ヒポクラテスの木

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写真の力:幕末写真

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幕末の幕府の通訳、塩田三郎の天然痘痕
江戸時代天然痘はコモンな流行病で、”見目選び”と言われ、・・・


幕末の幕府の外交官にしばしば種痘痕があり、・・・・

それが写真に残されていることに驚く
写真の力

越前の、松平春嶽公は、徳川の田安家の子供だが、  歳の時越前(福井)の松平家に養子に入り、ご養育掛かりが中根雪江。

熊本の細川家のお嬢さんをお嫁に貰う話しが決まっていたが、そのお姫様(勇姫)が、嫁入り前に天然痘に罹患、一命は取り留めたが、後遺症の天然痘痕が残り、美貌だいなし。細川家としては、縁談を辞退したが、若殿の、約束だからと婚儀を進めたという話し。このことに細川家、勇姫も感銘し、内助の効、多大であったよし。

熊本藩の横井小楠を、越前藩が求めたとき、藩内の過激派?を出すことに、熊本藩は抵抗したが、春嶽の強い求めに応じたよし。そこに勇姫の内助があったように思われる。中根雪江、横井小楠、があっての、幕末の松平春嶽、三岡八郎(由利公正)の活躍があった。

勇姫の小さな写真が、福井の博物館にあるが、天然痘痕不明。

日本における種痘の導入話に、越前の笠原白翁の話しがあり、中根雪江の助力の話しが、吉村昭の小説””に描かれている。西洋医学の導入における中根雪江の役割、中根雪江と大久保一翁の親しい関係に注目される。また、中根雪江の顕彰碑を勝海舟が揮毫しており、大きな石碑が福井市の   神社にある。

大政奉還論成立における、大久保忠寛−横井小楠−松平春嶽の関係。
大久保忠寛が静岡の中老の時、維新政府の太政官札(由利公正発案)の徳川家割り当て分芽、商法会所の活動基金の大部分を占める。また、商法会所の運営理念は、由利公正が越前藩で、藩札を発行して、事業に使い、越前藩の財政を立て直した全例を踏襲するものらしい。実際の運用を渋沢栄一に託しているが、利潤獲得方法の基本概念は由利の方法そのものではなかろうか。

明治になって、大久保が幕府から維新政府に引き継いだ巨額の七分積金の運用、銀行創設に、井上馨・渋沢栄一 VS 由利公正のバトルがある。由利公正が第4代府知事の時、急遽岩倉使節団に加わり洋行中に、大久保一翁が東京府知事に任命され、ダブルキャストの時期がある。由利は府知事を逐われた形に不満を述べている。この後、大久保は七分積金の用途を渋沢に託すことになる。従来ほとんど触れられていない複雑な葛藤があるようである。

フランス語通訳・外交官の塩田三郎の天然痘痕の写真から、あちこち話し飛んだ。一枚の写真の力である。

塩田三郎は、函館奉行栗本鋤雲に漢学、メルメ・カションに英仏両語を習う。幕府の通弁御用となり文久3年(1863年)には遣仏横浜鎖港談判使節団に随行。2年後、再び英仏に渡る。元治2年(1865年)に幕府が横浜仏語伝習所を設立すると、実質的な校長であったカションからの依頼で助手を務めた。慶応3年(1867年)に外国奉行支配組頭に進む。維新後、民部省に出仕した後外務省に出仕し、明治6年(1873年)に外務大丞。その後、外務少輔になり、井上馨外務卿の条約改正交渉を補佐する。あちこちで、大久保、渋沢と接点がありそうだ。

そして、大久保一翁の写真・
「何一つ 世のためはせで まうつしに 残る姿の 恥ずかしきかな」

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