注型室 別宅

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ただ、「こちらから出しましょう」という幕府側の申し出も
決して突飛なことではないようにも思える。
友好の証であるとも考えられなくはない・・・。

だが、これにもある理由が隠されている。
日本人と彼らアメリカ人の接触を避けさせたかったからだ。
「○○がほしい、必要だ」・・・となれば、
ハリス領事やヒュースケンは自ら下田の町を出歩くことになる。

そうなれば、下田の住人達がアメリカ人と日常的に接する。
幕府と下田奉行所はこれだけは避けたかったようだ。
その前後から、ハリス領事とヒュースケンは頭を抱えるようになった。
その2人を悩ませたもの、それは護衛という名の「監視員」であった。

「下田の住人は外国人に慣れておりませぬ。
 昨今、不安定な情勢もありますので護衛をつけさせて頂きます」

これが奉行所側の言い分であった。
ちなみに、ハリス領事、ヒュースケンともに下田で
生命が危険だと感じた事は無かったと記している。

2人は後に、下田市内を一人で散歩するようになる。
ヒュースケンは市内から少し離れた小高い岡にある
神社にも足を向けている。

ここで山伏らしき人物と会った、と彼は記す。
山伏もヒュースケンを恐れる事はなく2人は談笑したらしい。
帰り際、山伏は深々と頭を下げて岡を降りた、と続く。

来航当初は確かに驚いてはいたようだが、
下田の人々は普通に彼らの接していくようになる。
この辺り、「横浜村」の住人達とそう変わらない。

後・・・「生麦事件」の起こる1週間前、「横浜港」に
アーネスト・サトウというイギリスの通訳官がやってくる。
明治20年代まで日本に滞在するこの人物も後年、回顧録を
執筆している。

大政奉還直前の兵庫で、自分と友人達と一緒に町を散策していても
「誰も私達を意識しなかった。振り返る人すらいなかった」
と、彼は回顧録に記している。「命の危険も感じなかった」とも。

ハリス領事の交渉の頃から10年と経たずに、日本人は外国人に
ここまで「慣れて」しまうのである。マスメディアがまだ無い国、
人から人へと伝える以外に情報伝達の方法が無かった事を考えれば、
その「慣れ方」は相当に早いと考えていいのではないか。 続く。

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