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三日のことば ”愛”は永遠不滅の深い感惰である
”愛する”ということはそのような感情なのである。”愛する”ということは、必ずしもその対象が所謂る”美しい”ということを要しないのである。”愛する”ということは単に"好き"ではないのでる。"相手が美しければ愛するが、その美が爆撃を受けて失われて醜くなったから愛しない"というのは、本当はその人は相手を愛していなかったのである。彼は単に相手の外観を"好き"であったのである。その"好き"を仮りに"愛する"という語で表現したに過ぎなかったのである。その"好き"な外観が崩れてしまったら、もうその外観を"好き"である理由は消えたのであるから、もう相手の顔や皮膚の"醜さ"を"好く"訳にはゆかない。それを「もっとキレイであったら愛することが出来るが、こんなにキタナクなったら愛する訳には行かない」というのは、本当に"愛"の問題を説いているのではなく、仮りに"愛する"という語を以て"好き"という語におきかえて表現したに過ぎないのである。
"妻"を愛するのでも、"娘"を愛するのでも、"国"を愛するのでも、本当の意味で"愛する"という以上は、外観の変化によって、愛しなくなったりするものではないのである。
好きは、人又は物の外観に対する"好悪の感情"であるけれども"愛"は、実相の生命から出て来た永遠不滅の深い感情である。外観の変化によって左右せられるような脆弱な感情ではないのである。
四日の二とぱ "愛"とは"彼"と"自己"との生命の一体感
"愛"とは、外観の問題ではなく、生命の一体の自覚の感情である。"彼を愛する"とは、"彼"の生命と"自分"の生命とは一体であるという白覚の感情である。"彼女"を愛するとは、"彼女"の生命と"自分"の生命とは一体であるという自覚である。そのことが明らかになれば"国を愛する"とは、敗戦の醜い外観を呈している国だから愛することはできないというような外観の間題ではなく、"自分"の生命と、"国"の生命との一体の自覚感情である。
"愛する"とは相互の生命の一体の自覚感情だということがわかれぱ、"国を愛する"という場合、"国"とは一体何であるかを明らかにしなければならないのである。
五日のことば 国家は生命体である
「国敗れて山河あり」という諺もある。山河というものは破れないでも、国は敗れる、又は、国は崩壊することがあることを考えると、"国"というものは、必ずしも自然界の土地とか山森とか河川とかいうものでないことが解るのである。
普通、国家というものは"主権"と"領土"と"国民"との三要素が渾然と調和して一体となったものであると謂われているのである。
領土の上に国民の集った集団があっても、その集団を統率し総攬する"主権"がなければ"国家"と称することも、"国家"とみとめることも出来ないのである。それは肉体があり、細胞の集団があっても、全体を統率し総攬するところの"生命"又は"霊魂"がなけれぱ、それは生きた人間だということができないのと同じである。
そして、死物や無機物や無生物に"主権"が存在することはないから、国に"主権"が存在するということは、国が生命体であることをあらわしているのである。
【コメント】
愛するとは自他一体の感情から出てくる思いであり、国を愛するとは自己と国との一体感から出てくる思いだということなのですね。
この国との一体感を感得することは、なかなか難しいものだと思います。
国とは生命体であるという言葉に感激されたのは、「占領憲法下の日本」の序文を書かれた三島由紀夫でした。では、「生命体としての日本」とはどういう理念を持っているのか、ということですね。
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