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◆ヒント◆戦国武将の妻といえば、有名な者の一人はやはり、山内一豊の妻である。山之内一豊は、織田信長・豊臣秀吉・徳川家康の三人の権力者に仕えた戦国武将で、姉川の合戦や賤ヶ岳の合戦に参戦し、長浜城主となっている。そして、その妻・千代は、浅井家家臣の若宮喜助友興の娘(最近では美濃の郡上八幡城主・遠藤盛数の娘という説あり)で、夫の立身出世を支えた賢く献身的な妻として語り継がれている。いわゆる「内助の功(表立たない、内側での功績。夫の外部での働きを支える妻の功績)」の人である。
◆答え◆山内土佐守一豊=通称・伊右衛門は、親(父は岩倉織田家で家老を務めた山内盛豊)と兄を亡くし、13歳で家督を継いだ。信長に仕官当時の知行はわずか50石だった。1567〜1570年の間に織田信長の家臣となる。越前攻略戦、姉川の戦いで戦功あげ、近江唐国に200石の知行を拝領。その後も派手さはないが、1585年に近江長浜2万石、1590年には遠江掛川5万石を拝領した。1600年の関ヶ原の戦いでは、2つの忠義が高く評価され、家康から土佐一国24万石を拝領。土佐入国後は、長宗我部の遺臣たち(一領具足)に苦戦するも、これを制圧、高知城の築城や城下町の整備に力を注いだ。武力の誉れが高いわけでもなく、智謀が豊かなわけでもなく、しかし、一豊は土佐一国、石高にして24万石の大封を得たのであった。
妻の千代は、戦国武将の良妻賢母といえば必ず名前のあがる女性で、一豊が下っ端の馬廻り役だった頃からずっと山内家を支えていた。生活が苦しかった頃、米を量るマスを裏返しにしてマナ板代わりにしていたという話しや、一豊の家臣たちに飯を食わせるために髪を売った話しなどが伝えられている。そして、自分の着物も継ぎはぎにして夫のためにお金を工面した。その継ぎはぎの様を模した折り紙が、彼女の名をとって、千代紙と呼ばれているという。
一豊は、1605年に没するが、妻の千代は、一豊の没後は出家し、見性院と名乗って晩年は土佐ではなく、京都で過ごした。そのため彼女の墓は京都大通院にあり、一豊の墓も土佐から京都に移され、大通院の堂内に千代の墓と並んでいる。
◆アクセス◆写真は京都大通院。JR嵯峨野線花園駅から
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