或る駄目人間のブロ愚…orz

ラトル/ベルリン・フィルのマラ9チケット確保!今年最も期待!!

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過激「アムネリス」

…というほどでも無かったかも知れないですが…(笑)。
ただ、アイーダだけでなく、かなりアムネリスに力点の置かれた演出だったのは間違いないです。

ところで、江川紹子というジャーナリストは皆さん御存知でせう。

密かに、私は個人的に、その発言を注目している珍しいジャーナリストですが、皆さんはどれくらい彼女の趣味について御存知でせうか?
私は、昨年秋くらいにようやく気付いたのですが(遅っ!)、彼女はかなりのクラヲタのようなのです(笑)。
私のような下賎の者が吟味を重ねて選んだコンサートに彼女はひょいとやってきて、聴いていることが何度かあります。
今まで、サントリーホールだけで3回くらいは見掛けていますが、「アレクサンドル・ネフスキー」みたいな一種の嗜好が分かつ曲目でさえ、彼女はかのホールに足を運んでいるようで、多分、只者ではないでせう(笑)。
それに、今回のコンヴィチュニー演出のアイーダのパンフレットにも寄稿しています。
購入していない(ヲイ…)ので通読しただけですが、私の感想と似たような部分、また、ヴェルディの書簡を用いて作品の本質と繋げて端的に論じられていて、知性的な人の文章と己の阿呆さ窮まる駄文の差を改めて認識も…(爆)。
唐突ですが、そんな前提を了承願いつつ、以下をどうぞ〜(笑)。



4/17@オーチャードホール

歌劇「アイーダ」

指揮:ヴォルフガング・ボージッチ
管弦楽:東京都交響楽団
演出:ペーター・コンヴィチュニー
合唱:東京オペラシンガーズ
アイーダ:キャサリン・ネーグルスタッド
アムネリス:イルディコ・セーニ
ラダメス:ヤン・ヴァチック
王:コンスタンティン・スフィリス
ラムフィス:ダニロ・リゴザ
アモナスロ:ヤチェック・シュトラウホ
使者:加藤信行
巫女:ウルリケ・ピヒラー=シュテフェン

障子(日本人的感覚の極致。コンヴィチュニー的にはただの壁かも…)のような格子の入った真っ白な壁で三方を仕切られただけの部屋。
インテリアは簡素で赤いカバーのかかったソファが置かれるだけの狭い室内でのみ、全幕の舞台は基本的に進行する。
言わば権力の密室劇、という側面からコンヴィチュニーはアイーダを読み解くのだ。
そしてこのオペラでは、エジプトを背景に投影した3幕1場でもって、前段と後段に分けて考えるとより良いのではなかろうか。
そこを転換点として主役が入れ替わる様相を見せるのだ。
戦争そのものとその後を担う者、というように。
無力な個人に課せられた十字架は重く、本質的に未完結のまま、私達の世界へも同質の問題を投げ掛けて終わる、という極めてメッセージ性の高い演出だったように思う。

まず、1幕。
ラダメスの衣装は白に対し、アイーダはメイド風で黒、そしてアムネリスらも同じく黒。
この対立により、無垢なる道具として使い捨てられる運命のラダメスはより強調され、他の様々な思惑の元にいる人々の存在が明らかにされる。
1幕終盤で、ラダメスが剣を授かる際、ラダメスはアイーダへの愛のために出征するにも関わらず、儀式として巫女とまぐわる。
これで、本人だけは陰謀を知らずに、エチオピア征伐に都合良く駆り出されるラダメスの愚かしさは明瞭になる。
そのまま幕が降りぬまま2幕へと繋がるが、ラムフィスもラダメスも去った後は、巫女は何事もなかったかのように舞台を歩み去る。
権力は茶番だ、そんな思いが頭を過ぎるとアムネリスが登場。
そのままソファで自慰行為に耽る。
彼女も権力側に浸りきった存在として、描かれている部分だ。
行為を終えたアムネリスにアイーダは呼び込まれ、執拗な追求の後、秘めた思いが明らかにされると、遠くから勝利の歓呼が聞こえる。
が、歓呼は遠く響くままで、凱旋の行進はいつまで経っても現れることはない。
ここは権力者のみに許された密室だからだ。

