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本日、市役所に行く。僕は、ポスタを見た。人権啓発だとさ。
それが悪いことじゃないし、むしろ感心した標語があった。女性がダイエットをくりかえすことを啓発するポスタ。なぜ、広告には女性が多く載るのだろうか。公共の場では女性の裸、例えば新聞や雑誌などに掲載されているため、それらを子どもに見せないようにしようなど。非常に思考のトレーニングになった。
考えるべき点がある。日本という社会、とりわけ武家社会、封建制度、儒教的社会制度の成り立ちと生成された社会的価値観。あるいは社会的需要という側面からの性別という記号性(※)という観点からの考察が必要に思われる。
第一に、日本、あるいは東洋の宗教あるいは社会構造/制度に言及する場合、M.ヴェーバーの「宗教社会学」(『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』が代表作)を用いて説明出来るであろう。
東洋の宗教をざっくばらんに整理すると、神の存在⇒天であり、現世内俗的、多神教…神様が沢山いる、という具合である。西洋はおよそ反対の性格を持っている。日常よく耳にする、「お天道様」とか、「八百万の神」とか、「貧乏神」とか、現世と神が近い存在であることを示してある。
しかし、日本や中国においては宗教としての仏教(北伝仏教、あるいは大乗仏教)よりも、儒教という教えの方が大きな力をふるっている。仁、義、礼、智、信といった五倫五常という中国古来の徳目が日本にもとりわけ武家社会に継承されている。儒教における罪の意識とは、この礼教的支配からの逸脱を意味し、なるほど、話を人権啓発に結ぶと、社会的地位の低かった女性における男権社会の禍根なのであるといえよう。
もっとも、だからいけないのかというとそういう簡単なモノではない。森嶋通夫は『忠』を戦後日本における経済復興の要因として捉え、アジア諸国の今日における発展もこの儒教的精神がもたらしたと考えている学者も多い。なおヴェーバーにおける宗教の合理性においてはここでは言及しない。
議論の核としては、今日における男女差別は、単線的な差別の延長として捉えるのは、本質をついていない。男女同権を訴えるならば、日本の歴史、とりわけ儒教と封建社会を注目し、社会構造の基本に男女差別というプログラムが内包されていたという点を認識しなければならない。換言すれば、社会システムが近代社会においては男女差別が絶対化され、徹底されていた。そのため、われわれが今日の男女差別を見るばあい、何よりも表面的な権利の獲得ではなく、儒教ほか宗教における社会システムを構成する諸要因との調和と干渉、そしてそれらシステムを変化させるダイナミクスなムーブメントが起こらない限り、緩やかなままの社会構造の変化にしかならないであろう。
次回は社会的需要という側面からの性別という記号性について。続きます。
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