注型室 別宅

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薩摩藩の筆頭家老であった小松帯刀は大政の奉還だけでなく、
慶喜に対して将軍職の辞職まで迫ったという。

混在しがちであるが、政権運営権と軍事指揮権は別個である。

帯刀の、大政を返上するなら「征夷大将軍」の地位も返上すべき、
と迫ったのは、徳川家が全ての武家を束ねる「軍事職」も同時に
返還せねば意味が無い、という意味であった。

徳川将軍家は宰相と軍事司令官を「兼務」している。
その政治側だけの返還では、かえって火種を残す、
それが帯刀の主張であった。

事実、大政奉還から10日後に慶喜は「将軍職」も辞している。

慶喜に対して意見を述べた者は多くは無かった。
慶喜は集まった藩士達に対し、大政の奉還を行うと宣し、
翌15日、若き明治帝はこれを認めた。

将軍職も辞した慶喜は側近に漏らしたという。

「京の公家どもに、まともな政治が出来るはずがなかろう」

慶喜の推測は正しかった。
慶喜の考えは間違っていなかった。
が、慶喜は一つ誤算していたのである。

慶喜は大政を奉還する事で一つのシナリオを描いた。

朝廷に大政―政治運営権―が返上された以上、
朝廷はこの国の舵取りをせねばならなくなる。
元々、征夷大将軍を頂点とする幕府は朝廷、天皇から
国の運営権を委託された組織、政庁であった。

鎌倉、室町、江戸の三大幕府は全て「政権代行」の組織である。

その「代行者」から権利を返上され受け入れたなら、
朝廷は幕府に代わって政権を司らなくてはならない。 続く。

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「我々の代で幕府を潰す訳にはいかない」

これが偽らざる幕閣達の心境であったろう。
幕府を開いた徳川家康は東照大権現と称される
「神君」であった。

「神君に泥を塗るような行為は出来ぬ」

奴らが神君に泥を塗った大罪人である。
そう後ろ指を指されたくない。
これもまた、彼らの偽らざる心境であったはずだ。

外様、と称された武家は逆に千載一遇と考えた。
今まで幕政に参加出来なかった人々は思う。

「今こそ、国政に参加し名を馳せるべき」

幕府側の人々も外様家の人々も、未曾有の国難に際し、
この国をどうすべきかと考えたのは同じであったろう。
国をどう導いていけばいいのか、その「未来」を想い描いた時、
彼らが思考の根幹に据えたものもまた同じであったのではないか。

関が原の戦いである。

250年前の戦い、たった半日で決した戦いの末に
江戸幕藩体制は築かれた。関が原の戦いそのもの、
この争いに関わった武家の子孫達は、祖先の「戦果」を
受け入れる事で戦乱の無い世を代を跨いで生きてきたのである。
この戦いの結末は江戸期の武家が生きるための「証」であった。

その「価値観」が崩れようとしている。



1867年 慶応3年10月14日。

京都 二条城にて、江戸幕府第15代将軍である徳川慶喜は、
上洛している40藩から多くの藩士達を招集した。

彼らを前に慶喜は言う。

「大政を朝廷に返上つかまつる。意見の有る者は遠慮せず述べよ」 続く。

ペリー提督からの要求を、貨幣経済と結びつけて考える事が
出来た幕閣が幕府には皆無であった。当然である。鎖国体制化で
欧米の資本主義家経済を理解する事は不可能であった。

この段階になって、「外様」と称されていた、かつて関が原で
徳川家と合い争った家々も幕府に向かって意見を述べるようになった。
阿部正弘という、当時の老中首座の地位にあった人物が広く意見を
求める行動に出たからである。

ある者はこれを柔軟性と言い、さる者はこれを愚策と言った。

その評価はともかく、阿部正弘の元へは連日意見が提出された。
ペリー提督からの要求を受けて、国中が沸騰するような状態となった。

その意見は百花繚乱である。

「国を開け、いや開くな、戦である、戦になれば国は滅ぶしかない」

幕府内だけでなく、武家の多くは自らの意見を述べる事で
その意思を表明していく。恐らく、この多くの意見が出てきた
状態が、幕藩体制ではなく武家政権終焉への引き金であった。



