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ペリー提督からの要求を、貨幣経済と結びつけて考える事が
出来た幕閣が幕府には皆無であった。当然である。鎖国体制化で
欧米の資本主義家経済を理解する事は不可能であった。
この段階になって、「外様」と称されていた、かつて関が原で
徳川家と合い争った家々も幕府に向かって意見を述べるようになった。
阿部正弘という、当時の老中首座の地位にあった人物が広く意見を
求める行動に出たからである。
ある者はこれを柔軟性と言い、さる者はこれを愚策と言った。
その評価はともかく、阿部正弘の元へは連日意見が提出された。
ペリー提督からの要求を受けて、国中が沸騰するような状態となった。
その意見は百花繚乱である。
「国を開け、いや開くな、戦である、戦になれば国は滅ぶしかない」
幕府内だけでなく、武家の多くは自らの意見を述べる事で
その意思を表明していく。恐らく、この多くの意見が出てきた
状態が、幕藩体制ではなく武家政権終焉への引き金であった。
ここから先は、全くに筆者の考えである。
彼らは黒船来航という現実に対して―それは貿易という問題も含め―
意見を述べている。だが、その意見は未来を見据えている様でありつつも、
実は「過去」にとらわれながら意見を述べていたのではないか、
筆者はそう考えるようになった。
彼らが可考えた過去、とはの幕府の歴史である。
幕府の閣老達は当然ながら幕藩体制の維持を望んだ。
多くの譜代もそうであったろう。
自分達の体制崩壊を望む者などいるはずも無い。 続く。
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