さて、ここからの2幕2場がこの演出のクライマックスの1つである。

壮麗な凱旋行進曲の間、権力者達(王、ラムフィス、アムネリス)は下劣窮まるほどの乱痴気騒ぎを展開する。
ラムフィスはアムネリスに執拗に追いかけ、押し倒し、まぐわる。
アムネリスは拒否の姿勢は見せるも結局は受容する。
王は見ているだけで、救おうとはせず、自分も酒を飲み散らかし、滑稽な三角の帽子を被り、騒ぎに興じる。
その内、3人は揃って薬物か何かの影響か、痙攣を見せ、いよいよこの権力の腐敗を痛感すると、良心たるアイーダが現れ、そのアイーダに口止めをし、悪戯をした子供のように3人は部屋から去っていく。
掃除をし始めるアイーダ。
そこに、ラダメスは現れると、傍らに像のぬいぐるみを抱いている。
目は虚ろで、軍服は血塗れ、戦果を挙げた英雄としての凱旋ではなく、精神を破壊された惨劇の生き残りでしかない。
彼の言葉は殆んどなく、アイーダの言葉にさえ反応を見せず、命を奪い合ったとはいえ、戦場を共にした同志であるエチオピアの捕虜解放を求める瞬間だけ、人形を手放し発言するが、異常は明らかだ。
彼の発言はようやく密室から外を少し垣間見せる。
奥に場外に配置された指揮者、オーケストラ、合唱が民衆として現れる。
ようやくアモナスロ自身の嘆願もあり、王が捕虜解放に決断をすると、アモナスロは捕虜の列を離れて乾杯の輪に加わる。
権力者同士は、根本で同じ腐臭を漂わせているのだ…。

3幕1場は転換点。
唯一、部屋にエジプトの風景が投影され、このシーンがそれまでと異なることを示す。
これまで唯一の賢者として描かれたアイーダは父権の強制により裏切り、復活したラダメス(この部分は納得行かない。あそこまで精神的に崩壊させるのなら、それを貫いた方が良かったのでは?)からエジプト軍の進路を聞き出す。
王、アムネリスらも入り乱れ、混乱の最中、ラダメスはエチオピア王の親娘を逃がし、自らは殉じる決意を固め連行され、アムネリスは部屋に取り残される。
ここで、主役は戦後を担う彼女に移るのだ。
怪僧ラムフィスの本質を見抜き、剣を持って鋭く追及するも時は既に遅い。
ラダメスは覚悟を決めた後で、救う事も叶わず、アイーダも行方は知れず、彼女は悲嘆だけを抱いたまま、4幕2場の心象風景へと移行。
それまで、具体的な場面でしかなかった現実から解放され、三方の壁が崩れる。
開いた先には東京(…と思われる夜景)と黒い幕による普遍化された問題の顕在が示される。
死を待つラダメスの背後に立つアイーダ。
白と黒の衣装に分かれた2人は、死後の愛を語るが、灰色の衣装を着たアムネリスはその間に立ち、必死に現世へ繋ぎ止めようと奔走する。
助命嘆願も聞き入れられず、嘆きながらも2人から残された者としての任を託される姿を見ると、権力の業の深さを感じざるを得ない。

演出としては端的に以上のような反戦、反権力の色合いが濃いものだったが、これを『茶番』、『低予算』と表現するのも詰まらない気がする(こういう評を会場で聞いた)。
実際、演技指導などでそれなりに大変なはずだし、チケット料もやけに高いし(これは少し不満)、メッセージは受け取るのはそう難しいものではなく、そうそう茶番ではないのだが、観客の受容というのはこの程度か、と改めて残念。
それから、音楽を邪魔しない素晴らしいもの、という絶賛評も少し行き過ぎている感はある。
今回の場合、2幕のラダメスと3幕以降のラダメスに人格的な一致を見るのが難しかったり、アムネリスの急激な成長、アイーダの優柔不断などに違和感が全く無いと言えば嘘になる。
グランドオペラであるから矮小化する、といった具合に、コンヴィチュニーには異化効果によって認識を揺らがせる事に傾倒し過ぎている(パターナリズム化している)面もある。
ただ、音楽的に齟齬をきたすことなく、過激な演出をしている点は素人の私から見ても凄いものであると思う。
このような演出を見せてくれるなら、秋のオネーギンも期待したい。

