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			<title>注型室 別宅</title>
			<description>サンクアールという造型会社で樹脂やシリコンを使う部署で仕事しています。
材料の話、造型にまつわる話や日常の事を載せています。
時々お馬鹿な話で脱線します。アホな内容もございますがよろしくお願いいたします。
弊社ホームページはこのアドレスから入れます→　http://www.cinq-art.co.jp/</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/inamurar2d2</link>
			<language>ja</language>
			<copyright>Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.</copyright>
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			<title>注型室 別宅</title>
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			<description>サンクアールという造型会社で樹脂やシリコンを使う部署で仕事しています。
材料の話、造型にまつわる話や日常の事を載せています。
時々お馬鹿な話で脱線します。アホな内容もございますがよろしくお願いいたします。
弊社ホームページはこのアドレスから入れます→　http://www.cinq-art.co.jp/</description>
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		<item>
			<title>横浜港界隈　＜５８５＞</title>
			<description>薩摩藩の筆頭家老であった小松帯刀は大政の奉還だけでなく、&lt;br /&gt;
慶喜に対して将軍職の辞職まで迫ったという。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
混在しがちであるが、政権運営権と軍事指揮権は別個である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
帯刀の、大政を返上するなら「征夷大将軍」の地位も返上すべき、&lt;br /&gt;
と迫ったのは、徳川家が全ての武家を束ねる「軍事職」も同時に&lt;br /&gt;
返還せねば意味が無い、という意味であった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
徳川将軍家は宰相と軍事司令官を「兼務」している。&lt;br /&gt;
その政治側だけの返還では、かえって火種を残す、&lt;br /&gt;
それが帯刀の主張であった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
事実、大政奉還から１０日後に慶喜は「将軍職」も辞している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
慶喜に対して意見を述べた者は多くは無かった。&lt;br /&gt;
慶喜は集まった藩士達に対し、大政の奉還を行うと宣し、&lt;br /&gt;
翌１５日、若き明治帝はこれを認めた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
将軍職も辞した慶喜は側近に漏らしたという。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「京の公家どもに、まともな政治が出来るはずがなかろう」&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
慶喜の推測は正しかった。&lt;br /&gt;
慶喜の考えは間違っていなかった。&lt;br /&gt;
が、慶喜は一つ誤算していたのである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
慶喜は大政を奉還する事で一つのシナリオを描いた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
朝廷に大政―政治運営権―が返上された以上、&lt;br /&gt;
朝廷はこの国の舵取りをせねばならなくなる。&lt;br /&gt;
元々、征夷大将軍を頂点とする幕府は朝廷、天皇から&lt;br /&gt;
国の運営権を委託された組織、政庁であった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
鎌倉、室町、江戸の三大幕府は全て「政権代行」の組織である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その「代行者」から権利を返上され受け入れたなら、&lt;br /&gt;
朝廷は幕府に代わって政権を司らなくてはならない。　続く。</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/inamurar2d2/59943720.html</link>
			<pubDate>Thu, 09 Jul 2009 09:51:23 +0900</pubDate>
			<category>練習用</category>
		</item>
		<item>
			<title>横浜港界隈　＜５８４＞</title>
			<description>「我々の代で幕府を潰す訳にはいかない」&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これが偽らざる幕閣達の心境であったろう。&lt;br /&gt;
幕府を開いた徳川家康は東照大権現と称される&lt;br /&gt;
「神君」であった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「神君に泥を塗るような行為は出来ぬ」&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
奴らが神君に泥を塗った大罪人である。&lt;br /&gt;
そう後ろ指を指されたくない。&lt;br /&gt;
