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大野和士も書きたいのですが、後程…。 取り合えず、新鮮な印象の名演について少々。 【9/15 東京二期会公演】 ・チャイコフスキー:歌劇「エフゲニー・オネーギン」 指揮:アレクサンドル・アニシモフ 合唱:二期会合唱団 管弦楽:東京交響楽団 演出:ペーター・コンヴィチュニー エフゲニー・オネーギン:与那城敬 タチアーナ:大隅智佳子 オルガ:橘今日子 レンスキー:大槻孝志 ラーリナ:日野妙果 フィリピエーヴナ:加納里美 グレーミン公爵:斉木健詞 隊長/ザレツキー:北川辰彦 トリケ:上原正敏 今回のコンヴィチュニーの演出の鮮やかさには舌を巻いた。 1995年に初演されたというこのプロダクションは、先鋭に過ぎる最近の演出とも一線を画した気品すら感じるもの。 30日もの稽古を演出家が直接指導し、指揮者も演出家の推薦、というまさにコンヴィチュニーのための公演だけあって、その充実ぶりは予想を超えるものだった。 心理劇、サスペンスへと昇華させたオネーギンは、今まで私が聴いてきた「エフゲニー・オネーギン」とは異質の舞台芸術であったのは確かだ。 開演前、既に緞帳は上がっている。 淡く鈍い光を放つ鏡面のような板で床、壁の全てが覆われている。 舞台上には掃除人やオープン・カフェでくつろぐ人々などが各々蠢いている。 そこに現れた酔漢が、瓶の酒を口に含み、突如奇声を発して倒れる。 コンヴィチュニーお得意の異化効果を企図した仕掛けだ。 観客席を巻込んで広がる困惑と及び腰の僅かな拍手、という如何にも"日本人らしい"反応が面白い(笑)。 1幕はタチアーナ、オルガ姉妹が舞台に背を向け奥に、ラーリナ、フィリピエーヴナの2人が正面を向きながら手前に、という配置。 寄り添う手前の2人と微妙な距離と背を向けたまま、分かつ線を持つ奥の2人の対比がオペラ全体を暗示する。 また、この場面や2幕1場までの全体的に、虚実の入り混じるこの舞台の中で、非常に"実"の部分を中心とした描き方になっていたように感じられる。 心象風景を描く前の性格描写の色合いが濃いか。 そのキャラクターは意外と単純。 タチアーナは孤独な読書少女、オルガは活動的な少女、レンスキーは恋に夢中な青年、オネーギンは激情も持つプレイボーイ…といった具合。 掛け合い部分の演技は優秀で必然性が高く、一部を除けばとても満足の出来る描写となっている。 見せ場の1つである寝室の場面では、フィリピエーヴナの対応が現代人にも届く演技であり納得出来たし、オネーギンが落としていった紙切れ(これは最後に至るまで度々登場するモチーフとなっている)手紙を書くタチアーナ、といった部分は読みの確かさを感じさせる。 また、1幕最後の退廃的に酒に酔い、女を侍らしたオネーギンの痛烈な振り様も印象的だが、ただ衝撃的なだけにとどまらず、プレイボーイとして数多の女性を連れ回すオネーギンも、その手酷さから取り巻きの女達にも段々愛想を尽かされていく。 これにより、続けて演奏される2幕1場では、命名の祝宴を自ら壁を作り、孤独へと閉じ篭るオネーギンと熱に浮かされたような恋を悔やんで閉じ篭るタチアーナの性格設定に繋がり、それを周囲は放っとかず揶揄する、という社会の縮図への置き換えが活きるように思う。 また、ここでは周囲に囃し立てられ、茫然自失のタチアーナがオネーギンと踊っている場面が挟まっていた。 これは後の"死の舞踏"へ繋がる肉体と魂の乖離の伏線であろう。 ここから決闘までの道のりは割とストレートだ。 しかし、1幕で出てきたユーカリの木とハープの装置はオネーギンの交わらぬ魂を静かなメッセージとして刻んでいるのが光る。 ハープに掛けられたコートの意味はこの後に重くのしかかる。 幕間、冒頭に掲げた写真のように、幕は開いたまま、セットもそのままで奥では降雪。 人物は掃除をしたり、何事か話しながら動き回ったり、開演前と同じ様相。 そして、同じく酔漢が奇声を発して開演。 ここで前半とは打って変わって大拍手な点も日本人らしい反応で、異化効果による舞台の解体、聴衆を巻込んだ表現活動、というコンヴィチュニーの上演の意図の1つは達成されたものと言えるのではなかろうか。 個人的に興味深いシーンだった…ってオペラとはほぼ関係ないが(笑)。 この2幕1場からは前半の客観的な性格描写からより主観的な心理描写へと趣を異にする舞台へと転換。 レンスキーが迷いを独白する場面においては(現実には表れるはずのない)オルガが舞台を横切り、奥へと通り抜けていく。 示唆されるのは追憶、走馬灯であろう。 このまま、舞台は群衆が、理解し合い、決闘を避けようとする2人を追い込んでいく緊迫した恐怖を描く。 東独出身で、ブレヒトに親しみ、共産主義の面もあるコンヴィチュニーにとってみれば、間違いなく己の体験を反映させた思想的な抑圧、大勢といったものへの疑念が描かれている名シーンだ。 結局、レンスキーが死ぬシーンでは、"誰も"引鉄を引く事はないにも関わらず、"誰か"により、間違いなくレンスキーは殺される。 これを個人を大衆や体制が抑圧する恐怖と捉えるか、或いは民主主義への疑問と取るか、はたまた失われた国への追憶、と取るか。 