音楽的には都響は若干の硬さ、平坦さが見えるも、基本的には充実した演奏を見せる。
やはり、デプリースト時代の成果は大きい。
今後もピットオケに入ってくれないだろうか…。
歌手陣はアイーダが素晴らしい!
張りのある美声に、遠目からでは充分美しく見える姿もヒロインとしての資質に疑いは無い。
アムネリス、ラムフィス、王は演技が非常に巧みだったし歌唱も充分。
ラダメスは尻すぼみではあったが、1幕、2幕は上々。
やはり安定した音楽あっての演出だなぁ…。

それにしても、コンヴィチュニーだからといって儀式的なまでにブーイングとブラヴォーが共存するのは何だか興醒めだ…。

平日昼間から暇を作り、堂々とオペラなんぞを聴きに逝く。
これぞ駄目人間の鑑って奴ですね〜(笑)。
まさに「看板に偽りなし!」の当ブロ愚です…orz

4/15@新国立劇場

・ウェーバー:歌劇「魔弾の射手」

指揮:ダン・エッティンガー
演出:マティアス・フォン・シュテークマン
管弦楽:東京フィルハーモニー交響楽団
合唱:新国立劇場合唱団
マックス:アルフォンス・エーベルツ
アガーテ:エディット・ハッラー
エンヒェン:ユリア・バウアー
カスパール:ビャーニ・トール・クリスティンソン
隠者:妻屋秀和
ザミエル:池田直樹

「魔弾の射手」は初めての実演。
しかし、演出が昨年の意味不明な「オランダ人」と同じ演出家と知って、かなり凹む…。
開演前、幕には射撃試験と魔弾の説明が。
如何にも初心者用で、説明的過ぎるという評もこの一事をもってしても当たってはいるが、ヴェルディやモーツァルトの4大歌劇とは違い、「魔弾の射手」の予備知識が少ない聴衆も多いと思われる所から、個人的にはアリだと思う。

取り合えず、隠者の芝居が幕前にあった後、序曲が始まる所から。
オケは定期用の一線級メンバーさえもピットに押し込んでいたと思われるかなり豪華な音が立ち上ってきて、まず音楽面で満足(笑)。
エッティンガーは少し遅めのテンポから音楽をかなりじっくりと練り込んでいく指揮。
腰の据わった音が響き、序曲だけでも久々に濃厚なドイツ・オペラの世界に引き込まれる。
幕が上がってからのお話は、一言で言ってしまうとメルヘンチックで3人称に過ぎる演出。
狩人達は、森を必要に応じて『使用』する人々で本来あるはずだが、民衆が森の精霊に扮したかに見える衣装は森との共存…寧ろ一体化といっても良いものに思え、中世に思想的に描かれた森に対する畏怖のイメージとそのメルヘンがどうもしっくり合致しなくて、違和感が禁じ得ない…。
そして、狼谷で幽霊に始まって火の車が舞台を飛び交うシーンまで再現した意欲的なものではあり、それは面白くもあるのだが、他のブログで目にした評のようにト書きを全てやりきってしまうような演出に思え、かえって演出家の血が通っていない、醒めた3人称の舞台のように感じてしまった。
初心者にはかえって良いのかも知れないが、熱気を持って作った音楽とは裏腹な気がする。
それから、PAは音楽に被せてしまった部分が最悪!
台詞部分で使う分には一向に構わないし、ザミュエルの声に被せるのは必ずしも否定はしないが、空疎な音楽との掛け合わせは止めて欲しい。
しかも音量バランスが悪い…orz
やはりこの演出家と心の底から手を繋ぐ事は、私には出来ないのかも知れないなぁ…(笑)。