これもまた、彼らの偽らざる心境であったはずだ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
外様、と称された武家は逆に千載一遇と考えた。&lt;br /&gt;
今まで幕政に参加出来なかった人々は思う。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「今こそ、国政に参加し名を馳せるべき」&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
幕府側の人々も外様家の人々も、未曾有の国難に際し、&lt;br /&gt;
この国をどうすべきかと考えたのは同じであったろう。&lt;br /&gt;
国をどう導いていけばいいのか、その「未来」を想い描いた時、&lt;br /&gt;
彼らが思考の根幹に据えたものもまた同じであったのではないか。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
関が原の戦いである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
２５０年前の戦い、たった半日で決した戦いの末に&lt;br /&gt;
江戸幕藩体制は築かれた。関が原の戦いそのもの、&lt;br /&gt;
この争いに関わった武家の子孫達は、祖先の「戦果」を&lt;br /&gt;
受け入れる事で戦乱の無い世を代を跨いで生きてきたのである。&lt;br /&gt;
この戦いの結末は江戸期の武家が生きるための「証」であった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その「価値観」が崩れようとしている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
１８６７年　慶応３年１０月１４日。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
京都　二条城にて、江戸幕府第１５代将軍である徳川慶喜は、&lt;br /&gt;
上洛している４０藩から多くの藩士達を招集した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
彼らを前に慶喜は言う。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「大政を朝廷に返上つかまつる。意見の有る者は遠慮せず述べよ」　続く。</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/inamurar2d2/59934244.html</link>
			<pubDate>Wed, 08 Jul 2009 11:35:03 +0900</pubDate>
			<category>練習用</category>
		</item>
		<item>
			<title>横浜港界隈　＜５８３＞</title>
			<description>ペリー提督からの要求を、貨幣経済と結びつけて考える事が&lt;br /&gt;
出来た幕閣が幕府には皆無であった。当然である。鎖国体制化で&lt;br /&gt;
欧米の資本主義家経済を理解する事は不可能であった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この段階になって、「外様」と称されていた、かつて関が原で&lt;br /&gt;
徳川家と合い争った家々も幕府に向かって意見を述べるようになった。&lt;br /&gt;
阿部正弘という、当時の老中首座の地位にあった人物が広く意見を&lt;br /&gt;
求める行動に出たからである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ある者はこれを柔軟性と言い、さる者はこれを愚策と言った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その評価はともかく、阿部正弘の元へは連日意見が提出された。&lt;br /&gt;
ペリー提督からの要求を受けて、国中が沸騰するような状態となった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その意見は百花繚乱である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「国を開け、いや開くな、戦である、戦になれば国は滅ぶしかない」&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
幕府内だけでなく、武家の多くは自らの意見を述べる事で&lt;br /&gt;
その意思を表明していく。恐らく、この多くの意見が出てきた&lt;br /&gt;
状態が、幕藩体制ではなく武家政権終焉への引き金であった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ここから先は、全くに筆者の考えである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
彼らは黒船来航という現実に対して―それは貿易という問題も含め―&lt;br /&gt;
意見を述べている。だが、その意見は未来を見据えている様でありつつも、&lt;br /&gt;
実は「過去」にとらわれながら意見を述べていたのではないか、&lt;br /&gt;
筆者はそう考えるようになった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
彼らが可考えた過去、とはの幕府の歴史である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
幕府の閣老達は当然ながら幕藩体制の維持を望んだ。&lt;br /&gt;
多くの譜代もそうであったろう。&lt;br /&gt;
自分達の体制崩壊を望む者などいるはずも無い。　続く。</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/inamurar2d2/59923689.html</link>
			<pubDate>Tue, 07 Jul 2009 11:46:18 +0900</pubDate>
			<category>練習用</category>
		</item>
		<item>
			<title>横浜港界隈　＜５８２＞</title>