楽しみ方は色々だが、オネーギンの心理的側面をよく捉えたこのオペラのハイライトの1つだろう。 また、この瞬間、オネーギンの手に委ねられていたのは紙に見えた。 これがタチアーナの手紙だとしたら、また面白いのだが、確認は出来なかった…。 さて、死体が置かれたまま、最も有名でこの舞台のクライマックスである3幕のポロネーズへと突入。 群衆はレンスキーの死体へコートを投げかけていき、退場する。 さながらショーは終わった、とばかりに。 余りの恐怖と哀しみに取り残されたオネーギンは呆然となり、友人の死の現実を受け入れられず、慄く。 煙草を吸い、詩人レンスキーのものと思われるノートを繰り、現実を思い知らされていく。 彼はようやく立ち上がり、降り積もったコートから友人を救い出すと、喪失の哀しみを死体との踊りにより表現する…。 コンヴィチュニーの手法としては、「タンホイザー」のヴォルフラムの"夕星の歌"においてエリーザベトを慈しみ、自殺(=浄化)を知りながら行かせてしまう、という姿と重なる部分があるが、今回は直接、死体と踊っている、という衝撃から見るとより鮮烈にも思える。 今まで私が見てきたオペラの中でも屈指の名シーンと言えそうだ。 ようやく友の死を受け入れざるをえなくなったオネーギンは、ハープに立て掛けたコートを手に取り、歩き去っていく。 失われた思い出の象徴であるハープが最も活きた場面であった。 3幕はタチアーナ、グルーミンは2階バルコニーに登場。 異化効果を如何なく発揮、なんて駄洒落を飛ばしてみるべきか?(爆) ここでは、グルーミンの歌が彼の取巻きを含めた周囲の下らない存在を否定するのがポイント。 オネーギンにとってみれば、自分と同じ考えを持つ者を発見し慰められると同時に、自分の手に入らなかったものを見せ付けられる痛烈な皮肉が表現されている。 ところで、この場面では上階で聴いていた私にはかなりPA臭い音が入り混じった響きに聴こえたのが残念。 グルーミン自体が巧かっただけに、歌は生でも会場中にかなり響いたのではなかろうか。 そして、オネーギンとタチアーナの手紙をめぐる心理劇が展開。 タチアーナが手紙を千切っていくと同時に、捨て切れない思い出の追憶が明らかとなり、後ろには表れるはずのないオルガやレンスキーなどのキャストが居並ぶ(勿論、カーテンコールも兼ねてはいるが…)。 そのまま、高潮していく音楽で一気に幕を閉じ、喝采に。 確かに喝采に値する出来の舞台と言えるだろう。 ところで、音楽について。 アニシモフの指揮はロシア語が堪能でない歌手のためになのか、忍耐の音楽の中で如何に表現するのか、という部分がポイントとなっていた。 東響のオケの表現力は予想よりは高く、健闘してはいたが、チェロの余りのピッチの悪さには辟易。 寝室のシーンなど本当にプロか?と突っ込みたくなるほどだった…。 他にも、アニシモフがギアを入れ替えた瞬間に指揮者と距離を詰めて反応していけるパートとそうでないパートが分離する場面も幾度も見え、我慢が必要な部分は多かったように思う。 音色の発音は良く、メロディ・メーカーであるチャイコフスキーの良さも沢山感じたが、たとえば新国のピットを分ける東フィルが本気で臨めばもうワンランク上の演奏を望めそうだったり、意外とオペラの適性を見せ、アニシモフとも共演予定の都響であれば更に…と考えると不満もあった事は否めない。 が、練りこんだだけあって、音楽も演出の表現の指向性によく合わせた演奏と言えるだろう。 歌唱陣ではタチアーナが素晴らしかった。 傑出したパワーとダイナミックな表現力で、手紙の場面を一気に歌い上げた事は素晴らしい。 他の歌手も総じて健闘していたし、今回の演劇的表現にも力点を置いたこの演出において、特に劣って美観を損なっていた訳でない限りは、余り云々しても仕方ないと思う。 ただ、ロシア語、フランス語、双方の発音はやや微妙だったのではないだろうか。 二期会にとってチャレンジングな企画ではあったが、日本人にとってこの辺りは難しい所だろう。 とは言ってもやはり、公演全体の満足度は高い。 ところで、コンヴィチュニー演出の舞台を生で鑑賞するのは「タンホイザー」、「アイーダ」に続いて3作目。 ヴォルフラム、アムネリス、といった傑出したキャラクター付けをされた役に核となる見せ場を用意し、加えて細かくも鮮やかで鋭い読みを思わせる種々の演出でオペラ全体を肉付けしていく、といった手法が多いように思う。 今回は、私の予想ではレンスキーが鍵となるのではないかと思ったが、オネーギンこそ真の力点であった。 ところで、上記作品はどれも割とコンヴィチュニーのキャリアの始めに近い作品ばかり見ているためかも知れないが、非常にバランスの良い刺激と工夫に溢れた舞台が聴く者にオペラを骨董品としてではない新鮮な価値を見せている。 これからも注目していきたい演出家である。 最後に…。
カーテンコールに登場したコンヴィチュニーは、女性合唱団員を手を繋いで無理矢理前に引っ張り出したり、女性歌手を両手に抱えて悦に入っていたり、やりたい放題のエロ親父っぷりが目立った(笑)。 まぁ、程々にして下さいな…(笑)。 |

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