ここから先は、全くに筆者の考えである。

彼らは黒船来航という現実に対して―それは貿易という問題も含め―
意見を述べている。だが、その意見は未来を見据えている様でありつつも、
実は「過去」にとらわれながら意見を述べていたのではないか、
筆者はそう考えるようになった。

彼らが可考えた過去、とはの幕府の歴史である。

幕府の閣老達は当然ながら幕藩体制の維持を望んだ。
多くの譜代もそうであったろう。
自分達の体制崩壊を望む者などいるはずも無い。 続く。

この貨幣経済発達に伴う貧富の差、格差社会対策の手段、
政策を時の政権担当者である江戸幕府は持ち得なかった。
重農主義を基盤として成立した幕府にとって、貨幣を中心とした
経済体制は予想すらしていない事だったのである。

元寇来襲時の鎌倉幕府と同様、江戸幕府もまた貨幣経済に
対応する事が出来なかった。元寇の時は、武家と商人達との
間だけであったが、江戸時代の場合は全ての階級を巻き込んでの
問題であった。その規模は全くに違い、国家単位での問題であるといっていい。

幕府は、それなりに経済対策の対処はしている。

武家が抱えた借金を棒引き、または利息引き下げなどの
手段を打っているが、これは抜本的な対策とはなり得ない。
目の前の負債をとりあえず「帳消し」にしても、その後も
財政出動は続く。根本的に体制を変えない限り、
棒引き以前の状態に戻るのは時間の問題でしかないのである。

幕府は貨幣経済に対応するための抜本的な政策を打ち出せなかった。
貨幣経済を国の中心に据えるなら、それは幕藩体制の否定を意味する。
重農主義、米の石高の差異を持って権力構造としている幕府にとって、
貨幣経済、資本主義の導入など出来る事ではなかったからだ。

皮肉にも、自分達が作り出した「戦乱の無い世」は、貨幣経済という
「見えざる実態」となって幕藩体制に刃を向けてきたのである。

この問題に幕府が手を焼いていた頃、黒船はやって来た。
国を開けと、要求してきたのである。

この要求を突きつけたアメリカ人提督、ペリーは貿易も要求してきた。
貿易では2国間で物資が往来する。物資を購入するに必要なもの、
それは「貨幣」であった。欧米諸国は、すでに資本主義経済へ移行している。
ペリー提督に続いてやって来たハリス領事は貿易に必要な「為替レート」、
その重要性を幕府に説き、制定に漕ぎ着けるのである。 続く。

各地方から大坂へ。大坂から都市圏へ。

この物資の流れ、「流通」を請け負ったのが商人達であった。
商人達は現金という「資本」を元手にこの国に流通経済を加速させ、
国そのものを「一つの商業圏」へと変化させたのである。

だが、これは江戸幕府が全く予想していなかった流れであった。

江戸幕府が政権を担当して80年程経つと、「バブル」とも
いうべき現象がこの国で起こっている。元禄文化である。
学問や文化の発展が著しかったこの頃に、幕藩体制下の商業形態は
ほぼ出来上がったといっていい。

この商人を介して作られた流通体制はやがてある現象を引き起こす。
貧富の差、現代でいう「格差社会」が生まれたのである。

元禄の時代に、農村部にまで貨幣経済は浸透していったという。
農村部に、米以外で収入を得るという概念が根付いていた事を
意味するが、彼らは「商売」のプロフェッショナルではない。

それは武家も同じであった。

武家や農民達が現金を得ても、それを100%使い切る手段を
持ち得なかった。「重農主義」が彼らの概念であったからである。
対して、商人達はその重農主義から脱却し、物流経済を下地として
商業を展開していた。

商人達は、全国から集まった品々を都市部で高く売りつける方策を
身に付ける。言い方を変えるなら、如何に安く品々を農村部から
買い付けるか、という事であった。

毎日刀を差して歩く武家、毎日田畑を耕す農民が、毎日算盤を弾く
商人達に商売で敵うわけが無い。この国の経済は少しずつではあったが、
商人達が実質的な「主役」となっていった。 続く。

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