音楽面では、珍しく招聘歌手陣が揃って巧い!(笑)
特にエンヒェンは新国お得意の『体調不良による代役』にも関わらず、この日1番の出来。
アガーテも充分実力を発揮しているし、何といってもバイロイト歌手のエーベルツによるマックスは流石。
これほど歌手が揃って良かった事は、私の新国経験では初めての事だ。
今後もこうした質を重視してキャスティングをして欲しいものだ…。
オケは冒頭でも語った通り、東フィルの中でも一線級を連れてきたような印象の華やかな音色で、そのまま定期演奏会も開けてしまう完成度と出来(笑)。
やはりオケピットは重要だ。
東響もこのレベルに至って欲しいのだが…。
エッティンガーは非常にじっくりと管弦楽は練り込んでいたが、歌手には割と厳し目の要求をする部分もあったように思う。
が、公演が既に消化されつつあるだけあって、お互いの呼吸が少し掴めているようで安定はしていた。
来年のリングと言い、エッティンガーはもう少し聴いときたい指揮者だ。

次は、先にアイーダを…(笑)。

言葉を安売りする訳ではないですが、これは間違いなく超名演!
チケットはまだあるようなので、16日にお暇のある方は是非東京オペラシティまで足をお運びになられる事を薦めます。
昨年のフランス国立放送フィルの実演も凄かったですが、それ以上に堅固なアンサンブル、そしてやはりフランスらしい、卓抜した弦楽器のヴィヴラートに管楽器の超美音が乗っています。
日本のオケとは根本が違う、筆舌に尽くしがたい音色の色彩は是非御自分で体感なさって下さい!!

4/14@サントリーホール

指揮:ケント・ナガノ
管弦楽:モントリオール響
[曲目]
・ドビュッシー:牧神の午後への前奏曲
・ドビュッシー:交響詩「海」
・R.シュトラウス:アルプス交響曲
[アンコール]
・シューベルト:劇音楽「ロザムンデ」間奏曲
・さくら変奏曲
・ビゼー:「アルルの女」より「ファランドール」

この演奏の凄さは、ドビュッシーにある。
ドビュッシーの繊細過ぎて中々充分には表現され辛い和音構造が明らかになっている驚異の演奏である事に驚く。
たとえば、海では、チェロが3部くらいにセパレートで演奏する場面などがあるが、そういった場面でも絶対的な感覚に近い程のピッチ、音量をコントロールしきった絶妙のハーモニー・バランスを取るのは序の口。
どんなに楽器が多くなっても、全ての部分でドビュッシーのスコアが見えてくる素晴らしい表現。
しかもオケは非常に几帳面に演奏してくれるので、ますます立体的で色彩鮮やかにドビュッシーが浮かび上がる。
これほど、ドビュッシーが見えてきた演奏というのは初めて聴いた…というか、ドビュッシーのテクニカルの冴えを細部に渡って見通したのは生涯初の体験かも知れない。

アルプス交響曲では、全体を俯瞰した演奏とは一味違う、もっと凄いもの(笑)。
朝日、山を登っていく場面、頂上、嵐、など限られた場面のクライマックスを軸に表現を展開していくのがこの曲のアプローチの主流だと思うが、ケント・ナガノはもっともっと大胆。
ffは全てクライマックスであるからして、クライマックスは連続していくのだ、と言わんばかりに強烈な美音によるアピールの連続で、ジェットコースター的な華やかな音楽の祝祭が広がる。
それでいて、冒頭や弦楽アンサンブルなどふとした場所で見せるpは、相変わらず美音ではあるが、何処となくドイツの香りさえ漂う室内楽を展開したりするからまたスケールが大きい。

それにしても、ケント・ナガノの指揮は初めて実演を聴いたが素晴らしい!
微にいり細にいり全ての音を掌握し、しかも絶対的なまでのハーモニー・バランスを築く様は指揮者としての能力の高さがワンランク違う事がよく分かる。
客席にも指揮者やら音楽関係者やらが随分いたようで、分かった中では、評論家の許光俊、指揮者では沼尻竜介、準メルクルなどがいたようだ。
確かに、録音もしてないようだったし、この演奏は一期一会だろうが、それにしても凄い演奏だった。
この日のドビュッシーは長く私の記憶に留まる音になるだろう。

