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この貨幣経済発達に伴う貧富の差、格差社会対策の手段、
政策を時の政権担当者である江戸幕府は持ち得なかった。
重農主義を基盤として成立した幕府にとって、貨幣を中心とした
経済体制は予想すらしていない事だったのである。
元寇来襲時の鎌倉幕府と同様、江戸幕府もまた貨幣経済に
対応する事が出来なかった。元寇の時は、武家と商人達との
間だけであったが、江戸時代の場合は全ての階級を巻き込んでの
問題であった。その規模は全くに違い、国家単位での問題であるといっていい。
幕府は、それなりに経済対策の対処はしている。
武家が抱えた借金を棒引き、または利息引き下げなどの
手段を打っているが、これは抜本的な対策とはなり得ない。
目の前の負債をとりあえず「帳消し」にしても、その後も
財政出動は続く。根本的に体制を変えない限り、
棒引き以前の状態に戻るのは時間の問題でしかないのである。
幕府は貨幣経済に対応するための抜本的な政策を打ち出せなかった。
貨幣経済を国の中心に据えるなら、それは幕藩体制の否定を意味する。
重農主義、米の石高の差異を持って権力構造としている幕府にとって、
貨幣経済、資本主義の導入など出来る事ではなかったからだ。
皮肉にも、自分達が作り出した「戦乱の無い世」は、貨幣経済という
「見えざる実態」となって幕藩体制に刃を向けてきたのである。
この問題に幕府が手を焼いていた頃、黒船はやって来た。
国を開けと、要求してきたのである。
この要求を突きつけたアメリカ人提督、ペリーは貿易も要求してきた。
貿易では2国間で物資が往来する。物資を購入するに必要なもの、
それは「貨幣」であった。欧米諸国は、すでに資本主義経済へ移行している。
ペリー提督に続いてやって来たハリス領事は貿易に必要な「為替レート」、
その重要性を幕府に説き、制定に漕ぎ着けるのである。 続く。
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