|
チーズは好物である。おいしい。とりわけ、ブルーチーズはおいしいし、よくワインとクラッカーで合わせて食べている。最近ではお金がなくてそのような贅沢が出来ませんが、やっぱりチーズというものはこだわって食べるのではなく、意外と身近な所にあるんじゃないのか、ということもあるわけ。例えばよくお菓子でチーズ味のものがあるけど、これなんか典型的に身近なチーズを使ったものだし、チーズケーキなんかもその部類に入るんじゃないと思う。実際よく買うんだな、チーズ味のポテチなり、ケーキなりはさ。 http://ec2.images-amazon.com/images/I/51%2BcNLnyeEL._SL500_AA240_.jpg というわけで、多少僕自身のチーズ愛を書き連ねた上で、『チーズの時間』を手にしたわけですが、この本は非常に面白い。チーズのトリビア本なら、図鑑でも見れば済む話でしょうが、本書ではチーズのおいしさというものを克明に描き出している。とりわけ、2巻、3巻と話に深みがでているのが特徴的で、巻を重ねるごとに面白さを増すのはなかなかない。実は意外にも緻密に計算された構成がなされている、とさえ感じてしまう。 さて、内容に関して言えば、「亜氷音レミ」というラノベの主人公的な名前の女性なのですが、以下の二つの話で構成されている。 1 「全フランス チーズ鑑評騎士の会」(実在します)でシュバリエ(騎士)の称号を得た彼女が、日本でチーズ店を開き、様々な人たちとチーズを通じて交流していく物語 2 フランスに駆け落ち後、交通事故によって亡くなった両親が愛したチーズの味を、日本料理店をやっている祖父に伝えるべく、彼を探している物語 3巻時点ではおおきく2の部分は触れておらず、まだまだ先の展開が期待出来るの。では、本書の本質は一体なんなのかというと、チーズと料理で人を感動させる、いわゆる料理マンガである。ただ、おそらくは僕の料理マンガ読書履歴のなかで合致するものがなかっただけかもしれないが、チーズを食べたことによって、自分の原点に立ち返ったり、感動を与えたりする。それはよくある手法のように思われるんだけど、ただ、この点だけは強調しておきたい。チーズには歴史がある。もちろん、他の料理にも歴史はあることは承知なのであるが、だからといって歴史というものを全面に有効な手段として用いて、チーズを食べた人を感動させる、そのようなマンガは今までにないのではないか。 具体的にはこの作品を読んでいただければ幸いなのだけど、3巻♯17の「素直じゃないチーズ!?」より、赤十字父との話を引用しよう。 レミ「でも正直 初めて会った時の印象は サイテーでしたけど♡」 赤十字父「おっと 言うねぇ♡」 レミ「まるでこのチーズみたい」 赤十字父「ん?」 レミ「最初は 表面についた 塩がきつくて 面食らうけど 内面を知れば 他にはない 独特なコクと 甘みがある…」 「そして たぶんお父さまも…………」 「私の両親は 私が小さい頃に 亡くなってしまって したくてももうできないんです ケンカも 親孝行も…」 「だから今日は ちょっと親孝行気分が味わえて 私も楽しかった」 「こちらこそ ありがとう ございました」 赤十字の息子、宏について話しているシーンなのだが、「ペコリーノ・ロマーノ」というイタリアのチーズと宏、そして赤十字父を重ねている。そして、宏も父も、なかなか取っ付きにくい人柄であるということを見事にチーズのようだという比喩がなされ、かつだからこそ素敵な関係だと語っている。 ペコリーノ・ロマーノ http://upload.wikimedia.org/wikipedia/ja/thumb/1/12/Pecorinoromano.jpg/220px-Pecorinoromano.jpg チーズという素材を人間に結びつけ、昇華させていく手法は見事である。コマの使い回しやキャラの描き方がキツい(輪郭線が鋭い)という点で、まだまだ改善の余地も見られるが、とりわけ3巻から安定したものとなっている。次巻も非常に期待出来ると思うので、是非お手になられてはいかがでしょうか。 チーズがたべたいなあ。 チーズの時間(1〜3巻) 山口よしのぶ [原作]花形怜 芳文社コミックス ※誤字、脱字、言い回しを修正「2009/10/26」
