考古

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府中・熊野神社古墳

 石のカラトの報告書のことを書いたら、熊野神社古墳の概報が出てたのが分かったので、ついでに
 紹介しておきます。

 学生社刊、「武蔵府中熊野神社古墳調査概報:上円下方墳」2005.7 2200円+税

 である。

 3段に築かれ、主体も3室で形成されている。

 市販のものはこれなので、興味のある方はどうぞ。

石のカラト古墳

 そういえば平城ニュータウンの中に保存されている、終末期古墳の石のカラト古墳の報告書がようやく
 刊行されました。

 奈良文化財研究所編「奈良山発掘調査報告1:石のカラト古墳・音乗谷古墳の調査」4200円
 (奈良文化財研究所学報72冊)2005.2

 というものです。

 音乗谷古墳というのは、京都府木津町の古墳で、後期の埴輪資料が沢山でたところです。

 石のカラトは考古学の方ならよく知っている終末期の上円下方墳です。

 今回は4ヶ所の報告と石のカラト、音乗谷の考察が入っているものです。

 上円下方墳は、知見の限りでは、後、東京府中の熊野神社古墳(この間調査)と静岡沼津の清水柳北1号墳
 があります(奈良県石舞台は可能性がある程度ですね)。

 終末期古墳や埴輪に関心のある方はどうぞ。印刷した、京都の真陽社0753516034で販売してる
 ようです。

小林先生

 今日講義用の資料を作った後疲れたので、ぼーとしていたら、「小林行雄先生追悼録」があったので、読み始めてしまった。

 考えてみると小林先生が死んでもう10年以上になるのですね。

 末永先生とどっちが先だったかと考えて末永先生が先だと結論がでた。

 小林先生に会ったのは多分3,4回だったと思う。

 私たちにとってはこわい先生だったが、追悼録を読んでいるとそうでもない一面が読み取れて
 ふーんこういう人だったんだ、と思うことしきりであった。

 先生の写真で一番前ので私が知っているのは多分森本六爾の壮行会か何かで橿原神宮前にあった
 畝傍考古館の前で記念撮影に入っている姿である。これは私が島本一のことを調べていた時に
 見たものである。

 この本にも色んな写真が入っていた。末永先生らとの唐古の調査の写真とか。

 うまくまとめられないけれど、私の最初期の考古学の勉強をさせてもらった先生だった。

人事雑感

 今年3月は奈良県は政変かというくらい人の異動があったようだ。

 橿原考古学研究所は、河上邦彦氏と今津節生氏が去った。

 河上氏は神戸山手大学に移り、広陵町の文化財センター長を兼務するとのことだ。

 今津氏は九州国立博物館と聞いた。

 桜井市教育委員会で纏向遺跡の調査を主導し、阿部遺跡群の調査でコロコロ山古墳を扱った清水真一氏もお母さんの介護を理由に定年を2年だったか残してご退職、愛媛へ帰るそうである。

 天理市も泉武氏が定年前に退職で、沖縄で大学へ生徒で行くと聞いた。

 そういえば奈良県立図書館の郷土資料で有名だった山上豊氏も定年前に退職して、大学へ学生で行くそうである。

 何せ最近大学へいこうにも学位がないと辛い時代だから泉氏や山上氏の選択も無理からぬところだと思うが、次々にやめられたので、なんじゃそれは、という感じである。

 奈良文化財研究所の人事は聞いていないが、飛鳥藤原の金子氏も年齢的には退職が近い筈なのでどうだったのだろう。

 京都大学では人文科学研究所の小南一郎先生が退職された。最後に立派な報告書を作られたそうである。朋友書店さんが扱っているらしいが、ある方の抜き刷りを頂いた分読んだのみで全体に目を通していない。

 京都大学の学部(最近は大学院重点だから大学院文学研究科という方がいいのだろうが)は皆お若い筈なので入れ替わりはなかったと思うが細かくは聞いていない。東大の方は桜井先生のご年齢は知らないので別にして後は変わりないと思う。

 考古学講座は同じく変わってないだろう。泉拓良氏が奈良大学から京大へ。代わりに白石太一郎氏が歴博から奈良大へ戻ってきたという感じだろうか。

 まあともかく退職された皆様ご苦労様でした。

奈良県五條市の窯跡

 知っている人は知っているだろうが、殆ど和歌山という所にある奈良県五條市には飛鳥の川原寺に供給した「荒坂瓦窯群」とか藤原宮・本薬師寺に供給した「牧代瓦窯群」とか天神山瓦窯等10指に余る窯跡があり、奈良時代まで一大窯業地帯であった。

 荒坂瓦窯については京奈和自動車道工事に伴って最近発掘が行われ昨年「荒坂遺跡」という報告書も発行された。この調査では工人の住居と思われるものが発見され新たな知見が得られたのだが、最近某氏が現地へ行ったら河川工事で一番北西にあった、確か7・8号窯が削られて無くなっているように思えるということであった。ここに関しては以前も西久留野(にしくるの)町へ上がる道の拡幅工事の際に多量のセンが出土していたが、工事の人はそれを叩き割ってバラスにして路盤を固めるのに使っていたそうである。その場所は荒坂橋といったと思うが、一応保存されている1号窯のすぐ北側の橋を渡って急な坂に入った上で、その坂の手前の傾斜地からは多量の飛鳥期の特徴のある須恵器が見つかっていたそうで、ここでは窯を分散して、ここは軒丸瓦、ここはセン、ここは軒平瓦、ここは須恵器という風に分業していた可能性が高いように思える。

 問題なのはこの橋のすぐ北側は周知の遺跡になっていないらしい。なんとか畑下窯という川の北側の窯跡とされる地点はもう少し上に上がったところに遺跡地図ではなっていてこの地点は何もないことになっている。だからまだまだ空白になっている地点に多くの窯がある可能性が高いように思える。ここは川による侵食でどんどん崖が崩れて行っているので窯ごと川に落ちてしまったものもあるかもしれない。ある時期完全な平瓦が川で落ちていたと某氏が言っていたのでそういうことがあるだろうと思っている。いくつかの窯はどこに供給されたか分かっているが、五條市の他の多くの窯は供給先が不明なものも多いと聞いている。今後の研究の展開を期待したい。

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