			<description>この貨幣経済発達に伴う貧富の差、格差社会対策の手段、&lt;br /&gt;
政策を時の政権担当者である江戸幕府は持ち得なかった。&lt;br /&gt;
重農主義を基盤として成立した幕府にとって、貨幣を中心とした&lt;br /&gt;
経済体制は予想すらしていない事だったのである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
元寇来襲時の鎌倉幕府と同様、江戸幕府もまた貨幣経済に&lt;br /&gt;
対応する事が出来なかった。元寇の時は、武家と商人達との&lt;br /&gt;
間だけであったが、江戸時代の場合は全ての階級を巻き込んでの&lt;br /&gt;
問題であった。その規模は全くに違い、国家単位での問題であるといっていい。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
幕府は、それなりに経済対策の対処はしている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
武家が抱えた借金を棒引き、または利息引き下げなどの&lt;br /&gt;
手段を打っているが、これは抜本的な対策とはなり得ない。&lt;br /&gt;
目の前の負債をとりあえず「帳消し」にしても、その後も&lt;br /&gt;
財政出動は続く。根本的に体制を変えない限り、&lt;br /&gt;
棒引き以前の状態に戻るのは時間の問題でしかないのである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
幕府は貨幣経済に対応するための抜本的な政策を打ち出せなかった。&lt;br /&gt;
貨幣経済を国の中心に据えるなら、それは幕藩体制の否定を意味する。&lt;br /&gt;
重農主義、米の石高の差異を持って権力構造としている幕府にとって、&lt;br /&gt;
貨幣経済、資本主義の導入など出来る事ではなかったからだ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
皮肉にも、自分達が作り出した「戦乱の無い世」は、貨幣経済という&lt;br /&gt;
「見えざる実態」となって幕藩体制に刃を向けてきたのである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この問題に幕府が手を焼いていた頃、黒船はやって来た。&lt;br /&gt;
国を開けと、要求してきたのである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この要求を突きつけたアメリカ人提督、ペリーは貿易も要求してきた。&lt;br /&gt;
貿易では２国間で物資が往来する。物資を購入するに必要なもの、&lt;br /&gt;
それは「貨幣」であった。欧米諸国は、すでに資本主義経済へ移行している。&lt;br /&gt;
ペリー提督に続いてやって来たハリス領事は貿易に必要な「為替レート」、&lt;br /&gt;
その重要性を幕府に説き、制定に漕ぎ着けるのである。　続く。</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/inamurar2d2/59911859.html</link>
			<pubDate>Mon, 06 Jul 2009 09:47:12 +0900</pubDate>
			<category>練習用</category>
		</item>
		<item>
			<title>横浜港界隈　＜５８１＞</title>
			<description>各地方から大坂へ。大坂から都市圏へ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この物資の流れ、「流通」を請け負ったのが商人達であった。&lt;br /&gt;
商人達は現金という「資本」を元手にこの国に流通経済を加速させ、&lt;br /&gt;
国そのものを「一つの商業圏」へと変化させたのである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
だが、これは江戸幕府が全く予想していなかった流れであった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
江戸幕府が政権を担当して８０年程経つと、「バブル」とも&lt;br /&gt;
いうべき現象がこの国で起こっている。元禄文化である。&lt;br /&gt;
学問や文化の発展が著しかったこの頃に、幕藩体制下の商業形態は&lt;br /&gt;
ほぼ出来上がったといっていい。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この商人を介して作られた流通体制はやがてある現象を引き起こす。&lt;br /&gt;
貧富の差、現代でいう「格差社会」が生まれたのである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
元禄の時代に、農村部にまで貨幣経済は浸透していったという。&lt;br /&gt;
農村部に、米以外で収入を得るという概念が根付いていた事を&lt;br /&gt;
意味するが、彼らは「商売」のプロフェッショナルではない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
それは武家も同じであった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
武家や農民達が現金を得ても、それを１００％使い切る手段を&lt;br /&gt;
持ち得なかった。「重農主義」が彼らの概念であったからである。&lt;br /&gt;
対して、商人達はその重農主義から脱却し、物流経済を下地として&lt;br /&gt;
商業を展開していた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
商人達は、全国から集まった品々を都市部で高く売りつける方策を&lt;br /&gt;
身に付ける。言い方を変えるなら、如何に安く品々を農村部から&lt;br /&gt;
買い付けるか、という事であった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
毎日刀を差して歩く武家、毎日田畑を耕す農民が、毎日算盤を弾く&lt;br /&gt;