|
マンガ批評
[ リスト | 詳細 ]
全1ページ
[1]
|
ドラゴンボールの世界は概要を話すまでもなく、日本国民に知られたものでありましょう。しかし、あえて社会科学的にその世界観を捉えると非常に面白いものが見えてくる。 |
|
私個人としては、”めがねのひと”というだけで、それこそありがとうございますと言ってしまうほどに溺愛してやまないのですが、『めがねのひと』という本書では、めがねをかけて生活している人に焦点を当てているだけのみならず、更にはめがねという物質そのものの機能的側面を捉えながらリアリティのあるマンガに仕上がっている。amazonのレヴューには辛口のコメントが寄せられてはいるが、それでも僕は本書を心優しき草食系男子たちのための推薦図書にしたいほどいいマンガであると確信している。 少女マンガ的な表現と濡れ場が見所 本書においては短編集であるが、すべて登場する女性は”めがね”を身につけている。そして、JETS COMICSであるからであろう、濡れ場(セックスシーン)が数多く存在する(ふたりエッチとか結構えっちぃ作品が多いですから)。しかし、嫌悪感がある、射幸心を煽るというよりも、読んでいて優しい気持ちになれる。なんとも不思議な構成になっているのだ。”エッチシーンはあるものの、全体的にソフトで盛り上がりが無い”とamazonのレヴューがあるがまさしくその通りである。いわゆる男性側の読者にとっての濡れ場があるマンガにおいての期待する場面は、もちろん男性or女性のフィニッシュであろうと推測する。しかし、そのような場面は本書には見受けられず、表紙買いした方は納得のいかないということもあるかと思われます。 一方でこのマンガにおいて濡れ場こそが一番の見所であると私は主張したい。これは矛盾ではないのかとお思いの方もいるであろう。”好きな女性とセックスするときに、最も大事なことをひとつあげよと言われれば、「それは相手に対する敬意だ」と私は答える”<草食系男子の恋愛学 森岡正博 p120・121>とあるような、男性と女性がそれぞれの気持ちを感じながら、お互い一緒にいる心地よさを高めていく、そんな場面が何処かしこにちりばめられてある。本書では「くもりのレンズの。」での、p80・81にかけてのヒロインが言うセリフを拾い上げると「嬉そうにしているのをみてると 私もすっごく嬉しいから だから眼鏡(コレ) はずさないでするのがいいな」とあるように、お互いの気持ちを歩み寄っている濡れ場でありながらも、野心的で肉欲的なシーンではないのである。それゆえに、僕は草食系男子の推薦図書にしたいのだ。 ”めがね”という物質的機能側面からみた、マンガに与える影響 もちろん、全話に渡ってめがねを身につけたヒロインたちが出てくるわけですが、特にめがねという物質そのものの機能を上手く用いている話もある。先ほど取り上げた「くもりのレンズの。」での、視力が悪くて彼の顔がみられないからめがねをかけていることに対し、逆にセックスのときだけはめがねを外し、本当の顔を彼の前に見せている「もう、しません」。めがねを外していることによって、音や皮膚感覚が敏感に反応している様子が描かれている「みてるだけじゃわからない」など、下手な官能小説にくらべずっと官能的、耽美的なのである。えっちぃくないことが実はえっちぃこと、僕の場合は突然雨が降ってきてブラウスが透けてしまうのはとても魅力的なのに、それこそ勝負下着とも言うべきものにはあまり興味を感じない、というような具合である(わかりにくい?)。 メガネをかけているというだけで、ひとつのパーソナリティを作る要素ではあるが、本書においてはむしろめがねをかけているヒロインはただかけているのであって、一人の女性であるとしているだけである。短編であるため、キャラが見えないぶん、全話をとおして一人ひとりの女性はばらばらのようにも思われるかもしれないが、基本的な人格を構成している、相手を思いやる気持ちというものを一貫して描かれており、本書が少女マンガ的な要素もあり、すごくいいと僕は思うのだ。 メガネ好きでもそうでない方も 実際、メガネをかけている女性が好きであれ、そうでないとしても本書は読んでおいて損はないと思う。青年指定の本と比べれば、いささか性的興奮を誘う内容は薄いものに感じられることは先に忠告しておくにしても、全体の内容自体はさらりと流れながらも心地いい感動をもたらすものである。あ〜、こういう人間関係が欲しいなあ。 めがねのひと (ジェッツコミックス)