取り合えず、以上で。
16日についても感想も認めてから…。

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昨年に続いて今年も聴いた東京のオペラの森。
エレクトラ、オテロ、タンホイザーと来てオネーギン、と何故か演目的にトーンダウンが否めない上に、来年からオペラの製作を止めるとか…orz
これぞまさに羊頭狗肉…。
残念でなりません…。



【東京のオペラの森〜オペラ公演〜】

・チャイコフスキー:叙情的情景「エフゲニー・オネーギン」

指揮:小澤征爾
管弦楽:東京のオペラの森管弦楽団
合唱:東京のオペラの森合唱団
演出:ファルク・リヒター
[キャスト]
・オネーギン:ダリボール・イェニス
・タチヤーナ:イリーナ・マタエワ
・レンスキー:マリウス・ブレンチウ
・オリガ:エレーナ・カッシアン
・グレーミン公爵:シュテファン・コツァン


しかし、取り合えず、これはかなりの好演!
まぁ、僭越ながら言わせて貰えば小澤の真価を味わった気がする。
今までは新日とのチャイコ1、タンホイザー、スペードの女王、と聴いてきたが、初めて充分満足出来る公演だったように思う。
まず、オケは1幕から弦楽器が落ち着きのある美しさを醸し出し、合唱が収束感ある声で土台を作る。
上に乗る主要な役の歌手は序盤はコレといった歌唱は聴けないが、まぁまぁ。
演技の方がかなり繊細で念入り。
"歌劇"ではなく"叙情的情景"なのだ、という某廃○inのアドバイスを図らずも実感する(笑)。
そんな事は置いといて、演出は、雪を降らせて白銀の世界を築いた中に藍というか濃紺というかのモノトーンの衣装の色だけが映る世界の描写。
農場は工場へと置き換えられているようで、ソ連を髣髴とさせるが、ソ連に私有の工場は無いから、もっと抽象的な何処かの世界だろう。
アクロバティックな舞踏ありのシーン以外は余りにも簡素な舞台が続くのは少々退屈。
全体に1幕はモノトーンに過ぎ、白銀の印象は強く残るも、冗長に感じてしまう部分が否めない。
特に第2場のベッドが、北極だかにあるとかいう氷のホテルを思い起こさせるようなもので、チャイコフスキーの倒錯したロマンティシズムとの相性が良いとは思えず、余り好感が持てない。
音楽は第2場を核として広いダイナミクスレンジを用いて大きな流れを表現する。
弦楽器が実に魅力的。
所々、ポルタメントに近いようなスラーを用いて、よりしなやかで強靭なメロディを作り出す。
しかし、まだまだ先を窺わせる演奏。

第2幕からはうって変ってカラフル…といっても舞台装置ではなく、衣装の方。
舞台装置は相変わらず氷一色のモノトーン。
忘れていたが、その幕の上がる前に、タチヤーナは手紙を読み、破り捨てる。
冒頭や第3場の頭でもオネーギン宛の手紙が幕に投影されていたり、と手紙をキーワードに置き、動機と掛け合わせて物語を紐解いていく。
意外と演出も悪くないかも知れない、とこの段階当たりで思い始める現金な私…(笑)。
取り合えず、第2幕の1場は男性が女性に馬乗りになったり、腰を合わせていたり、デフォルメされたクラブでの乱痴気騒ぎ、といった風情(…って爺臭い表現だな…orz)。
因みに、言うまでもないが、銀座にあるのではなく渋谷などにあるブにアクセントのあるクラブである事は付け加えておきたい…って益々爺臭い(笑)。
余談はここまでにして、第1場でオネーギン、タチヤーナ、レンスキー、オリガの若さを目立たせる演出。
オネーギンの悪戯。
オリガの駆け引き。
タチヤーナの憂鬱。
そしてレンスキーの酒の上での過ち。
若さ故の破綻の必定、その代償は高く付く。
オネーギンもレンスキーもお互いに相手の命を奪う気のないまま、舞台だけが整い、悲劇へと向かっていく。
特に、レンスキーは再現された1幕2場の動機と共に切々と己の遺書を綴る。
このレンスキーのアリアは全幕通じてもかなりの出来で、特にアリア前半は見事であった。
ロシア音楽の権威(笑)である廃○inのアドバイス通り、確かに巧い。
ただ、終盤は必要以上に消沈していたように思う。
声的にも楽ではないなぁ、と思うと納得。
オネーギンとレンスキーの決闘場面ではレンスキーは迷いを抱え、銃を置き、振り返ってオネーギンと対話をしようとする。
が、オネーギンは冷静にレンスキーを撃ち抜いてしまう。
オネーギンとて決闘する前までは、介添人を連れてこず、その場にいた酔っ払いを介添人に仕立てる、というほど避けようとする態度が見られたのだが…。
どちらもこのような事態を望まずして起きてしまった破綻であり、結果としてオネーギンに落ちる影がはっきりと聴衆にも映る。