商人達に商売で敵うわけが無い。この国の経済は少しずつではあったが、&lt;br /&gt;
商人達が実質的な「主役」となっていった。　続く。</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/inamurar2d2/59883709.html</link>
			<pubDate>Fri, 03 Jul 2009 09:46:41 +0900</pubDate>
			<category>練習用</category>
		</item>
		<item>
			<title>横浜港界隈　＜５８０＞</title>
			<description>豊臣政権を経て誕生した江戸幕藩体制は、本当の意味でこの国を&lt;br /&gt;
一つの国家体制へと変換させた。蝦夷と呼ばれた北海道や、琉球と&lt;br /&gt;
名乗っていた沖縄は含まれてはいないが、少なくとも「一つの国家」を&lt;br /&gt;
実現させたのは豊臣・徳川両政権の功績であろう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
国家、には必ず中心となる「都市」が生まれる。&lt;br /&gt;
政治の中心地、商業の中心地、工業の中心地、という様に、&lt;br /&gt;
ある分野において特化した都市群が形成される。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
江戸が政治の中心地であるならば、商業の中心地は大坂であった。&lt;br /&gt;
豊臣政権が大坂へ、全国から多種多様な品々を集めての一大拠点に&lt;br /&gt;
育て上げたからである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
江戸幕府はその体制を引き継いだ。江戸幕府は豊臣政権のあらゆるものを&lt;br /&gt;
否定し、破壊していった印象があるが、実は受け継ぎ、昇華させていった&lt;br /&gt;
方針や政策は多いのである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
豊臣政権の下、大坂は商業都市となった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そして、政権が徳川家に移行すると、江戸という都市は&lt;br /&gt;
世界三大都市に数えられるほどの大都市へと生まれ変わった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
都市という場所の最大の特徴は今も昔も変わらない。必要なものを&lt;br /&gt;
自らの手で「生産する」という手段を持たない、という点である。&lt;br /&gt;
農村は逆に自分達が必要とするものを自ら生み出す場所である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
先に触れたように、各藩の米の石高は年々増えていった。&lt;br /&gt;
桃山時代から江戸時代初期にかけて形成された都市群は、&lt;br /&gt;
農村の様に食料どころか、生活物資すら満足に自足出来ない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
都市部と農村部、という明確な区分けが出来たのが江戸時代であった。&lt;br /&gt;
地方の各藩は、米や都市で必要とされる品々を大坂へ回航し、&lt;br /&gt;
現金を得るようになっていく。実質的な自由経済の始まりである。　続く。</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/inamurar2d2/59873377.html</link>
			<pubDate>Thu, 02 Jul 2009 09:48:53 +0900</pubDate>
			<category>練習用</category>
		</item>
		<item>
			<title>横浜港界隈　＜５７９＞</title>
			<description>武家政権の歴史は、公家階級から土地の支配権を奪っていくに等しい、&lt;br /&gt;
という点について、拙稿でも何度か触れてきている。&lt;br /&gt;
土地の支配権を奪う、という点は田畑で得られる穀物の所有権を&lt;br /&gt;
武家が握るという事でもあった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
つまり、米を「税金」として民に納めさせる権利、という事だ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
江戸幕府の前政権であった豊臣政権は、それを実現させた最初の政権であった。&lt;br /&gt;
江戸幕府は、豊臣政権が全国で実施した石高の算出を下地として、&lt;br /&gt;
全国に配していった武家の石高を決めていった。その石高は幕府開幕から、&lt;br /&gt;
幕末の大政奉還まで改められる事は無かったのである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
開国直後、倒幕に軸足を移していく長州藩は、藩内で生産される&lt;br /&gt;
米の石高が江戸幕府開幕前後と幕末では4倍も違っている。&lt;br /&gt;
30万石、とされてきた長州藩の実質石高は幕末には120万石にまで&lt;br /&gt;
膨れ上がっていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
戦が無くなり安定した世になると、同じ面積の田畑で4倍もの収穫を&lt;br /&gt;
得られるようになる。農業の発達である。それまで戦う事と生き残る事に&lt;br /&gt;
注がれていたエネルギーが、農業に振り向けられた事で引き起こされた&lt;br /&gt;
「農業革命」であった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
長州藩は、自領内で持て余し気味になった米を大坂へ流したり、&lt;br /&gt;
亀山社中―海援隊―という「企業」を起こしたさる人物を介する形で&lt;br /&gt;
薩摩藩へと売りつけた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