日坂 水柯 (著) |
|
彼女たちはふとしたきっかけで合同練習を行い、日常の変化を愉しみながら成長していく物語である。舞台はイタリアのベネツィアをベースとしたネオ・ベネツィアという水の惑星アクア。 ARIAとはご存知の通り天野こずえ氏の代表作である。三度のアニメーション化、ゲーム化、OVAにフィギュアと幅広い展開をしている作品である。 なぜここまで愛される作品になったのか、キャラクターや表現論を通して論じていこう。 キャラの自立化から見る3人のプリマを目指す少女たち 水無灯里、藍華・S・グランチェスタ、アリス・キャロルという三人のプリマを目指す少女たちがいる。彼女たちの日常はいささかストーリーという波に流されずに生き生きと動き回る 。 「キャラの自立化」とは、キャラとテクストとの一対一対応的な結びつきを必ずしも必要としない状態を指す。 マンガは変わる 著伊藤剛より とあるように、例えば大筋はプリマを目指すという目標があるにもかかわらず、灯里は素敵なものを見つけては恥ずかしい台詞を言いまくる。藍華は責任感のある女の子であり、灯里に「恥ずかしい台詞禁止!」と言ってはアルという男の子に乙女心全開。アリスは義務教育中の天才水先案内人ということで、社内から羨望のまなざしを受けるものの、灯里たちが彼女を変えていく。 この三人に共通するのはあまり過去のことを遡らないのだ。おおよそのマンガは長期連載につれて過去のことを話として取り入れられている。しかし主要のキャラである彼女たちの過去は一切語られていない。唯一あるとすれば藍華の先輩、晃がプリマを挫折しかけたときの幼い藍華くらいであろう。また、暁の幼少の頃の話はコメディとしての回であるため、あまり本筋とも関係ない話ではある。 話を戻そう。このようにしてキャラである彼女たちは自分たちの生きてきた証、つまりはストーリィをアクアという星のもとでスタートさせることにより、プリマを目指すことの具体的な説明を省略したことがストーリィにおけるキャラの立ち回り方からの乖離をさせて「キャラの自立化」を成立させる。また、作品内でもキャラ達がシンプル化されて、そのシンプル化された「キャラ」が同じように動き回り、作品の本筋であるプリマを目指すということを我々に忘れさせることが更に「キャラの自立化」を促進させている要因であろう。 よって、同人誌などのコンテンツにも登場するというのは、「キャラ」を自在に転化することができるというメリットを持っているということがいえる。 止まる時間、止まる空間 ARIAの話の中には必ずといっていいほど一枚絵が存在する。そしてその一枚絵まで向かう時間はおおよそ平均的な密度で流れているのに対して、一枚絵の場面では時間・空間が静止する。ではなぜそのような現象を錯覚してしまうのだろうか。 アクアという星で彼女達を観察しているのではなく、むしろ一緒に行動しているかのように思えてしまうのはなぜだろうか。答えは「同一化技法」と呼ばれるものだ。この視線誘導テクニックがARIAをよりすばらしい世界に導く。手元にあるのならばどの巻でも良いので、開いてみるとわかるがマンガの中にカメラがあると考えてみよう。マンガの中で動くキャラたちが一枚絵の部分に近づくにつき、キャラ達の目線に沿ってコマに写真的に映し出されている。つまりはキャラと私達との目線の一致がその写真的なコマを見ることによって、あたかも時間が止まるような錯覚を覚えるのであろう。「トンネルを抜けた後の風景」みたいな爽快感のあるイメージを連想するとわかりやすいだろう。もちろんそれまでにいたるセリフ回しも忘れてはいけない。 以上の点がARIAは作品としてなかなか面白いという点である。もちろんエピソードも見ごたえがあるが、そこは他の論者にお任せするとして、ここでは表現論を主として書いてみた。
感想等をお待ちしています。 |
全1ページ
[1]