3幕も音楽がどんどんと加速していき、小澤が得意とする演目というその証左が見える。
ただ、この幕では、公爵らに大きなアリアがあり、そのアリアの際のサポートに注目が出来た。
この日の演奏では、それまでの音楽の中に歌手を置く演奏だった面があったのとは異なり、歌手の呼吸を丹念に追う音楽作りに転換。
お陰で、スケールの大きな声のアリアを堪能出来る演奏に。
この幕の音楽的出来は細部までかなりのものだったと思う。
ところで、唐突に挿入されるはずのタチヤーナが去った後にパーティ会場に取り残されたオネーギンの背に女王の来場を祝う曲が丸々カット。
またも公演後にロシア音楽の権威廃○inに聞くとこの部分と3幕最後のカットはよくある事らしいが、カットの仕方が今回は割と珍しいものだったらしい。
やはりロシアオペラは今ひとつよう分からん(笑)。
演出的にはこの幕は、大人のための社交界のパーティが舞台。
タチヤーナに強い光を当て、オネーギンにはスポットの光量は控える、という歳月からの成長を投影されたもので、全体が黒へと転換し、床面も黒光りする素材を使ったことで、2幕までの舞台との対比=時間経過を映し出す。
タチヤーナとオネーギンの最後の場面では、1幕の追憶として背景に雪を降らせ、心情を表現。
思えば、この演出は心情表現を重視し、演技、性格描写に特化したものであった。
その意味では、序盤に不満は残るが、勘所を押さえドラマティックに仕上げられた音楽ともマッチした悪くないものだったかもなぁ…と浅慮を少し反省した公演だった。



ところで、今回は終演後サインを貰ってみました(笑)。
間近で見た印象は、目の光は凄く強く百戦錬磨の意志を感じさせるが、何だか音楽以外の場では余り飾る事の無い様子で気軽に応じてくれる人でした。
機会と演目次第ではありますが、日本を代表する指揮者である事は疑いの余地が無いだけに、これからも元気な内に聴いておきたい…というかヤナーチェクは聴きたいなぁ…。

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そう信じて疑わないオケを聴いてきました。
このオケの定期はまだ10回しか開催されていないので、7回も聴衆として通っている私はそろそろ常連客になりましたかね(笑)。
それにしても、この日は駅のホームで電車を目の前で1本逃し、最寄り駅に到着したのは開演5分前…。
そこからダッシュで当日券を買って着席したら指揮者が入場した所でした。
これは遅刻していたら一生後悔しそうな超名演だったので、自分に残った若さの残滓についつい感謝せずにはおれない土曜日の昼下がり(笑)。

【ジャパンシンフォニア第10回定期演奏会】

4/12@第一生命ホール

指揮:井上喜惟
ソプラノ:蔵野蘭子
管弦楽:ジャパンシンフォニア
[曲目]
・ブラームス:悲劇的序曲
・R.ワーグナー:ヴェーゼンドンク歌曲集
・ドヴォルザーク:交響曲第7番

