⅰコリント1552
    再会の夢
すなわち、合図の号令がかかり、大天使の声が聞こえて、神のラッパが鳴り響くと、主ご自身が天から降って来られます。すると、キリストに結ばれて死んだ人たちが、まず最初に復活し、それから、私たち生き残っている者が、空中で主と出会うために、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられます。Ⅰテサロ416
    完成の夢
このようにして、私たちはいつまでも主と共にいることになります。Ⅰテサロ417
 
見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取って下さる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも苦労もない。最初のものは過ぎ去ったからである。黙示21章3,4節
 
見よ、わたしは新しい天と新しい地を創造する。初めからのことを思い起こす者はいない。それはだれの心にも上ることはない。
わたしはエルサレムを喜びとし、わたしの民を楽しみとする。
泣く声、叫ぶ声は、再びその中に響くことがない。イザヤ651719
 
このようにして、聖霊が注がれると、老人は、救いの完成の夢を豊かに心に抱くこととなるという約束ではないでしょうか。
若者は、伝道に熱心であっても、まだ救いの完成にまで、こころが及ばないこともあるかと思います。年寄りは、伝道しようにも体が思うように動かないにしても、
救いの完成の夢を心にいだき、いつも喜んでいます。
若者が、教会のお年寄りの話を聞けば、いつも救いの完成を夢見ている、そして喜んでいる、そのような姿を見るならばなんと麗しい教会の姿でしょうか。
 
老人は夢を見るという視点から、聖霊に満たされることの大切さ、必要性を教えられます。
たとえクリスチャンであろうと、心が聖霊に満たされていなければ、私たちの心は、不平、不満、愚痴、なげき、悲しみに陥ってしまう。それは、世の人と同じです。聖霊に満たされることによって、老人は夢を見るという約束が成就されるのです。
それゆえ、聖霊に満たされることを願い求める、待ち望む、そのような信仰の姿勢が私たちの側には、求められています。
 
私たちの集会が、御国の到来を夢見る群れ、救いの完成を夢見る群れ、となれることは幸いであると思います。
2018.7.22 茅ヶ崎集会メッセージ要約

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