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■生長の家誌昭和五十一年六月号谷口雅春先生法語
善き”未来運命”を創造するために
一日の法語 困難を克服し得た勝利感
人は何故、野球を楽しみ、スキーを楽しみ、ヒマラヤやアルプスの峻峰(しゅんぽう)に登ることを壮快に感じ、時としては顚落(てんらく)して死することがある危険を前途に見ながら、随分の費用をかけて、みずから進んでその困難に直面して行こうとするのであろうか。
それは”困難”は自己に内在する”未見の我” ”神の子なる未見の無限力”を、顕在の世界にあらわしたいという潜在的願いがあるからなのである。
そしてその困難を征服したときに、わたし達は勝利の快感を味わう。生き甲斐を感じるのである。何の困難もない平々凡々の生活が毎日続く時には、人間は倦怠感を生じて、人生そのものにウンザリしてしまうであろう。
二日の法語 勝利感と生き甲斐の源泉は何か
困難を克服し得た勝利感はどうして起こるのであろうか。実は”困難”というものは、”外”にあるのではなくて、自分の”内”にある”心が描いた仮存在”なのだからである。
人間の実相は”神の子”であり、”無限力”であるから、”困難”などある筈がないのである。その本来の”無限力”を覆い隠して”包み”(罪)によって、”困難”を感ずるのである。一つでも、その”困難”を征服し得たということは”包み”を破って、内在実相の”無限力”が一歩一歩一層多く顕現し得たことであるから、自己の「実相隠蔽」を克服したことに勝利感を感ずるのである。そして自己の「実相」が一歩でも現象の世界に一層多く顕現し得たことに生き甲斐を感ずるのである。
三日の法語 「我れ世に勝てり」
イエスは自分が磔(はりつけ)の刑に遭うべき前途を予見したときにゲッセマネで祈るとき、先ず「願わくはこの苦き盃(さかずき)をわれより取り去り給え」と祈っているのである。この願いは”肉体の願い”である。誰でも十字架上に釘つけられて槍で刺されることを願う肉体はあり得ない。誰の肉体でも、肉体は苦しみを避け楽を得ようと欲するのである。しかし、やがてイエスは「されど我が意(こころ)を成さんとするには非ず、みこころの如くならしめ給え」と、”別の言葉”を以って祈っているのである。「”苦き盃”(困難)を取り去り給え」という前半の祈りは”肉体の願い”であり、”世俗的願い”である。しかし、「されど我が意(こころ)を成さんとするには非ずみこころの如くならしめ給え」という後半の祈りは、肉体的自我を放棄し、その”世俗的願い”に打ち勝ち、人類の罪の身代わりとなる崇高なる魂の願いに身を捧げる決意ができたとき、彼は”世俗的願い”に打ち勝ったのである。そこに真の生き甲斐を感じ、彼は「我れ世に勝てり」と宣言したのである。
四日の法語 世俗的な自己評価に雷同するな
人間は五官の感覚をもって自分の肉体を見、自己を一定量の物質だという知覚を得て、常に自己限定しつつ生活しつつあるのである。その自己限定のままで生きている限りは、それは世俗になじんで生きているのであり、「われ世に勝てり」と宣言することはできないのである。「われ世に勝てり」とは、外界の物質世界を征服することではないのである。自己の内にある「世俗的な自己評価」に打ち勝つことなのである。
自己を”神の子”と自覚することは、今これが「自分の肉体的力」の極限だという自己限定を打ち破って、常に自己に出来るだけ以上の事を成すという理想目標をおいて、毎日一歩でもより多く前進し、進歩することなのである。
五日の法語 困難は実相内在の美を磨き出す研磨機である
困難は、自己に内在する力を、平常普段の生活以上に発揮させてくれる”呼び水”になるものである。目標が、日常生活程度では、誰でも出来る平凡な普通一般の生活になっていて、別に現在以上の力を引き出してくれる機会をつくってくれないのである。
それだから、神は一見”困難”と見える問題又は事象を、時々すべての人に課して、それを解決するために、その人が”日常以上の力”を発揮する機会を与えて下さるのである。それだから”困難”の来る毎に、その”困難”と、そして、その困難を与え給うた神とに感謝せよ。
困難という研磨機を通して、わたし達の魂に内在する貴き光が、一層多く燦然と輝き出すことになるのである。
六日の法語 運命は課せられた労役ではない
運命というものを他から課せられた労役だと思ってはならない。”運命”を物質でつくった革輪(ベルト)が回転させている「物質の歯車」であるなどとは考えてはならない。”運命の原点”は”自分の心”にあるのである。”心”が運命の原点である。
”運命の原点”である”自分の心”が明るく輝けば、明るい運命が自分に向ってやって来るのである。
何よりも大切なのは”自分の心”を明るくすることである。部屋が暗いと思っていたが、実は自分が自分所有の電燈をともさなかったからだと気がつく人は幸いである。
誰でも自己の内に無限燭光(しょっこう)の”霊の灯(ともしび)”が決意を以てスイッチを入れれば輝くような霊の実相の霊源をもっているのである。
七日の法語 ”心”を光明面に向くよう切り換えよ
自分の”心”が暗黒の方向へ向いているか、光明の方向へ向いているか、自分の心を顧みなさい。そして暗黒の方向へ向いておれば光明の方向へ心を切り換えなさい。
”心”という電車が、あなたの”心”の向くところへ回転して行ってあなたを運ぶのです。それを”運命”と人はいうのである。『愛と光との生活』(新選谷口雅春法話集第八巻)の77貢には次のように書かれている。暗黒な気分になった時には必ずこの本をひらいて、その一節をお読みなさい。必ず心が明るくなり、運命が明るい方向に回転してまいります。
「諸君よ、必ず諸君の心の中に”光明”のみを描け、必ず諸君の心の中に成功のみを描け。心に描くことは、心の世界に種子を蒔いたことになるのです。そうして、心に”光明”の種子を蒔いて置いてから、その手入れをし、施肥(こやし)を一所懸命にやるように、形の世界ででも、出来るだけ勉強し、出来るだけ働き、前進前進、ただ前進、ただ伸びることのみを知って、一寸の暇もなく間断なく進むのです・・・・・・」
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