ブラームスが大変な名演!
何が凄いって音色の厚みがまるで違う。
弦楽器は1st.から9,8,6,6,3の小編成であったが、倍を擁す有名オケ以上に渋みのある深い音色。
特に躍動する弦楽器からは複層的な力強い響きが鳴り、テンポは通常よりゆっくり目だが、退屈させられる事のない揺ぎ無い音楽を奏でる。
管楽器はホルンに不調が見られるも、全体として花を添える、という表現(そういえばこの指揮者の持論が管楽器は『華を添える』役目というものだった)以上の圧倒的なトゥッティとしての充実を見せる。
それが一体となって響く様は、ブラームスをすっきりと演奏させたり、やたらと神棚に祀るような演奏とも違う、濃厚なストーリーを伝える。
ロマの唄のような土俗を伴った激情が展開され、通常では聴く事のない名演奏を展開。
ワーグナーはソプラノとのブレンドが巧み。
全曲を通じて物悲しさを表現しながら、2曲目での悲嘆や3曲目でのもの悲しさ。
そして、終曲での次第に消え行く幅の広い歌唱とサポート。
ヨーロッパ的かどうかというより、兎に角圧倒的な質感の音がそこにある。
但し、管楽器で細かなミスが散見されたのはライブである分、仕方がないものだが(このオケだと贅沢を望んでしまう私がいる…)、オケがよく響くものだから、ついつい歌唱以上に聴かせてしまう。
ワーグナーでは、管弦楽も華やかなだけにバランスは難しいだろうが、もう少し独唱に舵を取らせてみて欲しいものだった。
ドヴォルザークは第1楽章の冒頭からホルンがイマイチで、トゥッティまでぎこちなく、音色がまるで乗ってこない。
しかし、弦楽器が物凄いアンサンブルの冴えを見せ、重量感ある演奏でペースを掴んでいくと、管楽器も段々とアンサンブルがピッタリ嵌まってくる。
この様はやはり尋常でなく凄い!
3楽章の民俗性とドイツ的な様式の折り重なった表現には感嘆。
これぞジャパンシンフォニアである、という重厚な深みを持った音色を堪能した素晴らしい演奏会だった!

ところで、ついつい会場先行発売という昨秋のブラームス1番他を収録したCDを購入してしまう(笑)。
このライナーに寄稿しているのが許光俊。
パンフレットにも同じく許光俊が寄稿している。
しかも今回も2階席にいたし(笑)。
書いてある言葉が奮っている。
「私や、他の何人かの耳がいい人たちがこれだけ彼らを高く評価しているのにもかかわらず、彼らの人気や評価がぐんぐんと高まっていかないのは、聴く人間の大半がその味わいを感じ取れないからである(中略)。つまり、彼らが立派な演奏をすればするほど、日本の一般レベルの音楽愛好家の理解力から離れてしまわざるを得ないという、悲観的な推測が成り立ってしまうわけである」だそうだ。
所詮は、私も理解力の無い聴衆であり(笑)、"ヨーロッパ"的なる音色はイマイチ理解しきれてはいないのだが、このオケは物凄いズシリとした手応えがありながら、絹地のような質感の柔らかさがある、とても魅力的な音色を持っている事は確かだ。
新発売のブラームスは聴いてみたが、実演を聴いた当初から思っている事だが、このオケのブラームスとしては1番出来が悪いと思ってしまう。
アンサンブルにいくらか穴がある点と2楽章の独奏ヴァイオリンのピッチなどが気になる。
トゥッティ部分の推進力は圧倒的だが、音色の質感の再現性もCDではイマイチ。
実演はこの何倍も凄い。
更に、このオケのブラームスはCDに収録されている第9回定期(2007/11/10)の1番と同日に行われたドッペル・コンチェルトがあり、こちらも今回の悲劇的序曲のように土俗さえも包含する凄絶な演奏で、こちらの録音を是非市販して欲しい。
ついでに、第5回定期の悲愴、第7回定期のハチャトゥリアンのヴァイオリン協奏曲、第8回定期のモーツァルトの声楽付きも是非御願いしたいものだ。
何かこれだと追っかけストーカーみたいだな(苦笑)。

どうでも良いが、このCDにはムラヴィンスキー編曲のショパンのエチュード「別れの曲」(第5回定期の際に演奏。確か初演)が収録されている。
1920年代の学生時代に書かれたものというが、後年の激しい人生からは想像出来ない柔らかい曲の編み方は有為転変の有り様を感じさせるものだなぁ、と思いつつ…。


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