ヒポクラテスの木

プラタナスの全て、ヒポクラテスの木、渋沢栄一、シーボルト、メディカル エシックス、エコロジー・・・・・・・・・

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明治政府の国賓としては、英国のエジンバラ公が初めで、次いで明治5年のロシア皇子と言うことになる。皇后が見た初めての西欧人であったという。また、明治天皇はロシア艦を訪れており、これも初めてのことである。この、国を挙げての招待に、市中を浮浪者がうろついては文明国として恥ずべき事態と考えられ、明治5年10月15日、東京の街の浮浪者240人を、本郷の前田家上屋敷の空長屋に収容したのが、『養育院』の始まりとされる。http://blogs.yahoo.co.jp/inamatsu06/50756454.html

この『養育院』の濫觴の地の正確な位置が、よく解らないでいた。江戸時代の絵地図には、加賀中納言殿の屋敷地は書いてあるが、どんな建物が配置されていたかは、白地図のままである。

『養育院の医療100年』と言う、昭和47年に出されている冊子に、現在の懐徳園〜職員住宅の一部と書いてあるのをみつけた。『    』が手元にあるのを思いだして、めくってみたら、明治16年の参謀本部の測量図が出てきて、そこに長屋らしい図が書いてある。【写真 曚△◆∈―茲覆里と了解し、さっそくその辺りを散策してみた。

明治になって、前田公爵は壮大な西洋館を建て、明治天皇の行幸を仰いだが、その西洋館の煉瓦の基礎が
。現在の博物館に至る門に当たるところに残されている【写真↓】。そこに造園した庭が懐徳園【写真きァ曚任△襦I瀉脇發帽發3ー4mほどの大きな行幸記念碑が建てられている【写真ァ曄

現在の地図【写真Α曚判鼎郵腓錣擦襪函黄色く塗った部分であり、本郷消防署手前の、東大春日門までの春日通りに沿った部分であり、吉川弘文館など、いくつかの小さいビルが並んでいる辺りである。【写真А曚房┐絞佞蠅如△菓子の老舗「藤村」の向いになる。

長年疑問であった場所が、何度も通ったことのある道筋であると判明し、不思議な思いに捕らわれた。
この長屋に浮浪者が収容されていたのは5日間だけで、その後は浅草溜めの車善七に預けられる。前田藩邸の長屋には養育院の事務部門だけが置かれたようだ。

明治6年2月、恒久施設として上野護国院の堂宇を購入し(現、東京芸大)、収容者は浅草溜から移動することになる。その設立には、東京市知事・大久保一翁の意向が強く働いているようである。地図で見るとこの3か所は目と鼻の先である。http://blogs.yahoo.co.jp/inamatsu06/51362655.html

大久保一翁が小姓として初めに仕えたのが、11代将軍家斉であり、その娘溶姫が前田家に嫁いだ時に建てられたのが、現在の東大の赤門【写真─曚任△襦このあたりの地理には明るい大久保一翁が、養育院揺籃の地に選んだのが、赤門に隣接した場所であることを、どう考えたらよいのだろうか。

この頃までは渋沢栄一は直接養育院には関与していない。しかし、この時期、渋沢栄一は、民部・大蔵省の改正係の長として八面六臂の活躍をしていたことは前述のとおりであるが、渋沢のパリ滞在中にロシア皇帝暗殺未遂事件を経験していることも、養育院成立に、何らかの影響を与えていそうだ。

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