米を藩外へ流す事で長州藩が得たものは「現金」であった。&lt;br /&gt;
これが討幕運動の資金となり、長州藩は維新回転の主役となっていく。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
各藩が大坂へ米を回航して金を得る、という行為は幕末の長州藩が&lt;br /&gt;
最初ではない。幕藩体制が安定して以降、どの藩でもやっていた事であった。&lt;br /&gt;
だが、米を売って得た現金を明確な別の目的のために使ったのは、&lt;br /&gt;
恐らく長州藩が最初であったろう。　&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これに一枚噛んだのが、亀山社中を起こした土佐藩出身の郷士であった。&lt;br /&gt;
幕末、この国の人々の間に「資本主義経済」の概念が明確になったのである。&lt;br /&gt;
この一連の動きは、幕府が開国を決定してから後、政治が迷走してから&lt;br /&gt;
出てきた現象であったが、開国前から、幕府体制がうまく機能しなく&lt;br /&gt;
なり始めていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
理由は同じである。資本主義が幕藩体制を「食い始めた」からだ。　続く。</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/inamurar2d2/59863277.html</link>
			<pubDate>Wed, 01 Jul 2009 09:47:33 +0900</pubDate>
			<category>練習用</category>
		</item>
		<item>
			<title>横浜港界隈　＜５７８＞</title>
			<description>5代将軍綱吉の時代に起こった「赤穂浪士事件」、その発端となった、&lt;br /&gt;
浅野家の取り潰しが恐らく大規模な改易の最後であろう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ここに至り、幕藩体制は確立される。&lt;br /&gt;
幕府と藩という関係は文字通り、「連邦体制」となる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
鎖国という国を閉ざす形態を取りつつも、幕府はオランダと清との&lt;br /&gt;
国交は保ち続けた。将軍の代替わりに際しては、李氏朝鮮から&lt;br /&gt;
通信使という形での外交団がやって来ている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これは「外交権」を幕府が握っていた事を意味する。&lt;br /&gt;
連邦制でも、外交に関してはその一切の権限を連邦政府が持っている。&lt;br /&gt;
州政府は外交に関して全く口をはさむ事は無い。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
それは藩も同じであった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
幕末まで諸藩は外交に関して幕府に異議申し立てをしていない。&lt;br /&gt;
藩は「州」という形で内政を担当し、幕藩体制は維持される。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
江戸幕府成立前夜、この国の武家は２つに割れて覇を争った。&lt;br /&gt;
その争いは僅か半日で決する。この時点で国を統治する政権は&lt;br /&gt;
存在していたが、その戦いを経て強大な軍事力と圧倒的な政治力を&lt;br /&gt;
持つ武将に実質的な権力が移行する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その武将の死の直前、前政権を担当していた豊臣家は滅亡する。&lt;br /&gt;
大坂を舞台としたその戦い以降、その権力を握った武将の家、&lt;br /&gt;
徳川家は幕藩体制を構築してこの国を統治していく。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その支配体制が連邦制度を先取りしたかの様な幕藩体制であった。&lt;br /&gt;
徳川家に味方した家々だけでなく、対立した家々も含めて、&lt;br /&gt;
江戸幕府は巧みに体制を作り上げ、戦乱を引き起こさなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
筆者はこういった点で、江戸幕藩体制は世界に誇っていいと考える。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
だが２００年以上も経てば、その体制に「ひび」が入り始める。&lt;br /&gt;
理由は、戦乱が起こらなかったが故に、幕藩体制が対処出来ない&lt;br /&gt;
「見えざるもの」が現れ始めるからである。　続く。</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/inamurar2d2/59852880.html</link>
			<pubDate>Tue, 30 Jun 2009 09:46:34 +0900</pubDate>
			<category>練習用</category>
		</item>
		<item>
			<title>横浜港界隈　＜５７７＞</title>
			<description>アメリカ人提督からの要求に困惑した人々、鎖国廃止を決めた人々、&lt;br /&gt;
それに反対した人々。彼らが席を置いていた組織を江戸幕府という。&lt;br /&gt;
最後の武家政権、武家の統治機構として最も洗練された組織であった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかしながら、黒船と呼ばれた船団がこの国にやってきた頃、&lt;br /&gt;
江戸幕府は組織として衰退期に入っていた。欧米列強が来なくとも、&lt;br /&gt;
鎖国が続いていたとしても、幕府の弱体化は「必然」であった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
およそ２５０年近く、江戸幕府は変わらぬ体制で統治を続けたからである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
世界中探しても、２世紀半も戦乱と無縁であった体制を探すのは難しい。&lt;br /&gt;
江戸幕府とは、それを実現させた類稀な政治組織であった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
だからといって、体制とは未来永劫続きはしない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
先に触れたが、江戸幕藩体制は現在の連邦国家制度に近いものであった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「藩」と呼ばれたものは「州」に酷似している。幕府が創設された&lt;br /&gt;
初期を除いて、「幕府」という「連邦政府」が定めた「法度」、&lt;br /&gt;
つまり「法律」を順守する限り、幕府は藩の内政に口出しはしなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「改易」と呼ばれる武家を丸ごと潰してしまう方策は、&lt;br /&gt;
2～3代将軍の秀忠、家光時代に集中している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
まだ戦乱の世を知っている人々が存命であったためだ。&lt;br /&gt;
徳川家に反旗を翻す、反抗姿勢をを示す武家がいる限り、&lt;br /&gt;
幕府も強権を発動する必要性があった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
だが、4代将軍家綱の治世下に入ると、戦を知らない世代の&lt;br /&gt;
時代へと変わっていく。「戦後派」の人々の時代なると、&lt;br /&gt;
改易自体が減少し始める。　続く。</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/inamurar2d2/59841721.html</link>
			<pubDate>Mon, 29 Jun 2009 09:47:08 +0900</pubDate>
			<category>練習用</category>
		</item>
		<item>
			<title>横浜港界隈　＜５７６＞</title>
			<description>資永には数人の男子がいた。嫡男は資盛というが、城家は&lt;br /&gt;
資盛ではなく資永の弟である長茂が継いだ。同時に、長茂は&lt;br /&gt;
越後守の役職も引継ぎ、義仲追討を指揮する事になった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
頼直が、城家に救いを求め越後に入ったのは、長茂が家督を&lt;br /&gt;
継いで間もない頃であった。長茂は頼直を保護、自ら軍勢を&lt;br /&gt;
率いて義仲軍追討に出る事を確約する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし、越後は雪に閉ざされた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
城家の出兵は年が変わってからである。&lt;br /&gt;
長茂は、およそ１万人を率いて信濃への侵攻を開始した。&lt;br /&gt;
対する、義仲の動員兵力は４千人程であったらしい。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
幾度と無く迷走を続ける拙稿であるが、ここで述べておきたい事がある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
迷走は筆者の稚拙さが引き起こしている事であるのだが、&lt;br /&gt;
殊更に武家の話に言及するには訳がある。&lt;br /&gt;
それを体系的に紡ぐ事を筆者は出来ないでいる。&lt;br /&gt;
単純に、筆者の力量の不足さが引き起こしているからに他ならない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
横浜港を離れて久しいため、以下に少々駄文を挟ませて頂きたい。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
本稿の題名にある横浜港が開かれるに、ある１人のアメリカ人提督の&lt;br /&gt;
行動―恫喝、または強攻策―が引き金になったのは間違いない。&lt;br /&gt;
筆者は、その舞台となった横浜村と称されていた場所から、僅かに&lt;br /&gt;
離れた場所で育った。現在、その地を離れたが、年数にして30年程、&lt;br /&gt;
生活していた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ために、１５０年前に起こった顛末について考えた。&lt;br /&gt;
生まれ育った地を離れたからこそ、であったかもしれない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
確かに、その発端は一人のアメリカ人であった。&lt;br /&gt;
国を、港を開け、とその男は言った。&lt;br /&gt;
それを受けた側の人々は、ただひたすらに困惑するだけであった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
が、「開国やむなし」と判断し、鎖国という方針を大転換、&lt;br /&gt;
港を開く事を決断し、２５０年続いた体制から大きく舵を&lt;br /&gt;
切る人々が現れる。　続く。</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/inamurar2d2/59814179.html</link>
			<pubDate>Fri, 26 Jun 2009 09:47:57 +0900</pubDate>
			<category>練習用</category>
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